Official髭男dism 「ミックスナッツ」 歌詞分析


https://www.youtube.com/watch?v=U_rWZK_8vUY よりスクショ

言わずと知れた SPY✖️FAMILYの主題歌「ミックス・ナッツ」である。Official髭男dismのパワーとテクニック、メロディメーカーとしての藤原聡の才能、サポートメンバーの見事な演奏が組み合わさり、異色のエネルギーを発している楽曲であるが、その歌詞の秀逸さも見逃せない。現代の愛、家族の問題と人間関係のあり方を非常にうまく切り取っていると思われるので、恋愛論、家族論の枠で分析してみる。

SPY✖️FAMILYという漫画の魅力

 スパイもの、アクションものでありながら、三者三様のメインキャラを見事に配置したこの漫画は、その配置の巧みさによって、ギャグ要素がうまく引き出されているところが、作品の魅力となっている。一言でいえば、「華麗なるドタバタ劇」であるが、やはり孤児であり人の心が読める超能力者であるアーニャを中心とし、殺し屋とスパイの大人が振り回される展開は読者を惹きつけて止まない。恋人役を探していた殺し屋ヨルと、妻役を捜していたスパイである黄昏、そして「わくわく」を求めるアーニャの3人が、互いの利益のために、秘密を持ちながらも、血のつながらない家族として、日々を生き抜いていく。この即席家族であるが、ヨルもロイドも、次第にアーニャを守るために、謎の結束を強めていくホームドラマとして、作品は見事な出来栄え見せ、瞬く間に世界的な人気を博したのは周知の事実である。

家族という問題、ロマンティックラブ・イデオロギーの窮屈さ

 この特異な設定は、それでもこの世界のある特質を表している、とみることができる。特に家族愛、さらには愛の問題である。家族愛とは、あるいは恋人の愛情とは、スパイファミリー的なものであってはならない、たまたま三者三様の利害が一致しただけではダメだ、というのが通常のモラルだ。男と女が惹かれ合い、恋愛結婚の末、愛の結晶として子供が生まれ、その子供と共に核家族を形成し、何よりも家族愛を大事にして人生を送っていく。そんな精神的な愛を至上命題とするロマンティック・ラブ・イデオロギーであるが、この理想が無理を孕んでいることは、現実を見ればよくわかる。夫婦仲が良いカップルというのは存在するが、問題を抱えていない夫婦は存在しないとよく言われる。世界中で、離婚の最大の原因は、性格の不一致であるわけだが、おそらく人間は、一生で一人しかいないパートナーを見つけ、家庭を作り一生を終える、というモデルに収まるほど、合理的でも理性的でも、賢いわけでも禁欲的であるわけでもないのだ。相手の嫌な部分を受け入れ、忍耐に忍耐を重ねないと、このモデルで一生を終えるのは難しい。必ず夫婦はお互いに不満を抱き、秘密を持ち(それが結婚外交渉ではないとしても)、すれ違いを誤魔化し、そしてそれを子供は敏感に感じ取るのである。近代核家族は終わりを迎えつつある、ダメな制度である、という言い方はしばしば社会学者によっても言われることだが、SNSが世界に蔓延し、インターネット革命が世の中を加速度的に変え、ウイルスの若く個人主義的傾向が蔓延していく中では、もはや取り返しがつかないほど破壊されていったのではないかとみることもできる。

ジョセフ・ヘンリックの「WEIRD」理論

 文化進化論を唱えるハーヴァード大学の人類学者、ジョセフ・ヘンリックによれば、今の先進国の近代的な家族制度は、キリスト教の家族政策に端を発しているという。ヨーロッパでも、世界中どこでも家族制が強い影響力を持っていたのだが、これは個を重視する文化によって解体されてしまった、ということである。歴史の偶然で、個を重視する変な「WIERD」な文化がヨーロッパで生まれ、まさに歴史における異常値となり、戦争で勝ち、経済の覇権を握り、世界の歴史の主人公になってしまったというのである。この個人主義的な文化を、西洋の(westerne)、工業化され(industriel)、教育を受けた(educated)、お金持ちで(rich)、民主主義的な(democratic)の頭文字をとってWIERD,つまり奇妙で変な奴ら、という形容詞で定義し直すヘンリックであるが、その進化論的、人類学的な立論は非常に説得力がある。大筋のところかなり真実に近いものではないかと思われる。


家族も愛も解体に向かう

 西洋型のこの個人主義的文化、ここからロマンティックラブは生まれてきたのである。さらに言えば、キリスト教、それと密接に結びついた中世宮廷恋愛などが、共同体から離れた個の意識の発達の源泉だったということである。ここら辺は拙著『恋愛制度、束縛の2500年史』で書いたとおりであり、(というとあたかも自分が発見した学説のようだが、元ネタはフランスの社会学者、フランソワ・サングリーあたりである)ヘンリックの議論とも繋がるところであるだろう。


 おそらくは個人主義的な制度、文化と、インターネット革命、SNSなどの発展により、家族も、恋愛もますます解体に向かうことが予想される。あまり指摘している人は少ないが、自由に、欲望を解放して、自分の人生を生きるべきだ、という現代グローバル資本主義からの囁きは、さまざまなメディアの中にひっそりと埋もれている。そしてそれが家族的なもの、つまり「理不尽であるが、初めからそうなってしまっているもの」を解体していくのである。要するに、家族を維持するのがあまりに大変であり、作るのもめんどくさく、世の中にはそれよりも楽しいことが溢れているのである。特に日本では人口減で経済的に下向きのトレンドはなかなか変わりそうもなく、若者の恋愛離れ、結婚に対する義務感の希薄化なども相まって、なかなか厳しい状況である。文化史的に言えば、個人主義的な文化の台頭が、自由、権利、個性、多様性、などといったワードが伝統的ジェンダーを破壊し、家族を作らなくてはならない、という社会圧力を無化しつつある、ということだろう。そうすると全ての家族がスパイファミリー的に、たまたま個人的な利害が一致したから、その流れで一緒にいる、それがなくなれば即解散、という脅威に常に晒されるわけである。

ようやく歌詞分析へ➖愛の解体と消滅、そこに抗うか否か

 愛の解体の物語として、さらには愛の日本的な解体のドタバタ劇としてミックスナッツの歌詞を考えることができる。この歌では、物語にかなり忠実な形で歌詞が展開するのだが、まず最初の歌詞である。

”袋に詰められたナッツのような 世間では
誰もがそれぞれ出会った誰かと 寄り添い合ってる
そこに紛れ込んだ僕らは ピーナッツみたいに
木の実のフリしながら 微笑み浮かべる” 
作詞:藤原聡

世間、という言葉が使われた瞬間、そこは日本の文化空間となる。権利、自由、個性、多様性とはいうものの、結局のところ同調圧力に逆らえないし、そこに逆らうのは危険だ、という処世術、コミュニケーションスキルが絶対必要になる空間である。そこには欧米型の個人主義はなりを潜めるのである。他のナッツは木の実だがピーナッツだけは地面から生える仲間はずれである。アーニャの大好物でもあるピーナッツには、「僕ら」と繋げられている。ということは、我々は、同調圧力の中、個性と本音を隠し持たなければいけないスパイのような存在である、と読めるのである。嘘の微笑み、上辺だけの笑顔が必要な世間である。家族も世間の視線に晒される。無論、作中のキャラ設定はスパイ、殺し屋、超能力者と普通の人が体験できるものではない。しかしながら、藤原はその状況を、普通の日本人の生きた経験が透かし写しになるよう、つまり共感できるように書き換えている。


”幸せのテンプレートの上 文字通り絵に描いたうわべの裏
テーブルを囲み手を合わす その時さえ ありのままでは居られないまま”

 作中では幸せな家族の団欒のテーブルの下に死体が転がっているシーンがあったりするが、ここでは家庭内でよくあるギクシャクした食事風景が重ねられている。幸せのテンプレートは、恋愛結婚ののちのパパ、ママ、子供の作る通常の家族の空間だろう。子供が成長するに従い、夫婦間が恋人関係ではなく、お互いに対する不満がつのり、家事を押し付け合う敵同士になり、ギクシャクしていくのは多くの家庭で起こることである。そこから歌詞はサビに突入する。

”隠し事だらけ継ぎ接ぎだらけの Home, you know?
噛み砕いても無くならない 本音が歯に挟まったまま
不安だらけ成り行き任せの Life, and I know
仮初めまみれの日常だけど ここに僕が居てあなたが居る
この真実だけでもう 胃がもたれてゆく”

隠し事、継ぎ接ぎだらけになってしまうのは、人類史的に見れば明らかに個人主義の影響である。以前は家父長制、家族制が絶対であり、多少の不満はあれど、「そういうものだ、そう決まっている」で終わっていたところだ。しかし個の時代、それぞれ違った主義主張をもち、違った欲望をもつもの同士が、解放されれば、「それ違うんじゃないか」と言う意見が生まれる。もちろんそれはファミリーの構成員の対立を、軋轢を生む。かつては父の母の言うことを聞くのが妥当だった。父は生きる術を、コネクションを持っていたし、そこに付き従っていけばコミュニティの中で生きていけた。あるいはそれ以外の選択肢がまるでなかった。しかし今や、父親のいうことは時代遅れとなり、子供は父とは全く違ったコミュニティで仕事を探し、生きていかければならない。家族が力を失った、個人主義の時代である。父に従うメリットがないのである。昔ながらの家は解体し、家族といえどお互いは個人。そこには「あなた」と「僕」の「仮初」の日常しかない。すなわち原理的には、デメリットが増えれば、はいさようなら、という個人的な関係になっていくということだ。
 もちろん、工業化社会、核家族が広まったのちにも、家族の愛情なるものは存在しただろう。そこには両親に対する愛着は存在した。子供に対する献身的な愛もあった。だから、デメリットが増えたくらいで、「はい、さようなら」とはならない、そこまでドライにはなり切れない、と人は言うだろう。しかし人類史全体で見れば、農村共同体の、さらには狩猟採集時代の、父母を敬うしか選択肢がなかった時代、父母の作り上げたコミュニティでしか生きられなかった時代に比べれば、その繋がりは限りなく細くなったと言ってよい。それはコスパやタイパで測られるものにとってかわる。家族よりもドーパミン、セロトニン、オキシトシンを分泌させてくれるコンテンツが生まれれば、当然大多数の人はそちらに流れる。テクノロジーの進歩が家族を解体していくのだ。

”化けの皮剥がれた一粒の ピーナッツみたいに 世間から一瞬で弾かれてしまう そんな時こそ 曲がりなりで良かったら そばに居させて”

そのような個性を持たされた近代人、近代的な制度で自由と個性の解放、欲望の追求を覚えてしまった日本的な個人にとって、世間とはずれてしまうことは必然である。特に高度資本主義にあっては、一般からずれた異常値が、個性がもてはやされる時代である。個々人の人生の進め方として、どうしてもそちら側にインセンティブがかかってしまうのだ。だからこそ曲がりなりに、利害が一致する時だけ、そばに居させてもらうことしかできないのだ。そしてその関係性は、より魅力的なコンテンツがあれば、わざわざ作ったり維持したりするような労力を割くことはしなくなる。割に合わないのだ。

このような状況はおそらく、家族愛の解体であり、ロマンチックラブの終焉に向かうしかない。もちろん今はこの途上である。多くの人がまだ家族愛を、夫婦間の、恋人間の愛を捨て切れていない。実際、他の多くのネット上の記事を見ると、この曲の歌詞分析の大多数は、「本当の家族愛」、「血のつながりを超えた愛」を讃えているのだ。しかしこれらの記事を書いた人たちは本当に、スマホを見る時間を削って、めんどくさい家族のために、時間を使うだろうか?家族での食卓での時間を楽しめているだろうか?そのための時間を使って、インターネットで記事を書いていたのではないだろうか?

スマホが与えるドーパミンを前にして、もはや家族愛や恋愛は解体寸前であるように思われる。

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