銀のスプーンだけでは
ここまで支持率が落ちてはどうしようもないでしょう。もはやレームダック状態で、解散の宝刀も抜く事すらできないのではないでしょうか。
結局岸田首相とは何だったのか?彼が総裁選に出た時の「新しい資本主義」「資産所得倍増」というのは、耳触りの良い単なる言葉、中身などどこにもなかったということでしょう。
彼が冷や飯を食っていた間、何をしていたのか?党務には邁進していたのでしょうが、中身がまったく蓄積がなかったということだと思います。
さらにお気の毒にブレーンの選定が木原氏という間違った選択をした事や、ご子息を含めた御親族のお粗末な振る舞いもあり、そちらがクローズアップされていましたが、結局は彼自身の政治哲学がスッカラカンだったということが露見したので、この支持率になっているのではないでしょうか。
岸田氏はいわゆる世襲議員。私は彼が父親の秘書を務めていた時から知っていますが、人間としてはツルリとした感じで、嫌みもなく悪い人ではないと思います。しかしそれは市井の一人の人であった場合で、政治家さらに首相としてはツルリの中にしっかりとした哲学を感じさせるものがなければならなかったと思っています。
しかし私と同い年ですから、彼がそんな立派な人格者であろうはずはありませんし、確固とした哲学を持っていようはずもありません。だから歴代首相を見ると、周りにブレーンを置き、彼らのアドバイスや意見を取捨選択しながら自分の言葉であるかのように使っていたわけです。
もちろんその周囲に群がるブレーンは腹に一物ある悪人ばかりですから、それを割り引いてみる力も必要です。安倍氏のように腹に一物あった旧統一教会と切れなかったことが、結果的にその被害を受けた容疑者に殺害される羽目になりますからね。
安倍氏も岸田氏も世襲議員ですから、世の中の酸いも甘いも体験していようはずはありません。あくまで伝聞の知識だけ。人の見極めもそんな机上の経験の上でのことですから、悪人の手のひらの上で転がされるのが落ちです。そこの所を上手に身につけさせるのが実は先代政治家であり、古株の秘書の役割だったと思います。
安倍と岸田を比較した時、二人とも中身はたいして違いはないのですが、安倍が実行力や構想力があり、岸田がダメに見えるのはなぜでしょうか。
素質だけではなく、二人の父親である安倍晋太郎と岸田文武の寿命と役割の違いにあったと思います。
安倍晋太郎は56年に岸の秘書官となり、58年に当選後、総理の椅子目前の91年67歳で病死しました。晋三は晋太郎が外務大臣の82年に秘書官になり、死ぬまでの9年間足跡を目の当たりにし、死後93年から地盤を継いで議員になりました。
岸田文武はもともと通産省の役人でしたが、79年に当選するも、92年に死ぬまで大臣の要職にはつけませんでした。文雄は87年に文武の秘書になり6年間陣笠代議士のお供でした。
ここが大きな差の一つ目。晋三は政府の中枢の父の秘書官として、また総理の座を争う戦いの場を9年間身体で体験したが、文雄は陣笠議員の秘書として6年間過ごしたのみ。
さらに二つ目の点は晋三は、岸から晋太郎に引き継がれた政治的な構想をあたかも自分の言葉のように伝える台本を貰っていましたが、文雄はそんなものは皆目与えられなかった点にあります。ある意味晋三は口パクに過ぎませんが、文雄はシナリオもなく右往左往。それがこの二人の違いだと思います。
世襲政治は全く良いとは思えませんし、彼らのような中身の空っぽな政治家に比べてよっぽど構想力のある政治家候補はいると思います。それがなかなか表に出ることができないのはやはり「三バン」でしょう。
この二人は共に「地盤・カバン・看板」という「銀のスプーンをくわえて生まれた」のですが、晋三にはカンペがあり、文雄にはなかったという違いがあったということです。さらに晋三には信介・晋太郎と続く政権中枢のブレーンがいたが、文武にはいなかったという重ねての残念があったように思います。
文雄は翔太郎君を無理無理で首相秘書官に押し込み玉砕しましたが、なぜそんな無理をしたのかといえば、晋太郎から晋三へは銀のスプーンだったが、文武から文雄へは銀メッキのスプーンだったという、自身のコンプレックスがその背景にあるのではないでしょうか。なんとしてでも、自分が表舞台にいるうちに箔と経験を積ませたかったという焦りがそこにはあったと思います。まあ箔ですからメッキに過ぎないのですが…。
私は安倍氏が後継を決めなかったために大混乱している山口選挙区のドタバタを見るにつけ、文雄も早々にギブアップしないと、翔太郎への「三バン」の引継ぎすらおぼつかなくなるような気がしますけどね。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?