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悪所でがんす

毎日新聞のコラム「悪所」についてですが、そういえばこの言葉あまり聞かなくなりましたね。遊郭やばくち場、寄席とありますが、私が生まれて小学生まで育った堺町は原爆で壊滅でしたが、賑わいの中心だった問屋筋も商工センターに移転したおかげで、この界隈は商売っ気が消えてしまったようになっていますが、かつては相当な賑わいだったようで、その周辺には「悪所」だらけ。

これに書いた「いってはいけんところ」でしたが、「がんす横丁」に刺激を受けて本を読んでみるとあるわあるわ…

船入町の「西遊郭の話」の項から抜き書きですが、最初に冒頭にある「貸座敷営業規則」について触れておきます。貸座敷とは昔の遊郭が貸座敷営業指定地となって、従来の公認遊郭のほか飯盛旅籠屋や私娼街などが続々と指定地の免許をうけたもので、今の性風俗関連特殊営業に該当するものです。さて以下抜粋です。


この町で忘れられないのは西遊郭である。広島県で貸座敷営業規則が改正されたのは、明治15年7月である。それを機会に、広島では西地方町、西新町、左官町、鷹匠町、鍛治屋町界隈がその営業区域にされたという。
それが当時の県知事千田貞暁が、宇品町宇品大河通1丁目、2丁目、南新町を営業免許地に指定して、前記5町の免許地を明治21年10月限り廃止して、それまでの営業者は宇品町の新指定地に移転することになったが、翌年3月31日までに宇品に移ったものは4,5戸ばかりであった。

ところが新設の宇品遊廓地はその後陸軍省の倉庫建設地に買収されることになったので、市の有力者粟村信武氏を中心に有志たちで遊廓の敷地を株式会社組織にして、小網町や船入村界わいに新遊廓を建てることになった。県ではこれを機会に新遊廓の許可を与えたが、それが明治24年4月であった。その後明治27年日清戦役が起るや、広島に大本営が進められ、広島の市況は空前の活況をみせ、東の薬研堀や平塚町、下柳町を中心にした新遊廓が誕生した。これが船入町の西遊廓に対して東遊廓となった。

話はもっぱら西遊廓のことになるが、創立当時のそう話は別として、以下は土地の古老からうかがった大正から昭和5年にかけての昔話である。

船入町に万花園があった。筆者のこども時代の記憶では、霧島の花が庭園に咲いていたこと を思いだすが、ぼたんの花も並んでいた。 この万花園は後に羽田別荘になったが、この万花園につづいたあたりを二号地といって、西遊廓の前身があった。その二号地については呉市吉浦町在住の読者から次のメモを寄せられた。
「私の懐しい思い出の一つは、船入町の二号地です。その当時としては珍しい青白いガス灯が樹々のこずえを照らす下を散歩したが、この界わいの夏の夜は忘れられない光景でした」
この二号地には、南から北へ向って1本の大通りがあって、両側には貸座敷が並んでいた。万花園の敷地を中心にした二号地の右側に上野というタバコ屋があった。このタバコ屋は、この色街人から喜ばれた湯タンポを貸した店でもあった。この湯タンポについては作家畑耕一さんからも話を聞いたことがあった。遊廓で愛用された湯タンポとなると、そぞろ昔の風情がし のばれてくる。

上野の隣が小松楼、沢田楼本店、三州楼、沢田楼支店、カフェー、 洋館建の常盤楼(のちに京都楼本店)、また向って左側は音羽楼、巴楼、福米楼、丸山楼(のちの大吉)、松鶴、万年楼の順であるが、以上はもっぱら大正時代、羽田別荘ができるまでのメモである。

二号地につづいた西遊廓のメモは昭和5、6 年ごろのものであるが、向って右両側の上等筋は、羽田別荘に向って右側から胡楼、七福 (はじめは花雪楼といって中筋にあった)、都楼、菊水楼、古川楼、八千代楼、新成田楼、相生楼、日の出楼、また左側はタクシー、飲食店と並んで勝利楼本宅、都楼本宅、古川の隠居所、花月荘、寿楼、たばこ屋とつづく。

中筋では羽田別荘寄りに支那料理の満蒙軒、料理屋の明月、勝利楼、松竹楼、千歳楼、正栄楼、大吉楼。満蒙軒前からの貸座敷は亀齢楼、朝日楼、 成田楼、新蓬萊楼、香浦楼、松鶴楼、山陽楼、料理屋田原の順で、大衆筋(のちに桜筋)にはみはらし湯の近くから西側は料理屋、満月楼、朝日楼支店、京都楼、ゆかた楼支店、カフェー日米軒、磯島写真館、東側は料理屋、石井楼、松竹楼支店、稲葉楼、三田楼、稲花楼、日の出楼、料理屋の順であった。

ここまで書いたところで島根県に移住した人 の訪問をうけたが、その人の話に当時西遊廓に住んでいた家の男の子は、徴兵検査のとき病気などで不合格になってはと、平素から素行をつつしんだものだということを聞かされた。

大正13年であったか、張り店が廃止になっ て代わりに写真を掲げるという大改革が行なわれた。遊廓の事務所では、その店構えを現地に見学しようと係の者を東京や大阪に派遣して、まもなく大衆筋にあった磯島写真館が彼女たちの写真を引き受けたが、写真ではどうもいただけないと花雪楼や2,3の貸座敷では、写真の代わりに各オイランが自ら生けた四季とりどりの生花を飾ったもので、なかなか風情のある試みもされた。

勝利楼(かちどき楼と読む)の玄関にあった大時計は、この界わいでは名物であったが、常盤楼の便所も壁、天井とも鏡張りで評判であっ た。また三階建の料理屋「更科」の便所の天井には、龍の絵が描いてあった。

「桜と柳の道」

西遊廓の上等筋には、道の真ん中に桜と柳の並木があって、この桜は八重桜であった。 八重桜といえば、本川筋の夜ざくら見物のところで書いたように、この本川の八重桜と西遊廓の八重桜風景は広島人 には忘れられないものである。
筆者も十歳ぐらいの時代に、祖父に連れられて本川の夜ざくらを見て、 そして西遊廓の夜ざくらを見にでかけたものであった。さくらの木には、それぞれぼんぼりがつってあり、中にははだかの豆電球が枝に取りつけてあった。

「ダンス・ホールの話」

西遊郭の貸座敷にダンス・ホールが出来たのは、昭和4,5年か、あるいは7,8年ごろのことである。上等筋や中筋の家では、われもわれもと家の一部を改装し、ダンス・ホールをこしらえた。

モダン爺さんまでが額に汗して踊り狂い、女給、芸妓さては有閑マダムなども繰り込むという黄金時代をつくった。一時ホールを持たない貸座敷は火の 消えたように寂れてしまったほどで、現在西に16軒、さらに東に17軒の一流どころの家がほとんどホールをつくって客を呼んでいる。

これを機会に紅燈ゆらぐお館式の建物が、近代的な明をこらして、洋館に模様替えしオイランは和服を捨ててハイヒールに転向した。かくてともかく跛行景気が廓を席捲して、近代化のアイデアが予期以上の成功を収めた。その後、関係当局の弾圧でダンス熱も冷めて、なかにはホールの建築費がそのまま借金に残った家も5、6軒はあった。

明治34年12月23日発行の「広島案内記」(著作兼発行者、広島県士族林保登、印刷者、印刷所は繁岡政吉、繁岡活明館、広島市尾道町136)には、「遊廓」の項に次のように書かれている。

2つあり、西遊廓、東遊廓という。西遊廓は小網町、舟入村に跨り上、中、下等筋及二号地に区別せられ、総面積11,590坪、 貸座敷数70戸、娼妓数397人ありとか、もと花街は左官町、畳屋町に分れおりし明治25年、今の地を区画して移転を命ぜられ、ここに初めて遊廓なるもの起り、舟入遊廓と称せらる。東遊廓は下柳町、薬研堀、平塚町の三ヶ町にまたがり、28年戦地より帰還の兵士、人夫、御用商人、軍属の入込むもの多きより、西遊廓に擬して起り、以て今日に及べるものにて、土地の広さ5,037坪、貸座敷数43戸、娼妓数数百数十人なりとぞ。

ついでながら「花雪楼」のメモを追加するが、 この家の欄間には虎と龍の彫刻がしてあり、部屋の四方は金粉で染めてあった。そして便所の小部屋にはオルガンの仕掛けがあったともいわれ、この店の女将さんは娘のような格好の衣裳で、ロンドンの日英博覧会にでかけたといわれている。

とあり、なるほど古地図を見るとその楼の名前が出てきます。

左下の赤印が「羽田別荘」、右の赤印が河原町の地蔵尊。その上の青が平和大通りの緑地帯にある跡だとすると、緑の線の間が、今の平和大通りにあたります。

文中に出ていた当初広島の花街は「西地方町、西新町、左官町、鷹匠町、鍛治屋町界隈」とあり、それはこの地図で見るとよくわかりますが、今の本川の電車通りの北側から中国新聞ビルにかけてのエリア。ただ堺町は商売エリアなので、除外されているようです。

また「がんす横丁」の鷹匠町の項を見ると

鷹匠町から隣の左官町へ 抜ける小路を「地獄小路」ともいった。私娼街で「左官町へ行こう」という隠語が、盛んに使われた時代もあったということである。

う~ん、今の本川の電停の北側あたりでしょうか、地獄は意外と近くにあったのですね。このエリアの諸々が小網町と船入町に移転したということです。なお、西地方町には券番(島津、藤見、篠原の3置屋)があり、また西新町には演舞場があったとか。本券さんらはこの演舞場で舞い、新券さんらは羽田別荘等で舞ったそうです。

最後に先日この界隈の秋祭りについて書きましたが、空鞘神社と廣瀬神社の氏子がどうしてこう入り組んでいるのかと思っていたら、少しわかりました。「油屋町」の項にこうありました。

油屋町内は、電車道から十日市筋にでる ところまで一通りの町であったが、大正末期には二つの組にわかれていたというめんどうな町であった。 その原因は、氏神社が東組は空鞘神社で、西組は広瀬神社であったからである。 小 さな町内にあった東西両組の気分が、それぞれ違っていたのも妙で、一口にいえば昔の電車通りに寄った東組は進取的で、十日市の方に寄った西組はやや保守的であったようで、何事につけてもその気分が現われていたという。

なるほど、東側の今の本川小学校、記念病院、本川公園のエリアが空鞘神社の東組で、それより西側の十日市筋までが西組の廣瀬神社ということになるわけでしょう。境界線は電車通りから東に2本、本川からも西に2本目の筋とすると、当社のある場所は西組なので、広瀬神社で間違いないということですね。








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