見出し画像

文学研究をマネタイズする

イケナイことだよ

これはイケない。してはいけないし、考えてはイケナイし、出来もしないことだ。カネのことを考えたら芸術がすたる!
嗚呼、文学研究をマネタイズするなど、何たる堕落!!何たるお笑い種!!

そんな声が聞こえてきそうである。というか、このタイトルを自分で書いてみた時に、自分の中で自然と聞こえた声だった🤣🤣

文学の凋落

文学研究に身を浸して、はや20年。なんとかフランスで博士論文を出版し、勢いで大学教授にしてもらい、自閉症とADHDをひた隠しに隠し続けて、今まで何とか食いつないできた。しかし、文学研究とは、完全に経済活動の外にある、という意識だった。もともとが金にならない。誰も望んでない。誰も読まない。こんなもんに人生を捧げて何になる、といった体のモノだ。でもやってしまった。マルセル・プルーストのフランス語の美しさに魅せられ、その思想の流麗たる息吹に触れたくて、フランスに留学しニート生活をかまし、35歳無職、ヨーロッパ放浪中、みたいなことをして、なんだがえらく時間を過ごしてしまった。

だから、自分は要らない人間である、という意識は常にあった。役に立たないことをしている役立たず。貧乏人は麦を食え!的なモラルの中で育ち、働かざるもの食うべからず、の価値観で競争を強制され、そこからドロップアウトした、という意識。やってられるか!と思い、利益獲得競争、資本主義よ生き残り競争には背を向けて、別の価値を探してきたのだ。僕にとって、文学、哲学はそんな世界だった。

そもそもが、今や本を読む時代ではない、偉大な作家なんてものはだいぶ前になくなった「制度」だ、
誰が今文学の力を信じている?
そんな想いがずっとあった。

メッチャ金になる文学研究?

ひょんなことから尾原和啓の『モチベーション革命』を手に取った。今、僕のもう一つの専門、アルゼンチンタンゴダンサーの普及のため、公的機関の設立を目論み、お金の流れのことを勉強しているのだが、その関連で読んでみたのだ。

そしてヒビる。こんなことが書いてあった。

2016年は邦画が大ヒットした年でした。 『君の名は。』は 興行収入が13億2000万円、『シン・ゴジラ』は80億 1000万円(いずれも2016年12月25日時点) を記録しています。

両作の特徴は、SNSで話題が話題を呼び、一度観た人が友達を誘って何度も観に行ったことです。

この現象を説明するうえで、僕はアニメ・特撮評論家の氷川竜介さんの分析にハッとさせられました。

この2つの作品の特徴は、圧倒的な絵と音のすごさで作品の世 界観に引き込まれた先にある、複雑なプロット・伏線の嵐です。

なので、つい観客は、自分が映画をどう解釈したか、自分に とっての意味合いを語りたくなります。

特に、自分なりの解釈をした後にもう一度映画を思い出すと、 その映画は全く違う魅力を帯びるのです。 だから、もう一度観たくなる、自分なりの解釈を人に話したく なる、誰かと映画の見方が変わる感動を共有したくて、誘いた くなる。

たとえ自分なりの解釈がなくても、インターネットの世界では、 SNSやブログを通して他人の解釈がシェアされていきます。 誰かの解釈を聞くことで、映画の意味・重みが全く変わってく る。「そんな見方があるなんて!」と、つい他の人にも聞かせ たくなる。誰もがうなるような解釈は、インターネット上や口 コミでどんどん拡散されていきます(さらにいえば、そういう "秀逸な解釈" を人より先にシェアできる"僕かっこいい”という承認欲求も、この拡散を加速させているでしょう

特撮評論家の氷川さん?そんな人は知らなかったが、僕が心底驚いたのは、このコミュニケーションの型こそが、まさに文学研究なのである。

凄いクオリティーの作品がある。そしての魅力とありうべき解釈について、あーだこーだと議論する。ルール違反す?ヤツがいて、様々なイノベーションを起こすヤツがいて、それが国際交流の中でカオスかする。交通整理するヤツが出てきて、そんのコミュニケーション全体が財産となり、さらに作品に価値を付与する。しかし、そんなコミュニケーションのあり方が、大ヒット作を産む?お金の流れを産む?

その手のコミュニケーションは、まさに文学研究が何千年もかけて磨いてきたコミュニケーションスタイルではないか。

そんなこと言ったら、こちとら聖書解釈からはじまり、様々なテクスト解釈について議論するためには、どんなツールがあり、どんな思考法があり、どんなメソッドがあるのか、それこそイヤというほど叩きこまれてきたではないか。そこから自分のスタイルを作り上げるのに四苦八苦して、歩んできたではないか。

金にならない、と思ったやってきた文学研究だったが、そう言えば文学研究で培った技術を応用して、授業の息抜きに学生相手にちょっとした遊び心で、現代のポップス分析してなんかをやったらそれなりにウケたではないか。もしかして、コレって、ものすごく学生たち、一般の人達に必要とされているコミュニケーション技術ではないのか?

試しにネットで「君の名は」の解釈をあらってみると、それはそれは浅い分析がたくさん出でくる。こういうのを、どういう視点や、理論を使えば、もっと深くカッコいい分析になるか、なんてのは、いくらでも教えられる。複雑怪奇な文学テクストの分析を、お腹壊すまでやりぬいた専門家にとって、この程度の作品分析など、赤子の手を捻るようなモンである。白を黒とも言えるし、黒を白とも言える。なんなら、自分で対立を自作自演して、議論を煽ることもまったく可能である。

ブルーオーシャン?日本語文化圏の壁

 これって、新しいビジネスモデルなのではなかろうか。作品についてのSNSでの分析と、作品が語られるようにするためのか「煽り」の技術。たしかに今多くのライター、インフルエンサーが書く技術を磨き、それを売ってはいるが、多分あれは共感を呼ぶための技術であり、議論を呼び込むための技術ではない。文学研究により身につけることのできる分析、討論、議論のための技術は、「君の名は」「シン・ゴジラ」が示す通り、マーケティングの中で最も重要な要素なのではないか。

映像、画像を盛る技術、これは今やスマホにも凄いレベルのアプリが入っているが、分析を盛る技術、このアプリはまだない。多分、死ぬ思いで論文を書いた人ではないと、この分析を盛る技術がある、ということに思い至らないのではないだろうか。文学研究者にとっては当たり前のことなのだけど。

もしかしてブルーオーシャン??いや、この程度のことは皆考えているだろう。マーケティングのためのライター業などは、山ほど受注がある。

しかしながらここは日本語文化圏である。議論をさけ、あるいは議論となるとすぐに人格否定となってしまう言語文化である。多分、喧嘩になる前の理性的、論理的、生産的なコミュニケーションの技術、これは需要がある、というか、日本語に創造的にインストールしていくべき要素なのではないか。

和合主義的な日本語文化の壁がまたもや立ちはだかる。西周、中江兆民、福沢諭吉がぶつかった、日本語文化圏の壁。丸山真男が無構造といい、大島仁が並列構想と呼んだ、日本文化。。。表面だけの受容か、はたまた存在の拒否の2択に陥ってしまう、オモテとウラのコミュニケーション。

日本思想の創造性について思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?