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クリスマス(動詞)

今年のクリスマス時期ですが、23日の土曜日下関に用事があり、女房と二人で行きました。最初は車で行く予定だったので、しんどいからと下関のホテルを取りましたが、先週後半は天気が荒れ模様(広島も雪)でしたので、下関辺りは日本海気候でもあるので、車はやめて新幹線に切り替えました。
ということでホテルの1泊は変更しなかったので、用事の終わった翌日の日曜日は北九州に足を延ばしました。そうこの日はクリスマスイブです。

今年の2月にnoteにもアップしましたが、江田島の講演会に行きました。

とても良い講演会で「生笑一座(いきわらいちざ)」も素晴らしかったのを思い出し、そうだ、北九州なら奥田牧師のいる「東八幡キリスト教会」の日曜の礼拝に参加してみようと、女房と参りました。

受付でご親切に対応いただき、聖書と讃美歌集をお借りして、なんと前から二列目の席にご案内頂きました。その礼拝の様子は動画でアップされています。

私はプロテスタントではありません。大学もイエスズ会系に進んだので、もちろんそこでは宗教学とかキリスト教的倫理学を学びはしましたけれど、恐らく多くの日本人同様に仏教徒(曹洞宗)であり、神道に親しむものです。
とはいえ、仏教は哲学であり、神道は儀式(形)であり、キリスト教は行動における倫理、と組み合わせてとらえています。

この日は丁度クリスマスイブの礼拝だったので、賛美歌を歌ったのも初めてでしたし、ハレルヤコーラスも聞いたことはあるけれど口を開けて歌ったのも初めてでしたが、おかげさまで初めて知ったこともたくさんあります。その中の二つを紹介します。

1つ目はイエスの誕生は25日なのに、なぜ前夜の24日にクリスマスイブとしてお祝いするのか、ということ。これを石橋牧師さんが教えてくれました。
それは当時のユダヤの暦では一日の始まりは日が落ちてからがスタート、ということなので、イエスの誕生日は今風に言えば、24日の18時頃から25日の18時までのサイクルになるので、クリスマスイブにお祝いするのは間違っていないとのことでした。

2つ目は聖書には、イエスの誕生に関わる話はマタイ福音書とルカ福音書にしか出ていないそうで、またそれが少し異なる話になっているとのこと(これは先ほどの動画の14分あたりからをご覧ください)。マタイはイエスの父のヨセフからの話、ルカはマリアの話としてイエスの誕生をそれぞれ書いているとのことでした。

こちらの礼拝で感じたのは、他者のために祈るということでした。もちろん自分のために祈るのでしょうが、それだけでなく知っている人、知らない人を含めた他者のために祈るという気持ちがあらわれていることでした。
カトリックのミサなんかでは、祈りの対象が個人と世界みたいな極端な2方向性を感じるのですが、プロテスタントのミサでは個人と世界の中間にあるコミュニティとか仲間といった人たちへの関心、関りを強く感じました。

礼拝の後、奥田牧師さんにご挨拶することもできました。茶話会にもお声がけいただいたのですが、広島に戻らねばと早々に失礼いたしました。礼拝受付では「東八幡キリスト教会」の資料、帰る時には奥田牧師から「NPO法人 ほうぼく 抱樸」の資料もいただきました。

東八幡キリスト教会
NPO法人 ほうぼく 抱樸

広島に戻り、夜の「燭火礼拝」は動画のライブで拝見しました。
奥田牧師の「クリスマスは名詞ではなく、動詞。走る、動くと同じようにクリスマスするというのは、この一日は目の前にイエスが現れて「何を感じていますか、何を考えていますか」を問うているのです。そのことが「動詞」としてのクリスマスの意味。
世界中が大変な時、自分にとってもどうしようもなき気持ちの時は、イエスであろうとそばに来てくれるなと思うような時があるでしょう。しかし来てくれるなと思う時であっても、イエスは無理にでもそこに場所をくださいと来るのです。動詞のクリスマス、皆さん一人ひとりの目の前にイエスがいます、そこであなたに問うています。一人ひとりの答えは違うでしょうが、その答えがあなたの今年の、そして来年の生きる約束です」
というようなお話でした。
私もライブを見ながら目の前にイエスが来て問うておられるとイメージして自分自身の心の内にも問いかけ、自分ながらの答えを得ることが出来ました。

なんとなく神仏が目の前に現れると、すがるようなイメージ、何かを与えてくれるようなイメージなのですが、今回感じたのはイエスは与えるのではなく問うておられるということでした。私にとって本当に良いクリスマスになりました。また世界が平和であることを真に求める一日にもなりました。

もちろん「燭火礼拝」のライブの後には、 抱樸の「希望のまち」クラウドファンディングにもわずかながら寄付をさせていただきました。是非皆さんもご協力をお願い申し上げます。

そう言えばクリスマスイブにこんな出来事があったようです。

確かに心待ちしていた方にとっては残念なこととは思います。しかし罪びとを探したり、SNSであげつらうのは果たしてクリスマス(動詞)なんでしょうか。本来のこの日の意味を噛みしめて、イエスの誕生にちなみ許しの実践を行う絶好の機会だったのではないでしょうか。

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