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空間→時間→個の変化

私は20世紀少年以来、木南さんが好きなのでこのドラマは見ていました。

なかなか面白く見ていたのですが、このようなことになるとは驚きました。原作の漫画は読んではいないので、どう齟齬があったのかはわかりませんが、正直終盤は少しお約束の展開のように感じました。

以前も書いたことがありますが、私は歳をとってきたことが要因と思いますが、1時間ドラマというのは飽きてきます。30分ドラマが好きなのでテレ東やNHKの15分ドラマくらいしか見ません。
NHKの15分ドラマと言っても朝ドラはねぇ~。続けてみるのも飽きちゃうし、最近のNHKドラマは役者や芸人が大勢出てくるので、なんだか「財布」を見せつけられているようで辟易します。

そういえば女房がこれ面白いよと言われてお付き合いしたのが「不適切にもほどがある!」という宮藤官九郎氏のドラマ。見ていて「あまちゃん」のテイク2なのだなと思いましたが、ゲッソリしたのが阿部サダヲ氏の声のデカさ。女房に「これTBSじゃないの?半沢直樹の香川照之みたいな大げさドラマか…」と途中で離脱しました。半沢も大げさな顔とでかい声が嫌いで結局見なかったのですけどね。まあ第二話以降も見ないと思います。
そうそう「不適切」で唯一噴き出したのは登場人物が好きなタレントが中森明菜じゃなくて「井森美幸」という所、さすが宮藤官九郎は相変わらずで、小泉今日子さんもポスター登場し、昭和のツボを心得ておられます。
蛇足ですが20世紀少年で木南さんの役名は「小泉響子」さんでした。昭和だ。

この東洋経済のコラムはなかなか良く書かれていて、テレビドラマの現状と問題もはっきりと書いてあるのに好感が持てます。私は昭和の人間なので、映画の衰退とテレビの黄金時代を謳歌した世代です。さらにテレビからネット配信への移行も見ることが出来ました。その中で感じるのは映画→テレビ→ネットという変遷。これは空間→時間→個の変化と思っています。

映画は映画館で見るもの、その場所に同時にいる人がスクリーンを見て楽しんでいました。共に笑い、共に泣きはその空間にいる人が共有し、感情を増幅していたと思います。

テレビになると家でみますから、空間的な場を共有するのはせいぜい家族、そのうち一人1台という時代になり、空間の共有はなくなります。しかし何時のドラマというように(録画しない限り)、その時間にチャンネルを合わせる人は山ほどいましたし、「昨日の○○見た?」というような話が普通にありましたから、空間は別でもその時間を共有していたように思うのです。

それがネット配信になると、場も時間も共有していません。個人が個人のために個人の都合で見る、感想もリアルに話し合うよりもSNSでアップする。そう変わっていったと思います。

そうみていくと、テレビも映画の歩んできた道をそのまま進んでいくのだと思います。映画やテレビは制作に巨大な金がかかるので、資本がないとできませんでした。映画は松竹、東映、東宝も大きな撮影所を構えていましたし、テレビ局も大きなスタジオを持っていました。今はデジタル化したのでかつてのような大規模なスタジオで、大道具・小道具を用意し、職人芸で撮影しなくても良いし、CGもAIをつかえばさらに簡単で安価にできる。
いずれは役者も本人でなくてもフェイク画像のように登場させて、演技も出来るようになるでしょう。
とするとそういったドラマで何が肝になるかというと、原作・アイデアであり、肝心なのは脚本だとおもいます。

映画の本場、ハリウッドではもう何十年も新しいものは生まれていないように思います。もともと原作は小説とかを使っていましたが、今は時代の流れに即して漫画やコミックに移り、海外のドラマやかつてのドラマのリメイクばかり。ヒットしたらパート2,3。トム・クルーズはミッション・インポッシブル、トップガンでも戦闘機のりから教官役、シルヴェスター・スタローンはロッキーやランボー、さらにエクスペンダブルズと老いた身体に鞭打ってお約束の演技を続けています。シリーズは水戸黄門みたいなものですわ。

そうなるとハリウッドも新鮮な原作を血眼で探しているのがよくわかりますし、その構図は「セクシー田中さん」のようなテレビ局も同様でしょう。

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