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自分だけでは決めない

先日の地元紙に紹介されていました。

ちょうど読んでいたのが宮西輝夫氏の「ひきこもり、自由に生きる──社会的成熟を育む仲間作りと支援」

この本を読んで驚いたのは、「ひきこもり」と言われる人がひきこもり始めるのは、青少年期だけではなく中高年になってという人が少なくないこと。
それとひきこもりというと、部屋や家から出ないというイメージがあるが、外に出るが人と接触を避ける開放型のひきこもりもあること。

著者は様々なケース、それぞれの段階でのアプローチを示してくれていますが、初期は様々な要因で自身を失いひきこもる。その時のアプローチは家族への働きかけと孤立を避けること。次の10年程度のひきこもりは、外部との接触を徐々に進めることだが、そもそも自信がないし緊張感が半端ないので薬物などの医療治療との支援が必要となるが、医療となると本人以上に家族が受け入れるのが難しいとあった。とにかく実証的で参考になる。

とにかく本人の他者との接触での緊張感を下げること。自分の評価を他者がしているのでないか、という自信を失わせる誤解を置くことが大事。
いつのまにか評価というマトリクスの上で生きている社会になり、自分がそれに絡め取られ、他者も他者をそのマトリクスで見て、他者が分かったように思う。それが一番近い家族という他者がするようになり、自信を失い、本来繋がっていると感じていた家庭内の孤立となり、ひきこもることになっているようにも感じました。

評価と言えば先日紹介した「コモンの「自治」論」の中にこういう一文がありました。

「しかし、「べてるの家」では、「自分のことは自分で決める」ではなく、「自分のことは自分”だけで、決めない」と言われます。なぜなら、「自分のことは自分で決める」というスローガンにしたがって、ひとりだけで自分のことを考えていると、煮詰まったり、考えが変な方向に暴走したりしてしまうかもしれない。だから、自分とよく似た困りごとを抱えた仲間と一緒に、グループで研究することによってこそ、自分の語りを取り戻すことができると考えるのです。
また、「べてるの家」は、「反省」や「批判」というやり方には否定的です。反省したり、自己批判したりするのではなく、自分に起こっていることを「共同で研究する」ことが大事なのです。こうした点も、「自己批判」が重視された、以前の政治的なあり方とは異なる、「ポスト68年」的なものであると言えるかもしれません。」

「共同で研究」とは1人の視点ではなく、見方を孤立させないということでしょうか。

また抱樸が続けているホームレスへの支援。ひきこもりの方と重なります。様々な要因で社会から弾き出され、家族とも別れ、自分が価値がないと感じて、ホームレスになる。家へのひきこもりでなく、開放型のひきこもりかもしれません。それを抱樸は相互が支えるではなく支えてもらう、という対等の関係作りからする。宮西氏はサポーターをアミーゴとよびますが、抱樸も同じ様な立ち位置に感じました。

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