「フリードリンク制」鈴木鹿(33枚)

〈文芸同人誌『突き抜け17』(2019年5月発行)収録〉

 川沿いを走りながら、こう考えた。肉を焼かなくてもピクニックはできると。
 長い冬が終わるか終わらないかの頃の、いきなり晴れた土曜の午後である。気温はそれほど高くはないが日光のおかげで体感がぽかぽかしているというのがいい。日が暮れればきっと急に肌寒くなるんだろう、それがいい。
 ウィンドブレーカーの内側に熱が篭もりすぎているのを感じて楽屋沢は顎まで上がっていたジッパーを胸元まで下げる。吸気口が開き、空気は胸に当たって両脇へと流れ、背中のメッシュから排気される。川があって、河川敷があって、土手があって、道があって、その道をジョギングコースとしているおじさん。川の上流に向かって、基本的には真っ直ぐ前を見ながらもちらちら河川敷を見下ろしちゃうアラフォーのおじさん。
 このような陽気の週末にこの道を走れば河川敷にはたいていバーベキューを楽しむ人々がたくさんいて、鼻呼吸を意識しながら走る楽屋沢の鼻に炭の匂いが規則正しく吸引されるものだ。十年以上になる楽屋沢のジョギング習慣に打ち込まれる季節の楔のひとつがそれだ。けれど今日は急に暖かくなったものだから、ほら、昨晩までは冬だったわけだから。心の準備も食材や備品の準備もできていないわけで、おそらくホームセンターでもまだ大々的に木炭やら何やら売り出していないでしょう。肉を焼いている人などおらず、鼻から吸い込む空気は無臭。けれど河川敷は無人なわけではない。人々はそこらにたくさん集っているのである。何をしているのかといえば、特に何をしているということもない。川を眺めたりしているがさすがに川に入って遊ぶ者はいない。椅子を置いたりレジャーシートを敷いたりするなどして何かしらの飲食をしている。たむろしているだけともいえるが彼らは肉も焼かずに何をしているのか。
 それがピクニックと呼ぶべき行為と理解して楽屋沢は自分の思い込みの枠がひとつ外れたような心持ちがしたのだった。そうか、彼らはピクニックをしている。唐突に訪れた冬の終わりと春の訪れを慌てて喜び、家の中にいるなんてもったいないといわんばかりに、もそもそと外へ這い出てきている。肉の準備もないのに、それでもなんとかならないものかとありあわせの食材でおにぎりやサンドイッチをこさえてみたり玉子やウインナーを焼いてみたり魔法瓶に温かいお茶などを詰めてみたり道中のコンビニで何かしらを買ってみたりなどして河川敷に集い、たむろする。ただの飲食を超えた意味合いが当然そこには込められている。あるいは本能的な行為といってもよいかもしれない。陽気に連れ出される人々。連れ出されるだけならまだしも飲食もしたくてたまらない人々。ひとまずピクニックという言葉を当てはめて理解してはいるが、ピクニックというレジャーとしてパッケージングされる以前の原初の姿がそこにはある。プリミティブスタイルピクニック。事前準備のない状況で可能な限り最大の工夫を凝らすところなどは茶の湯の精神にも通じるものがあるかもしれない。知らんけど。
 たかだかピクニックにどうして楽屋沢はこんなに驚いているのか、気づきを得た、みたいな気持ちになっているのか。未就学児の頃から知っていたに違いないこのカタカナ五文字。新しさはおろか古さもない無臭のカタカナ五文字。楽屋沢の心の引き出しのすぐに取り出せる場所にはなかった五文字。
 何かといえばすぐに肉を焼く地域性も理由のひとつだろう、と思う、おそらく。というのも昨年の夏、大きな地震が原因で地域一帯が数日間の停電に見舞われた際などは、自宅前でバーベキューをする人が多数見られ、その様子がSNSを通じて全国的な話題となったことがあった。地震、停電という大変なときにバーベキューなどといういかにも楽天的な、というギャップに対する違和感は楽屋沢にもわかる。でもさ、電力を失った冷蔵庫の中でどうせ駄目になる生鮮食材を、肉や魚介を、だったら焼いて食おう炭火なら電気も要らないしと考えるのは当然というか、非常に合理的な発想だと楽屋沢などは思うのだが、きっとそれを合理的だと考えるあたりの根っこからして地域性なのだろうな。
 そのへんの真偽はどっちでもよく、つまり楽屋沢は野外で食事といえば肉を焼くのが当たり前、野外で食事をするからには肉を焼かなければならない、肉を焼くことができないのであれば野外で食事するべからず、ぐらいに思い込んでいたのである。ほんの数分前までは。けれど今、ウィンドブレーカーのジッパー付きポケットにはピクニックの五文字がある。今すぐ走る足を止め、川の上流へと続くこの道を離脱して土手を下り、河川敷へと降りるだけ。それだけでジョギングの五文字をピクニックに置換することができる。実に簡単な操作である。楽屋沢は河川敷に適当な空間を見つけてそこに立つだろう。立ち止まって伸びをして、乱れた息を整えてから大きく深呼吸をするだろう。炭の匂いがしない空気の中にはかすかに天然由来の春を感じることができるかもしれない。太陽光線を全身浴したらお待ちかね、さあピクニックの始まりだ。ピクニック……とは、何だ。
 楽屋沢の想像はここで途絶えてしまう。河川敷の人々は皆、椅子やらレジャーシートに腰を下ろしている。何かしらの飲食をしている。そして誰かと一緒にいる。想像の中の楽屋沢はそこで立ちつくしてしまう。座る場所もなく、飲食物もなく、ひとり。すべての要素が欠けている。
 ジョギング中の楽屋沢が今すぐピクニックにスライドするのはさすがに無理があったようだ、そりゃそうだ、同じぽかぽか陽気の中にいるからといって、同じカタカナ五文字だからといって。どだい家の外へと出てきている動機が違うのだ。陽気に引きずり出されてきたピクニック側の人々と、自らの意志で玄関を出てきたジョギング側の楽屋沢。別に今日がこのような陽気でなくとも楽屋沢は家を出ただろう。いつもの週末のようにアパートでひとりウェアに着替えてストレッチしてシューズの紐を結んで玄関の重たいドアを開けただろう。そこに春が来ているかどうかは結果論であり楽屋沢の習慣に影響しない。ウェアやシューズの選択に影響するかもしれないけれどせいぜいそのぐらい。気が重い日がないかといえば嘘になる。そんな日もえいや、と決めて外へ出る。体が本当にしんどいときや天気が本当に悪いときは中止することもある。けれどもそれだって楽屋沢が決めることだ。自分の行動に自分で責任を持つという当たり前のことを当たり前のように続けてきたアラフォーのおじさんの独り暮らし。妨げる者などいない気ままで達成感のある暮らし。
 川沿いの道が橋とぶつかったところで楽屋沢のジョギングコースは川から遠ざかり住宅街の中へと入っていく。ゆるやかなカーブ、ゆるやかな下り坂、ここをしばらく走っていけばその先に楽屋沢のアパートがある。十年来ずっと同じコースを走っているが飽きはしない。ジョギングを始めたばかりの頃こそ理想的なコースを求めていろいろ試してみたりもしたけれど、このコースと決めてからはずっと変わっていない。数えるほどしか信号機がないためペースを乱されることなく走ることができ、距離も勾配もちょうどいい。ジョギング習慣の継続によって楽屋沢のフィジカルが向上した暁には距離を伸ばしたりコースを変更したりという必要が出てくるかとも思っていたが、楽屋沢の加齢がその必要を見事に打ち消してくれた。美しきプラマイゼロ。ヘルシーな動的平衡。
 見慣れた街並みにもときどき変化はあるもので、ずっと駐車場だったところに家が建ったり空き家だったところが駐車場になったり何度も何度も飲食店が入っては空きテナントに逆戻りする物件だったり、いつもの街並みだからこそ気づくことのできる変化の趣である。それ以上でもそれ以下でもないといえる。
 アパートが見えてきたところで走るのをやめ、呼吸と心拍を整えながら歩く。ウィンドブレーカーのジッパーを全開にして、ズボンの中に入れていたTシャツの裾を外へ出す。中に篭もっていたいろいろが外の風に吹かれて、自分の汗臭さが少しだけわかる。ウィンドブレーカーのジッパー付きポケットから取り出すのはアパートの鍵。重たい玄関ドア。ランニングウェアを洗濯機に放り込んで、シャワーを浴びて、肌なじみのいい部屋着で、洗濯物を干して、外出する用事も意欲もゼロの週末を、午前中にスーパーで買っておいた缶ビールを飲みながら、マンガとかゲームとかインターネットとかと一緒に食い潰して、寝るだけ。

   ●

 午前半休を取って花粉症の薬をもらいに勤務先徒歩圏内のかかりつけ耳鼻科へ行き、かなり待って診察はものの数分、吸入を終えて薬を処方されて、病院ばかりが入居しているビルから外へ出たのはちょうどランチタイムである。銀行やオフィスビルの立ち並ぶ街の中心部を勤務先へ向かって歩きながら楽屋沢もどこかでランチのタイムを、せっかくだからいつもの弁当屋じゃなくどこか別の、弁当屋でもいいけれど店に入って食べていってもいい、などと考えながら歩く。考えごとをしながら歩いてもいいぐらいのほどよい天気のよさに感謝する。もっと天気がよかったら考えごとをすることもできないだろう。真の好天が訪れたとき人はあほになるしかないからである。とかなんとか、頭の中でぼやぼやと言葉を遊ばせながらランチへ行き交うオフィス街の人々の間を縫って歩く。
 噴水の涼しげな公園を抜けて近道をしようとして、別に近道をする必要などなかったことに気づく。事前に申請してあった出勤予定の時刻まではまだ充分に時間があるし、昼飯の新規開拓のために街をぶらぶらとしてもいいのに、店が存在しない公園というスペースの通過を無意識に選択してしまった。ああ、失敗したなあと楽屋沢は思う。つくづくこういうのが下手だと心の肩を落とす。
 そこそこ広い公園をとぼとぼ歩いているとベンチの人々に目が留まる。数人は腰かけられるベンチにひとりずつ、オフィスワーカーとおぼしき人々が等間隔で座り、遠くをぼうっと見たり、近くの携帯電話画面を凝視したりしながら、何かに齧りついている。おにぎりであれ、弁当であれ、パンであれ、麺であれ、ナンであれ、もぐもぐ黙々と食べている。
 ふと、彼らをピクニックと呼ぶには無理があるなと楽屋沢は思う。野外で、食べている。でもそれだけではピクニックとはいえない。なぜだろう、ここが街の中だからだろうか、しかしたとえビルに囲まれた都会の真ん中に後付けで整備された人工的な公園だとしても樹木から芝生まで緑は豊富にある。事実、遠くに一組だけ見える母と子ふたり、芝生の上にレジャーシートを敷いて昼食に興じているその様は本人がどのようなつもりかどうかは別にしてピクニックと呼んで差し支えない自然さがある。では、彼らが背広や制服のような服装だからだろうか。しかし楽屋沢の記憶にあるモネの絵画「草上の昼食」は、もちろん国も時代も違うけれども男は現在でいう背広っぽい服装、なぜか女は全裸みたいな謎の感じはあるとして、けれどあれはあれでちゃんとピクニックの風景であった。では、彼らがレジャーシートではなくベンチに座っているからだろうか。いやいや、河川敷のピクニックピープルの中には椅子に座っている人も多くいたではないか。では、彼らが皆、ひとりだからだろうか。どうもそれが有力な説という気が楽屋沢にはしてくるのだが、では仮に、今、目の前のベンチにふたりでも三人でもいい、一緒に座って食事をしている人々がいたら、それはピクニックなのだろうか。そういえる気もするし、いえない気もする。
 どこからがピクニックでどこからがピクニックでなくなるのか。やはり楽屋沢にはわからないし、どうしてピクニックが気になっているのかもわからない。ピクニックがしたいかといわれれば、別にそんなこともないのだ。楽屋沢はごはんが食べたい。昼食が取りたい。外だろうが店だろうがどこでもいい。美味しいにこしたことはないけれど、極論をいえば美味しくなくても構わない。誰かと一緒に食べたいわけでもない、ひとりでいい、むしろひとりが好きだ。楽屋沢は決して人間嫌いな人間ではないけれどひとりが好きなのだ。恋愛だって結婚だって拒んでいるわけではなく全然ウェルカム、けれど自分のペースをキープし続けることが好きなのだ。
 話がそれた、いや話してない思考がそれた。楽屋沢はピクニックがしたいわけじゃない、今、平日の昼間、街中。食事がしたい、いい感じの場所にいい感じの雰囲気で自分のペースをキープしたい。その場になじみたい。なじめる場所を見つけたい。ほどよい刺激とほどよい安心がほどよく混じり合った空気となじみたい。いつも弁当を買って職場の自席に戻り昼食とするのは、職場の自席が楽屋沢にとってそこそこなじめる場所だからである。けれど楽屋沢だって人間なのだ。飽きるのだ。落ち着いて然るべきとされるアラフォーのおじさんなりに新しい環境への好奇心はあるのだ。楽屋沢は新規開拓したい。最初ぐらいちょっとぐらいどきどきするぐらい厭わない。でもできるだけ早くなじみたい。そのためならアルコールの力を借りることもやぶさかではない。
 公園で飲食している人々はペットボトル飲料か、紙コップのコーヒーを傍らに置いて時折ぐびり、ぐびりとやっている。水筒を持参しているのはレジャーシートの親子ぐらいか。酒を飲んでいる人間はひとりもいない。すぐそこのコンビニへ入れば缶ビールだって缶チューハイだってすぐに買ってこられるのに、誰も飲酒をしていない。誰もが自らを律している。なんて成熟した都市文化だろうか。
 この前のぽかぽか陽気の河川敷で飲酒をしていた人はいたのだろうか。楽屋沢は記憶映像のズームを試みるが残念ながら解像度が足りない。そこまで意識が行き届いていなかった。なんとなく流してしまっていたのだ。
 バーベキューが催されているときであれば、特に子供メインというよりは大人が集っている会であれば、飲酒はほぼセットと考えていいと思うのだ。泥酔するほど飲むことは稀だとしても缶ビールの一本や二本はコーラの代わりみたいに飲んで、今日は飲めないドライバーもノンアルコールビールでつきあってみたいな酒を飲む前提の流れがある。けれど肉を焼くのでないのだとしたら。楽屋沢は考える。肉を焼かなくてもピクニックはできるけれど、肉を焼くと焼かないとでは、その場を満たすハレ感の濃度がかなり違う気がするのだ。肉のせいというよりは火のせいなのかもしれない。いや両方か。
 飲酒ピクニック。いかがだろうか。肉は焼かぬが酒は飲むという新提案。モネの絵の中じゃワインぐらい飲んでいたかもしれないじゃないか。知らんけど。
 いっそ本当に酒を飲んでしまおうかと楽屋沢は思い始める。
 酒の力を借りることでなじむことができるかもしれない。ゆったり余裕のリラックスを得て、しっぽりスポットでしっくりタイムを過ごせるようになるのかもしれない。しかし少し冷静に考えてみればすぐにわかる、このような平日の昼間から酒を飲んでいい気分になっているのは、観光客か、今から帰るだけの出張ビジネスマンか、あるいは社会の空気と縁を切った者だけであり、いずれにせよこの街のアウトサイダーであることに変わりはない。ヨーロッパなどでは昼間から飲酒を楽しむ文化が根づいているのだと聞いたことがあるけれど、ここはヨーロッパではないのだ。なじむための行為がかえって楽屋沢を浮かせてしまう、そんな本末転倒な酒は切ない。
 無目的にほっつき歩く公園のようやく空いているベンチを見つけて這々の体で腰を下ろす。理想のしっくり感はないにせよ不自然ではなく、ひとまず居場所として成立しており、そこにしばらく座っていても誰からも咎められたり眉をひそめられたりしない。ベンチは楽屋沢の不安のすべてを保留してくれるが解決へ導いてはくれない。腹が減っているのかいないのか、自分でもわからなくなり楽屋沢はじっとして、このまま公園の緑の一部になってしまいたいと思う。なまじ動物だから居場所を模索せざるを得ないのであり、植物だったらこんな思考は不要になるのに。光さえあれば腹は満たされ店の新規開拓も不要になるのに。
 唇の端から垂れかけた涎を啜って、うたた寝していたことを理解するまでの数秒間であたりを見回す。オフィスワーカーのような人々の姿はもうどこにもなく、時計を見れば間もなく午後二時を回ろうかというところ。すなわち楽屋沢の本日の出勤時刻と理解するまでの約二秒。立ち上がり、明らかな空腹をおぼえながら、でも仕方ないと諦めながら、でも花粉症の薬を飲まなきゃならないからと思い直しながら、コンビニの菓子パンで妥協して、自分の妥協の正当化でその日の思考はいっぱいになる。

   ●

 勤務先の飲み会を一次会で辞しても誰からも何も言われなくなったのが少し寂しい。なんという身勝手な感情だと自分でも思うけれど偽らざる気持ちである。もちろん楽しいなら二次会、三次会と参加すればよいのであって、さらにいえば楽屋沢が招かれざる者ということも、たぶんない。珍しいっすね、ぐらいは言われるかもしれないけれど事実珍しいのであり、職場の人間関係その他これまでの諸々を鑑みても、一次会と同様に、特に誰かを不快にすることも場の雰囲気を壊すこともなくその場に居続けることはできるだろう。
 なのに一次会でドロンするということはつまり楽屋沢は楽しくないのである。楽しくない、いや、始終楽しくないというわけではない。楽しい話題がないわけではないし、盛り上がらないこともないではない。酒の力も手伝って、また、その場に見知らぬ者というのはいないわけで、楽屋沢もそれなりにちゃんとやる。けれど、それだけだ。なじみはあるが、閉じている。その先がない。
 原則全員参加の一次会を欠席するほうが波風を立てることになるから面倒だし、何か嘘をついてまで欠席するほどのことはしないけれど、楽屋沢にとってその場は、それ以上の価値があるように思えないのである。だから去る。するりと去る。そんなことを繰り返しているうちに楽屋沢はすっかりそのような存在として認知されてしまった。だから、同僚も上司も何も言ってこない。気楽なことは間違いない。たいてい飲み放題付きの宴会プラン、飲み放題に含まれる酒の枠内で自由が確保されているラストオーダーまでの一〇五分間。
 皆、一次会で去る楽屋沢のことを帰宅していると思っているだろう。しかし楽屋沢がそのまま帰宅することはほとんどない。駅の方へ向かうふりをしながらふらふらと夜の街へと分け入って行くのが常である。ふらふらと、いつまで経っても歩き慣れることのないいつもの飲み屋街を歩く。行きつけになり損ねた店がちらちらと楽屋沢の視界をよぎる。居酒屋でも酒場でも何でもいい。バーでもバルでもバールでもいい。昔は少し抵抗もあったが、歳を取って厚かましくなったのか初めての店に入ることそれ自体にさほど気合いは要らなくなった。入って、ひとりだと告げるか察されるかして席に着き、あとは成り行き。酒を飲み、つまみを食べ、しばらく過ごして、そそくさと店を出て、今度こそ駅へと向かう。アパートに帰って、酔っ払った頭で、だらだらとインターネットをして眠れなくなってしまう。
「チェアリング」という言葉に出会ったのは、やはりそのように眠れぬ金曜夜中のインターネットであった。SNSで誰かがピックアップしていた、SNSの書き込みをまとめた記事だ。
 チェア、プラスING。椅子に座ること。それだけでは何のことか理解するのは難しい。ざっくりといえば、自分の椅子を野外に持ち出し、座ること。そして、そこで寛ぐこと。さらには自ら調達した酒やつまみで一杯やってしまうこと。というものらしい。
 椅子はアウトドア用の折り畳み式が推奨されている。それこそ河川敷でよく見るタイプのあれである。軽くて持ち運びしやすく、座り心地もよく、ものによってはドリンクホルダーもついているから飲酒にはぴったりだ。理にかなっている。
 いくつかの記事を芋づる式に読む。ひとりでやってもいいし、複数人でやってもいいらしい。たしかにそれはどちらでも差し支えないように楽屋沢も思う。
 そして場所は、河川敷、公園、だけじゃない。道ばたでもいいらしい。道ばた! 楽屋沢は驚く。もちろん人々の通行の妨げにはならない場所でなければならない。モラルをキープしたうえでの、道ばた。このへんで楽屋沢は、既にこの行為に、チェアリングという活動に、そのコンセプトに、すっかり夢中になっていることに気づく。
 しばらく気になっていたピクニックというカタカナ五文字、ひとまずそれしか思い当たらなかったために仮に使ってきた五文字。それを、チェアリングという六文字が軽々とかっさらっていった。何がピクニックか、何がピクニックとはいえないか、そのモヤモヤポイントはなんと些末だったのか。チェアを置く。チェアに座る。チェアリング。ああ、なんと懐の深い、明快な線引きだろうか。
 記事をよく読めば、あまり重装備になると「キャンプ」になるから、あくまで軽装備を心がけるべしという旨のことが書かれている。たしかに今までよく見てきた、よく遠目に眺めてきた河川敷のバーベキュー、あれも皆アウトドア用の椅子に座っていたが、あれをチェアリングと呼ぶのは違うだろう。椅子と酒とつまみ。その機動性。気軽に場所を決め、決めたらそこが自分だけのスペースに変貌する。天候や他人の迷惑に配慮しながら自分なりの時間を楽しんで、去るべきときが来たなら椅子を畳んで去るだけ。何も残らない。しびれる。
「エクストリーム出社」のことを楽屋沢は連想する。平日の出社前に、出社前とは思えない大胆な遊びをしてしまう遊び。数年前にやはり最初はインターネットで話題になり、テレビやラジオ、新聞なんかでも紹介された活動、あるいはコンセプト。いつもの生活、日常の風景の中に違った視点をぶち込んで、まったく新しい体験を生み出す営みというところがチェアリングも共通しているように思う。
 エクストリーム出社は書籍にもなったし、楽屋沢は買ったし、読んだ。当時たいへん面白く読んだことをおぼえている。そのベースにある思想にも大いに共感した。ただ、楽屋沢が一度でもエクストリーム出社をしてみたのかというと実のところ、一度もやったことはないのだった。朝に弱い。理由はそれにつきた。
 チェアリングも書籍が出版されているようだ。読んでみてもいいかもしれない。しかし楽屋沢は今、金曜夜の今、非常に心動かされている。興奮している。チェアリング、やってみたいと思っている。本屋に行く暇があったらホームセンターに行きたい。書籍を買う金があったら椅子を買いたい。部屋の灯りを消すとカーテンの向こうで夏至近い空が白んでいるのがわかる。すっかり酔いの醒めた頭でベッドに横になり、目を閉じて、胸を高鳴らせながら、母に抱かれる赤ん坊のようにすやんと眠りにつく。

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 ノーブランドの、またはホームセンターのPB商品ならもっとずっと手ごろな価格で手に入るところを、ロゴマーク以外の見た目はほとんど変わらないブランド品に楽屋沢は決める。キャンプはもちろんバーベキューすら自分ではやったことのない楽屋沢の非常に乏しいアウトドア用品知識で、それでもギリギリ聞いたことのあったブランドの、折り畳み式の椅子である。座り心地とか、軽さとか、折り畳みやすさとかが違うのだ、たぶん。それにほら耐久性とか、あるでしょう。長い目で見ればこっちのほうがお得なのだ。正当化の正当性はともかくとして、楽屋沢は知識がないから金を出して安心を買うしかない、そのことだけは間違いない。
 広い駐車場にはたくさんのSUVが並び、買い込んだ大量の木炭を積み込んでいる。ちらりと見える荷室には大きなクーラーボックス。雲ひとつない青空に太陽が南中しようとしている。
 棒状に折り畳まれた椅子がすっぽり収まる袋を肩から提げて楽屋沢は歩く。手のビニール袋には自宅の冷蔵庫から出してきた缶ビールが二本と6Pチーズが一箱、柿ピーの小袋が二袋。たまたまあったのを持ってきただけだが、我ながら絶妙なチョイス&量だと楽屋沢は思う。多すぎるということはないし、適量かもしれないし、足りなければ追加で買えばいいのだ。好きなところで、好きなものを、好きなだけ。
 アウトドア用の椅子にビニール袋、サンダルに短パンにTシャツに帽子。本気なんだか本気じゃないんだかよくわからない、どこに行くのかと問われてもどことも言いようのない、事実、確たる目的地もない、チェアリングに行くとしか表現できない楽屋沢がそこにはいる。強いて言うなら何だろう、息子の少年野球を観戦しに行く父親に似ているだろうか。想像でしかないし、きょうび缶ビールが入っている時点でアウト、即退場だろうけど。
 住宅街の中を通るいつものジョギングコースをいつもとは逆方向に歩く。クソ見慣れた休日の街並みが今日はまったく違って見える。ジョギング用のシューズとウェアより動きやすさは格段に落ちているのに、足取りの軽やかさたるやピッカピカの一年生の登校時みたいだ。走り出したくなるのをぐっとこらえる。歩きながら缶ビールをプシュッとやりたくなるのをぐっとこらえる。こらえながらにやけてくる。やがて川に架かる橋に続くこの道のなんと長いことだろう。
 炭の匂いはとっくに漂ってきている。やっと川沿いの道へ入る。もう早歩きになっている。いつもと反対に川の流れと同じ方向に歩きながら河川敷を見下ろすと、いや、見下ろすまでもなく視界いっぱいに、バーベキューを楽しむ人々で河川敷はごった返している。
 楽屋沢のやることは、土手の斜面を下って、河川敷のどこかにスペースを見つけ、収納袋から椅子を取り出し、置いて、座って、飲んで食べる。それだけ。それをやるだけ。今この時点から時間にすればものの数分で楽屋沢は目的を達成することができるのだ。さあ、どこかにスペースを。
 楽屋沢の足が止まる。河川敷ではなく土手の上の川沿いの道で、河川敷を見下ろしながら止まってしまう。河川敷は、人出はかなり多いが決して立錐の余地もないという混み具合ではない。それぞれのグループが常識的な範囲で適切な距離を保ちながら、それぞれの時間を楽しんでいるのが伺える。楽屋沢がたった一脚の椅子を置く場所なんて、ほぼ無尽蔵に空いている。ただそれは単純な物理的な話であって、楽屋沢の目にはスペースはすべて埋まっているようにしか見えない。それぞれのグループの、それぞれのスペースが隙間なく接しているようにしか見えない。
 そうとしか見えない、なんて馬鹿げていると楽屋沢も思う。それは、楽屋沢自身がそう見させているに過ぎない。実際は、空いている。あのグループとあのグループの間でもいいし、あのグループとあのグループの間でもいいし、あのグループと川の間でもいい。あるいはこのエリアの端っこ、茂みが高くなっている境界線きわきわのところを攻めたって構わないのだ。わかっている。この、少し離れて河川敷を俯瞰できる位置からはとてもよく見えているのだけれど、楽屋沢の足は土手の斜面に踏み出すことができない。
 立ちすくむ足とぐるぐる回る頭との接続が上手くいかない中で、頭の方は、道ばた。ああ、道ばたという手があったということを思い出す。足が動かないならいっそここで、椅子をこの場に置くことによって、ここを、自分の場所とするという宣言を今。
 この場に座る楽屋沢のことを河川敷から一斉に見上げる無数の視線を直感し、楽屋沢は再び歩き出す。土手の斜面を下ることなく、川沿いの道を、川の流れに流されるようにして下流へと歩く。軽量なはずの椅子の収納袋の紐が肩に食い込み、軽量なはずのビニール袋が指に食い込む。気持ちの置き場を見つけることができず、一次会後の飲み屋街のように立ち寄れるような店もこのあたりにはなく、かといってこのまま真っ直ぐに帰宅する気にもならず、むしろ自宅アパートには近づきたくない、今、せめて今だけはできるだけ遠ざかりたいという気持ち、その一心で楽屋沢は歩き続ける。知らない道を闇雲に歩く。サンダル履きの裸足が靴擦れを起こしかけているのを感じるけれど、どれだけのろくなろうとも歩みを止めるわけにはいかない。どれだけの時間、どれだけの距離を歩いてきたのかはわからない。太陽はいつまでも南中し続けているかのように照りつけ、肩には紐が、指にはビニールが痛い。
 成り行きで折れた角の先にバス停がある。こんなところをバスが通るのか、通れるのかというほどの細い道である。バス停は酒屋の前にある。古い店構えの、といっても味が出るほど古くもない中途半端に古いだけの酒屋である。店内の蛍光灯がガラス越しに見えるので営業はしているようである。
 楽屋沢はバス停で立ち止まる。なぜそこで立ち止まったのかを上手く理解することができないけれど、バス停で人が立ち止まっているのは不自然なことではない。ごく自然に、自然体で、疲れ果てた楽屋沢は立ち止まり、すっかりぬるくなった缶ビールを一本、二本、立て続けに開けて、ごくごくごくごくごくごくと飲み乾す。
 バスは来ない。楽屋沢は酒屋に入る。想像通りに狭い店内の想像通りに暗い蛍光灯の下でしっかり冷えた缶ビールを二本、飲んだことのない銘柄を取り出す。レジの女性は楽屋沢より遥かに年上にも見えるし、ひょっとして年下かもしれないと思わせる。明るくもないが陰もない、フラットでニュートラルな接客で会計をして、缶ビールを二本、無地の新しいビニール袋に入れてくれる。ビニール袋ごと汗をかく。
 酒屋の外へ出てバス停に立つ。楽屋沢のほかにバスを待つ者は誰もいない。買ったばかりの缶ビールを一本開けてごくごくと飲む。美味しい。ひどく美味しくて腰が抜けそうになる。踏ん張って立つ。ごくごくと飲み乾して、もう一本、今度はゆっくりと、時間をかけながら飲む。
 酒屋とバス停と楽屋沢が風景のように溶け合ってその境目がぼやけてくる。空気は奥行きを失い、平面になって、楽屋沢はなんだかとても、落ち着いて然るべきアラフォーおじさんのように落ち着いている。缶ビールを二本ずつ買っては飲む。肩から椅子を提げたまま、立ったままで飲む。6Pチーズと柿ピーは交互に食べて、まだまだ全然なくならない。ゆっくりと時間をかけてバスが来る。

〈了〉

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