恋愛輸入論の是非

初めての一般向けの著書で、ちょっとした遊び心から小谷野敦先生を煽ってみた。基本的に彼の書くものは読んでいて楽しい。特に僕は日本の古典に疎いので、古谷野さんの著書をブックガイド的に使わせてもらったので、ご恩はあれど言いがかりをつける筋合いはないのだけれど。いたずら心から、もしかしたら煽りに反応するのでは、と思って著書にちらっと反論を書いてみた。そしたら、その反応速度の速さたるや😅アマゾンで僕の著書の発売案内がでるやいなや、ツイッターにて反応。読む前から反応するとは、さすがである。面白すぎるので、ちょっとやり取りさせて頂いた(まとめがどっかにあったのだけど、検索に引っかからない。暇なひとは探して教えてください)。

基本的に恋愛輸入論は正しいか、間違っているのか、を議論するのは不毛である。著書には「恋愛輸入論は否定できない説です」とか書いてしまったし、勤務先の授業でも話題にしたので、もうちょっと補足。

まずは小谷野さんの主張、実名でのアマゾンレビューより。

「小谷野敦
5つ星のうち1.0 恋愛輸入品説
2019年12月28日に日本でレビュー済み
間違いだというのにしつこく繰り返される恋愛輸入品説である。万葉集、源氏物語など日本の恋愛文藝をどう位置づけるのか、著者はおおむねフランスを中心とした文芸にあらわれた恋愛観を叙述するだけで、アジア、日本のことはよく知らないらしく現代の歌謡曲などでお茶を濁している。またアンドレアス・カペルラヌスをフランス語風に「アンドレ・ル・シャプラン」とし「シャプラン師は」などと書いているが、シャプランは「宮廷付き司祭」の意味だから間違い。
6人のお客様がこれが役に立ったと考えています」

多分本人よね、これ(笑)。いやあ、シャプラン師のところは実に恥ずかしい。これはほぼ小谷野さんの言う通りである。そして、唯一の星一つなんてとこも、どこまでも小谷野臭漂う🤣。彼の言う通り、僕はアジア、日本のことはよく知らないのも事実で、「現代の歌謡曲でお茶を濁している」のもそうかもしれない。ただJpop分析はラジオでもしたし、この方面はもうちょっと頑張って本にしたいので、今書き溜めているところである。ノートで少しずつ公開しとくべきだよな。やはり。

授業でも小谷野さんのように反応する学生も多かった。恋愛輸入論の否定の根拠はこんな感じである。日本には昔から恋愛感情はある、古今和歌集、いや、なんなら古事記から、恋愛は描写されているではないか。人間にとっての基本的な感情を「輸入」した、などはわけがわからない。西洋万歳の欧化主義をいつまでやるつもりか。西洋を規範として押し付けてくるのはやめてほしい。

しかしながら、そう言われても困るところもある。たしかに、信頼できる研究者からも、僕の本は「フランス中心主義」すぎるよね、と怒られたりもした(特に大嶋先生、ありがとうございます。がんばります)。それは真摯に受け止めないといけない。実際フランス語文献ばっか読んでるし、研究対象もそちらなので、フランスに引きずられてしまう。ただ自分自身としては、フランス中心主義は大嫌いなのである。これはパートナーさんとの日々の夫婦喧嘩の中で散々主張していることでもある。僕の家庭内闘争を動画にとって見せたいくらいであるのだが、子供の目もあり、やめておく。こういう僕の生の実感がまだ本にはうまく表れなかったらしい。ここら辺がまだ誠実さにかけるな、と反省するところではある(それに小谷野さんに言われた通り、頑張ってアジアの恋愛文献を読まねば。といいつつ、最近はラテンアメリカものばかり)。いずれにせよ、そう読めるように書いてしまったのは大反省であるが、こちらには西洋を規範として押し付ける気は毛頭ないのである。気持ち悪いし、ダサいし、そんなことは絶対にしてくないのである。

かたや、恋愛輸入論の主張は僕なりに書くとこんな感じであるー明治以前には「色」「情」「恋」など、肉体関係こみの言葉しかなかった、しかも仏教の影響で、そうした色恋沙汰を低くみる傾向も強くあって、色恋沙汰を人生の基本的な価値、とする見方はなかった。しかしながらヨーロッパの「恋愛」は、基本的に肉体関係の恋愛は低く見られて、むしろ精神的な恋愛万歳、精神の恋愛こそ人生の一大事、というかほとんど最高、唯一の価値、くらいの勢いだった。これがないと野蛮だと思われるし、そもそも明治維新の村落共同隊では、夜這いやら盆踊りの乱交やら、ろくでもないことをやっていたので、こんなものは全部蓋をして、西洋風の精神的「恋愛」に身を包まなければならない。当時の植民地主義隆盛の巨大なプレッシャーの中、野蛮と思われないように、植民地にされないように、根性で西洋の「恋愛」を日本文化にぶち込む。それが明治の知識人、特にヨーロッパ主義者たちの恋愛観だった。そして僕が見るに、彼らの試みはかなりの程度成功した。北村透谷の「恋愛は人生の秘薬」というのにはさすがに賛成しないけれど、勤務先で僕がするアンケートでは、今の学生はほとんどが、恋愛に肯定的な価値を認めている。明治の知識人、作家が頑張って恋愛文化を日本に輸入した成果だと思う。そしてもっと大きいと思われるのが、メディアの影響である。現代の若者がどれだけロマンティック・ラブをベースにしたディズニー、ハリウッド映画や、日本の漫画やアニメを見ているか。ロマンティック・ラブの入っていないものを探すのが難しいくらいである。その意味で西欧流の「恋愛」は日本に輸入された。少なくとも、人生の価値として認められてはいなかったものが、認められるようになった。そうした変化は確実にあった。僕の考える恋愛輸入論はその程度の話である。

無論精神的な恋愛が明治以前になかったわけではない。しかしながら、人生の価値として肯定的に評価されるべき精神的恋愛はなかった。しかも西欧文化の中で培われた、個人主義と密接に結びついた精神的恋愛は皆無であった。そうである他なかったと思われる。言語学的な観点からも、日本語には、あらゆる動作の基体となる主語が唯一不変ではない。ワタシの形が、周囲に合わせて変わる。周りの空気、上下関係、ヒエラルキー、礼儀の中で、使用すべき一人称が決定される。こんな言語を幼少期から使っていて、ヨーロッパ的な個が生まれるはずがない。うまれるとすれば、かなりの自閉症か空気の読めない注意障害者くらいなものである(私のことも含め)。

だから西洋的恋愛を「恋愛」という訳語を作って輸入して、文明人のふりをしようとしたが、そんなものは最初から無理難題であった。にも関わらず、日本の「情」「色」「恋」の文化は、正面から激しくビンタされたのである。はい、それらは西洋の価値観ではダサいので、言葉変えます……なんと言っても古臭く野蛮な雰囲気がします……「恋愛」と呼び名を変えましょう……我らは文明人です……

つまり、正確に言えば、「恋愛」は輸入されたのではなく、ラベル替えが行われたのである。日本酒のラベルの上からワインのラベルを貼って誤魔化したのである。昔からあった、村落共同体、日本語言語文化たる恋、それはキリスト教文化圏で、英国、フランス語、ドイツ語、スペイン語で育まれた恋愛とはかなり趣きが違うものだった。その最たるものが私見では「個」であると思う。周囲の空気を読まず、自分自身の中にこそ真理がある、とする西洋的個。

恋愛の不完全な輸入、と僕が『恋愛制度、束縛の2500年史』で言いたかったのは、その程度のことである。

じゃあ、それが良かったことか?そこにはいいことも悪いこともあったし、そもそもいい悪いの問題ではない。歴史の問題である。そこからいかに生産的な、面白い、「変な」文化を作っていくのか。

タンゴで日本的恋愛を表現しようと思います
😁

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