見出し画像

聞くは野田弁、語るは西讃岐弁

先日見て感銘を受けた「福田村事件」ですが、事件のきっかけは関東大震災の時の「朝鮮人」「社会主義者」等の治安混乱のデマですが、村で香川県の行商人が朝鮮人として殺害を受けたのは、彼らの讃岐弁を理解できなかったからと映画でも、また史実としても示しています。

この事件のあった福田村は今の野田市、行商人は香川県の三豊市の出身です。
野田にももちろん方言があります。野田弁というのだそうですが、一方、三豊は西讃岐弁なのだそうです。
実は映画の中での行商人たちの西讃岐弁は広島弁にも近い感じで、私には全然違和感のない言葉(普通にわかる言葉)。野田弁も「だっぺ」とかイントネーションが茨城弁に近いところもありますが、まあ日本語の方言としてわかります。

じゃあなぜ、大正時代は聞き取れなかったのか?といえば「その音を聞いたことがなかったからわからなかった」というのが答えだと思います。
聞いたことのない言葉としての方言だけでなく、イントネーション、アクセントも異質だったら、音としても耳に入ってこなかったのだと思います。

関東大震災の起きた1923年(大正12年)は、テレビはもちろんない時代ですが、ラジオも1925(大正14年)に東京でラジオ放送が始まり、1928年には北海道から九州までの全国放送ですから、大震災の時はラジオもなかった。
もちろんラジオがあったとしても、NHKの前身ですから標準語、東京語の放送ですので、西讃岐弁が放送で流れるのは随分後のことでしょう。

では音楽は?1910年に日本初めてのレコード会社、株式会社日本蓄音器商会により、平円盤にトップを切って吹き込まれたのは「秋田おばこ節」、翌年には「越後盆踊」を市販したそうです。
ですから震災前にはぼちぼちレコードで地方の民謡を聞く、方言も聞けるチャンスはあったかもしれませんが、野田村のような田舎はまだだったでしょうか。
讃岐発祥の民謡には「金毘羅船々」がありますが、これも方言ではないですしね。となると、レコードで聞くこともほぼなかった。

もう1つ方言を聞き取る可能性があるとすれば軍隊でしょうか。この映画でも「在郷軍人会」が結構な人数いましたし、日清戦争に行った老人(柄本明)、船頭役(東出昌大)も第一次大戦経験者と言っていました。彼ら軍人軍属が戦地で他の地域の方言を聞くことはなかったのか?ということです。

千葉県出身者は歩兵第二連隊(佐倉)に入るのが通常だったようで、恐らく彼らも歩兵第二連隊の兵士として大陸に行ったのだと思います。
一方讃岐は丸亀の歩兵第12連隊でした。こちらも日露の旅順攻囲戦、シベリア出兵行っていますので、互いに他の連隊の話す方言を聞くことはあったろうと思います。
当時の「在郷軍人」あるいは「予備役」「退役」がこの時代は日本という幕藩体制という交流が制限された時代からの転換点の時代における、(国内)グローバリストであったのではないでしょうか。その彼らが「こいつら日本語じゃない」というのは物凄く力を持ったと思います。

でもこのことはわずか100年前のスタンダード。それから多くの方言が標準語や強い(話者の多い)方言に統合され、失われ、音も消えていったと思います。以前も書いたように民謡で細々と残っているだけかもしれません。

今NHKラジオの「こころをよむ」では「方言と日本のこころ」をやっています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?