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荊妻と鰯鍋

先日ネフスキー氏の「月と不死」という本を読んだことは書きましたが、この中にヘボ将棋を指すくらいの仲良しの関係を

「荊妻の生家と鰯鍋くらいの中」

と書いてあったのですが、聞いたこともなくさっぱり意味が分かりません。
調べると「荊妻(けいさい)」とは妻をへりくだった言い方。
「鰯鍋」を調べると、「イワシを煮た臭いは鍋に残ってなかなか消えないところから、縁の絶ちがたい間柄をいう」のだそうで、つまり「私の女房の実家とは縁の深い間柄」という意味なんですね。

写真は炊いた鰯でなくメザシ。広島名物の小鰯は初夏の味、まだ半年先なのです。

さてその「月と不死」は日本や中国はなぜ月を歌う詩が多いのかを民族的に説明しています。

東スラブでは春の豊穣の神としてヤリーロ(ヤール)を崇拝しています。北国のスラブ世界においては、輝ける温かい光を与え、冷たい単調な自然に包まれる中、唯一の悦びをもたらす太陽は懐かしくも心近きものと考えられています。
一方哀れさをも感じる冷たい月の光、ただでさえ哀れを感ぜしめる月には心動かされるものはなかったそうです。
それゆえ、ネフスキー氏は民族的な見地から月の意味を探ろうとしたのですね。月は古今和歌集のよみ人しらずに

「わが心 なぐさめかねつ更級や 姨捨山に照る月を見て」
など沁みます。

ネフスキー氏の本の中に、宮古群島の多良間島に伝わる伝説が紹介されています。多良間島はこちら。

その部分を旧仮名遣いを改めながら無断抜粋します。

「宮古群島の多良間島に伝はる伝説によれば、太古、妻-月の光は、夫-日の光よりはるかに強く明るいものであった。ところが夫が羨望の余り、夜歩む者には、この様な目を眩す光は不必要だという口実で、少し光を自分に譲る様、屢(しばしば)月に願ってみた。然し妻は夫の願いを聞き入れなかった。そこで夫は妻が外出する機会を攫んで、急に後から忍び寄り、地上に突き落とした。月は盛装を凝らしていたが、丁度、泥濘の中に落ちたので、全身汚れてしまった。
この時、水の入った二つの桶を天秤棒につけて、一人の農夫が通りかかった。泥の中でしきりに(もが)いている月の姿を見て、農夫は早速手を貸して泥から出してやり、桶の水で綺麗に洗った。それから、月は再び蒼穹へ上って、世界を照らそうとしたが、この時から、明るい輝ける月の光を失ってしまった。
月は謝礼として農夫を招き、この招かれた農夫は今尚留まっていて、満月の夜、この農夫が二つの桶を天秤棒につけて運ぶ姿がはっきり見受けられる。」

春夏秋冬、いずれの季節の月も眺めればさまざまな思いになりますが、それはこの国、この地が積み重ねてきた感性のお陰なのだろうと思います。

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