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市民を撃つな!

毎年この時期は私も参加させていただいている「ヒロシマ・ピース・センター」の谷本清平和賞の授与式と平和弁論大会があり、19日の日曜日晴天のもと開催されました。
ちなみに私は、春の理事会で行われる平和賞受賞者の選考と弁論大会の審査員を務めています。
今年の谷本清平和賞は「スティーブン・ロイド・リーパー」氏でした。受賞スピーチも大変すばらしい、ユニークなもので感銘を受けました。氏の今後の活躍にも期待したいです。

さて弁論大会ですが、今年は7ヶ国10名の留学生の参加でした。国は中国・オーストリア・台湾・エストニア・ドイツ・フランス・コスタリカです。
タイトルが「平和」であり、また広島に来ている留学生が対象なので、当然ながらスピーチ内容も、そのあたりを重視します。
審査項目は「内容(論理構築)」「日本語力(暗唱含む)」「表現力」「感銘度」になり、それを審査員がABCで評価、さらにそれぞれ±が加わりますので、最高評価はA+(まれに++あり)、最低評価はC--です。
今回は審査員全員がA評価のエストニアの高校生が第一位でした。

私はこの審査員をコロナ前から10年以上務めさせていただいていますが、年々スピーチの内容が変わってきていることも感じています。
それを一番感じるのは各国の学生さんが以前は「祖父母のから直接聞いた体験で」とそれぞれの国の戦争や悲劇を自分の家族の話として口にすることが多かったのですが、今は「曾祖父母の体験を聞いたことがある」と、直接のヒアリングではなく、伝聞に変っていること。つまり留学生が来るような国では直接的な戦争紛争状態はもう3世代以上起きていないのです。日本ももちろんそうですね。
だから平和の話は家族やコミュニティといった身近なところではなく、世界や国といった大きな単位での話になり、どうしても実感と距離のある観念的な捉え方になってきています。一方平和に対するアクションの対象としては一気に小さな単位である友人との関係に狭まるのです。

またそういった自分の体験の要素が減り、観念的な話の論理になると、個々の言葉、主張が薄れます。「あなた自身の言葉、考えなのか?」もしかしたらじょうずに話すために、指導する先生が相当に手を入れてしまってはいないか?そんな感じがあります。
今回4位のドイツからの高校生は全く違いました。彼は徹頭徹尾自分の意見・疑問・主張を投げつけます。確かに日本語力の部分は十分ではないのですが、彼自身がこのスピーチを書いたのだなとはっきりわかるものでした。実際私は彼に優勝者(A+)に次ぐ第二位の得点(A)を付けました。

一方中国からの参加者が4人いましたが、彼らは切り口は異なるものの共通性を感じるところがありました。それは国(政府)に対するゆるぎない信頼の強さです。不特定多数の前での発表なので「建前」「きれいごと」は多分にあると思いますが、中国の小中等教育の徹底を感じざるを得ませんでした。かたやドイツの学生はその対極です、自分を見つめ、国や世界に疑問を持つというものだっただけに、違いが際立ちました。
実はそこを含めて感じたのは、このスピーチ原稿どこまで本人が書いているのかということでした。日本語表現が上手な人ほど、自分を感じられず、もしかしたら生成AIで作っているのでは?過去の評価点の高い人の傾向を入れて自動生成。そんな時代に来てるのではないかと背筋が寒くなりました。

今回谷本清平和賞を受賞されたスティーブンさんは、やはりその対極。世界や国が良いようにしてくれる考えなんか一つもありません。自分が疑問を持って考え、小さなコミュニティから良い世界(まずはコミュニティ)で実践するという生き方を目指しています。
やはりそれに共感したのでしょう、表彰式の後の交流会では先ほどのドイツからの留学生、さらに同様に自分の意見を述べたコスタリカの留学生の二人がスティーブンさんにベッタリ質問攻めでした。なんだかその議論をしたいというのが主目的で、弁論大会に出たのはそのための手段だったようにも感じられ好感度大。希望を感じるものでした。

今回交流会では中締めのご挨拶も担当しました。その中で

「平和の根っこにあるのは「困った人は助ける」「自分がされて嫌なことは他人にしない」という子どものころから教えられた2つ。さらに「自分がされてうれしかったことは他人にする」ということですが、それは相手との関係なので難しい。でも前の二つは誰でもすぐにできること。
広島は核兵器廃絶と声高に言うけれど、核兵器とは市民に対して無差別大量殺人を行う武器。だから市民に対して無差別大量殺人をするな!というのは広島の役割。決して核兵器のことだけではないはず。
広島市は平和連帯都市の会長都市です。そして多くの参加都市の中にはエルサレムをはじめとするイスラエルの都市、ガザを含めてパレスチナの都市が仲間として入っています。どちらが正しいとか正しくないというのは世界政治の話。しかし平和連帯都市という市民のレベルでは「市民に対する無差別大量殺人をすぐにやめろ」ということは、ともに平和を希求する仲間に対する会長しての広島市長としての責任であり、またその都市の選挙区から選出された総理大臣の姿勢が問われていると思います。
だけど私たちも彼らに丸投げしたり、無能無策だというのではなく、我々市民一人一人が声を上げて「市民を殺すな」というべきだと思います。

というはなはだ感情的な閉会のあいさつでした。

タイトルはエルトン・ジョンのアルバム「ピアニストを撃つな!」から拝借。いつの間にか戦争は兵士同士の戦いから、無関係な市民対象になってしまってます。エルトン・ジョンの同アルバムの中の「ダニエル」はベトナム戦争兵士の歌です。

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