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大きな記録よりも小さな記憶

昨年の私のベスト本は「沖縄の生活史」だったことは年末にアップしました。そこでも書きましたが、私はオーラルヒストリーの力強さを信じています。大きな声は本当の姿から遠いもの、小さな声、それも様々な視点やバックグラウンドを異にする人の声の積み重ねで全体像をイメージするのがとても大事だと思います。
その「沖縄の生活史」の共著者であり、聞き取りをしてという方法で進められたのは京大の岸政彦教授ですが、氏は「生活史調査は聞くという体験を通じて、語り手の人生に飲み込まれていくこと。生活史を書くということは、生活史を聞くという経験を再現しているということ」とされており、さらに読む自分はどうかというと、生活史の体験を小さな自分がまた再体験し、語り手の人生に飲み込まれるような感情になるのです。

年明けから氏の「にがにが日記」というのを読んでいるというのは、先日の町田康氏のコラムと併せてアップ済みですが。その「にがにが日記」の中に阪神淡路大地震のことが書かれています。
その前に今年の1月17日のNHKの報道から。

ここには嘘はないし、加工しているとは思いませんが、取り上げられているのはまさにNHKが取り上げたい形の絵と言葉のように思います。つまりこれは「大きな言葉」でデザインされたもの。
「にがにが日記」はまさに岸氏の一人語りの日記ですから「小さな声」

順序は逆になりますが、2021年の1月17日の日記の一部

「1995年の1月17日から26年。
途中でタバコ屋が、つぶれて、焼けて、がれきになってるところの、家の前をおばちゃんが掃除しとったんですわ。
あれは忘れんわ。
家の前にようけタバコ落ちてるんですわ、散乱してて。
おばちゃん、これお金置いとくさかい、ひとつもらうでって言うたら、お金いらんからなんぼでも持ってって。ぜんぶ持ってって、って。」

次は2018年の1月17日の日記の一部

「その日はたしか、修士論文の提出日だったが、どうせ締切は延期されるだろうと思って、事務室に電話もかけなかった。そんなことどうでもよかった。
数日して落ち着いてきたころに、大阪のYMCAを通じてボランティアにひとりで参加した。たいしたことはしていない。物資、とくに衣料の整理と仕分け、あとは被災地で一軒ずつ訪ねて水を配った。
最初に派遣されたのは西宮と芦屋で、十三で乗り換えて阪急電車の神戸線に乗り、神崎川を越えたあたりから街の風景が一変した。戦争が起きたらこういう感じだろうか、と思った。
芦屋では家はびくともしていなかった。一軒ずつ呼び鈴を押して水を配ったのだが、それはそれと同時に暮らしの様子や困り事を聞くというアウトリーチの意味もあったのだが、うちは裏庭に井戸がありますんで、もっと困ってる方にあげてください、とよく言われた。
長田は焼け野原になっていた。階層格差というものはこういうものか、と思った。
あの感じ。あの感じをよく覚えている。男も女も子どもも大人も年寄りもみんな汚いジーパンで、ダウンジャケットで、風呂に入ってなくて、寒い路上にいて、真剣な顔で、優しくて、ときどきひどい冗談を言う、あの感じ。誰も助けにきてくれない、誰も頼りにならない、でも話しかけるとみんな親切な、あの感じ。自分がたいして役に立てていないことを恥じながら、無言で仕分け作業をする若いボランティアたち。」

私は当事者ではありませんから、その空気感はこの「小さな声」の方がNHK等のメディアの取り上げたものより伝わります。

タバコ屋のおばちゃんの呆然としつつ目の前の片づけをする姿の重さ。
Gパン姿の長田の被災者の人としての強靭さ、それに戸惑うボランティア。

私もあの年、半年たった初夏に東灘の避難所になっている小学校に人工雪(クラッシュアイス)を届けて雪山(小山)にして子どもに遊んでもらうという、緊急性などない企画を立てて実施しました。前年の広島アジア大会の選手村で同じ企画をやって評判が良かったので、柳の下の…で。

今でも忘れられないのは、あの時の子どもたちのドロドロになって喜ぶ歓声、町内会長さんに案内してもらった校舎内の避難場所での話。おばちゃんが住んでいたマンションにひびが入り戻ることができないという話。
最後に雪を片付けようとしたら、「こんなに子どもが喜ぶ声なんて、なかなか聞けなかったんじゃ。どうせ雪は解けるんじゃから、そのままにして遊ばせてやってくれ」というご返事には泣けて仕方ありませんでした。

何れも小さな声ですが、それが私の阪神淡路大震災について、最も深いところにある記憶です。
タイトル写真は新長田の鉄人28号増の近くのお好み焼き屋さん、そばめしです。

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