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見にくいところだからあるんだよ

もうすぐ親友の5回忌になりますが、その友人は仏像が好きで、京都や奈良などのお寺に良く足を運んでいました。
私は寺はあまり興味がなく神社派でした。もちろん仏教は哲学だと思っているので、色々と勉強はするのですが、建築物、仏像みたいなのはからっきし興味がわかないんです。それは私の感覚がアニミズムに近いのか、所詮人が作ったものはいずれ終わりがある、自然の空間は形が変わっても続いていくという世界観の違いでもあったと思います。

その仏像ですが、私もお寺で拝見することは少なくないですが、あまり惹かれません。ましてや美術館や博物館で拝見する仏像に心を揺さぶられるものがないのはなぜか?私の見方や考え方に何かが不足しているのだろう、と思っていましたが、今月の「文学界」に奥泉光さんの「寶井俊慶」という作品がありその俊慶は仏師でありました。

https://www.fujisan.co.jp/product/2336/new/

まあ奥泉さんの話なので架空の世界、人物と承知しながら読みましたが、さすがの出来栄えで感心しました。

その中に「井上啓太郎」という評論家が登場し、彼の文章の引用があります。もちろん「井上啓太郎」は架空の人だし、その文章も架空のもの。
とはいえ、とても分かりやすいので、そこから引用します。

「仏像それ自体は、作中の木喰の聖や俊慶が言うように、木や石や泥や銅の塊にすぎない。それが霊力を持つのは、衆生の信仰心を反射するからであるが、仏像を見せる『演出』にも由来はあった。わずかな灯火しかない暗所に置かれることで、深奥の霊的雰囲気をまとう仏像の、やんごとなき性格が醸成された。その究極は秘仏であろう。見えぬことがその霊性を保証した。白々した昼光の下に持ち出されてなお霊力を放つ仏像はそう多くはなかっただろう。つまりそれほどの美を具現した作品は少数であり、寶井俊慶の見た大日如来はそのひとつであったはずだが、芸術の美は、歴史のなかで、具眼の鑑賞者によって見いだされなければ存在し得ないこともまた一つの真理である。岡倉天心らによって美術品としての価値が発見される以前、廃仏毀釈の嵐の直下で、運慶に限らず、白日に晒されたいくつもの名品が、美の発見者を得る幸運に恵まれぬまま破壊されたのである。(井上啓太郎「『俊慶』解説」)」

つまり仏像はそれが置かれた薄暗いお堂の中にあるからこそ、その空間をまとって霊力を持つ、あるいは感じることができる。
それが明るい場所、広い場所に映されて赤裸々にその姿を見ると果たしてどれだけ霊力をまとうことができるだろうか。
そういう意味ではないでしょうか。架空の評論家、井上啓太郎氏の弁は誠に納得できるもの。

7月の「宗教の時間」のシリーズ「柳宗悦 美は人間を救いうるのか」の4回目は「木喰仏に見出されて」でした。奥泉氏の小説は、冒頭に漱石の「夢十夜」の仏師の話、また最後は「俊慶」が仏の宿る木を探す話でとてもいいのですが、確かにそれを考えると「木喰」のあの仏像もまた木に宿る仏の姿なのかもしれないと思い、図書館で柳宗悦の「木喰上人」を借りました。その中に

「彼は巧みに作ることにも無頓着である。同時に拙く作ることにも無関心である。よし彼が技巧を知らないのを意識した場合があっても、彼はそれを恥しいとは思わなかったであろう。彼は彼の刻むものが如何なる結果に終るかを気遣わない。彼の信仰に安心があるからである。巧みに作るがために作るのではない。醜さを恐れつつ作るのでもない。結果は弥陀にまかせてある。彼は使わされて刻むのである。至心の志であるから動かすことは出来ぬ。彼は刻むそのことに喜境を感じたであろう。併し刻まれたものには無心だったであろう。その美しさに彼も打たれる時があったなら、彼は自らを誇りはせず、恵としてそれを讃えたであろう。」

なるほど、木喰上人は仏の宿る木であろうがなかろうが、この手で掘るのは信仰心が掘るのだから、自ずと仏が姿を現すと確信していたようです。

ラジオでは民藝の美としての紹介だったのですが、やはり信仰心、霊的なことがその中にあったと知りました。

さて、霊性を感じさせる工夫は建造物も同様で、古い寺社であればあるほど暗い場所があるし、キリスト教の教会もそうでしょう。LEDライトの明るい所も増えていますが、そこには霊の潜む場所などありません。
ロウソクの揺らめく灯りの元、見えるような見えないような空間こそ霊の住処だし、そこに暗いお堂の中に鎮座する仏像や絵画、御神体もそれをまとうことができるように思います。
谷崎潤一郎の「陰影礼賛」はまさにそのことでもありました。

「諸君はまたそう云う大きな建物の、奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠い/\庭の明りの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返しているのを見たことはないか。」

倉本聰氏が以前、富良野の夜について「闇をしってるから光に感謝する」と言われたのが印象的でした。真っ暗悩みだとロウソクの小さな灯りでもとても明るく感じる。暗い中でLEDの灯りがつくと隅々まで見えはするものの、果たして明るさにどれだけ感謝することができるだろうか。今の世の中はとにかく明るくすればよい、そういう意識になりすぎているのではないだろうかというものでした。

仏像の置き場所が見えにくい暗い場所、またその原木である仏の宿る木もかぐや姫の筍のようにピカピカ輝いてるわけではありません。
金子みすゞ風の「見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ」を拝借すれば「見にくいところだからあるんだよ」でしょうか。

仏像も薄暗い、本当に闇に消えていくような空間、まるでこの世からあの世に入るような目を凝らしても見えないような場所にあってこそでしょう。そこにいるから、仏師の技量に霊性が加わり、さらに長年の信仰者の想いが重なって素晴らしいのではないでしょうか。


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