「エアポ」鈴木鹿(45枚)

〈文芸同人誌『突き抜け8』(2014年11月発行)収録〉

 改札を通るのに感慨は要らない。階段を一段とばしで上ったプラットフォーム、当駅始発の鈍行列車。発車まですこし時間がある、がらがらの列車の先頭車両に皺沢は乗りこむ。進行方向に対して横向きのロングシート、皺沢の他には向かいにひとり目の細い小さな老爺だけ。膝の上に大きめのボストンバッグを置いて真っ直ぐに座っている。これだけ空いているのだから横に置いたっていいだろうに、膝の上。かといって網棚に上げるのは老爺の身長では難しいだろう、そして下ろすのもまた。つられるように皺沢も使い慣れたナイロンと革の黒いブリーフケースを膝の上に置く。座席の背もたれとの間でぐちゃっと潰れていた背広の上着を直して背筋を伸ばす。生やした無精髭をじゃりじゃりといじり、顎を引く。いつも通りの姿勢で窓の外へと視線をのばす。列車のいない隣の線路のさらに向こう、山の表面が緑と黄と赤のまだらでたいへん鮮やかである。高い空から降り注ぐ正午手前の陽光。窓の外、プラットフォームを皺沢の左から右へきびきびと歩いてきた運転士が先頭車両の先端へ乗りこみ、真っ白い手袋の手を帽子のつばにやってからきびきびと指さし確認を行う。車内に車掌のアナウンス。S駅までは各駅にとまり、S駅からは快速に切りかわり、終点の空港までとまりません。ドア閉まりますご注意ください。封じられた鉄の箱は静けさを増し、ゆっくりと前へ動き出す。
 朝の通勤ラッシュとは基本的に無縁の生活をおくる皺沢だけれど、こんなに空いている列車に乗るのはずいぶん久しぶりのことのように思える。いつも利用している快速列車は、この時間でももうすこし混雑している。S駅へ向かうのであれば快速列車が当然の選択だし、実際この列車は途中のT駅で後からやってきた快速列車に追い抜かれる運命なのだ。トップスピードに達する前に次の駅。ゆるやかなスピードで、何万回も見た車窓の風景もなんだかいつもと違うように感じる。いや、何万はないか。仮に三百六十五日を休みなく、としても何万は。せいぜい万か、そんなところか。いたって普通の地方都市、いわゆるひとつのベッドタウンの風景が右から左へ流れていく。
 万は往復したS駅までの区間、この風景のひとつひとつをゆっくりと、これは昔から変わらないな、あれ、これは前からあったっけ。新しいはず、けれど、いつから新しいかはわからない。などと、たしかめたしかめしては忘れていく。まるで、たまりにたまった押し入れの中の荷物をゆっくり紐解き思い出し吟味しながら、結局すべて廃棄してしまうような行為を繰り返す。
 おひさまがぽかぽかしているからすぐにでも眠気が襲ってきそうなものだけれども、ドアが開けば冷たい空気が車内に流れこむので皺沢はまだ持ちこたえている。向かいの老爺は目を閉じているのか開けているのか目が細すぎてわからないが、特に船を漕いでいる様子もない。列車は止まり、ドアは開き、ひんやりとした乗客がぱらぱらと増えて位置が定まり、ドアが閉まって、運転士の指さし確認、そして列車は動き出す。その繰り返しがリズムを生んで、列車の揺れと同調していく。


 先頭車両のロングシートのいちばん後ろの端っこ、壁と背もたれに寄りかかって大田岡は座る。がらんとしたいつもの列車の、この位置が大田岡は気に入っている。まるで自宅のソファに身を沈めるように、といっても自宅にソファはないが、脚を組んでくつろぐ。姿勢だけでもくつろぐ。リュックサックを置いた床の上で三十センチはあろうかという無骨な黒革のブーツが脱力して揺れる。大田岡の傍ら、すこしだけ間をおいて峯市がちょこんと座る。背もたれに背をもたれずに、真っ直ぐに前を向いてバッグを膝の上に置いて座る。閉まりかけたドアの細い隙間から吹きこむ風でスカートの裾がふわりと浮き上がり、揺れて、膝の上へと舞い降りる。
 斜めに座る大田岡の視界には峯市の横顔がしっかりと入っている。長い睫毛と細い鼻と、薄化粧の頬と唇と。大田岡の半分ぐらいしかないのではないかと思われる顔である。整っているが整いすぎていないところがいい、と大田岡はつねづね思っているが、それを峯市に言ったことはない。ちらりと目を見るが、峯市の目は真っ直ぐに正面を向くばかりで大田岡の視線に対して反応することがない。組んだ脚をすこしぶらぶらさせてみる。峯市の視界の中で動きをつけようとしてみる。峯市は特に反応を見せない。窓の外を左から右へ流れていく風景をずっと凝視しているようにも見えるが、わからない。
 それでもこの、列車という公共の場にいることでまだ峯市のアパートのワンルームに二人でじっとしていた三十分前よりはまともに息ができているように大田岡は感じている。大田岡も、峯市も、午後から始まる三時限目の講義には出なければならないから、そこだけは予め決まっていた強制力のある予定だったから、二人は黙々と黙したままでアパートを出て列車に乗りこんだのであった。公共性、という部分が面白いなと大田岡は思う。この鉄の箱は狭くて閉ざされている空間だけれどこんなに息がしやすくて、仮に見渡す限りすべてが俺のものという牧場の真ん中に二人でこうして座っていたとしても、はたしてこんなに息がしやすいだろうか。物理的な広さではないのだ、たぶん。他にいろんな人がいる、自分の人生とまったく関係なくこれまでもこれからも交わることのない人々がいる公共の場。誰のものでもなくて誰のものでもある場。あ、教室もそうかな。でも教室で二人きりというのもまた悪くないなと大田岡は思う。軽口を心の中で叩けるまでには、まあまあふつうに呼吸ができてき始めている。峯市の向こうの乗客の顔をぼんやりと眺める。


 あ、大田岡だ。と、皺沢は気がつく。窓の外、小さな駅のプラットフォームに立つひときわ大柄な男。隣にはその半分ぐらいしかないんじゃないかと思えるような小柄な女の子。彼女のほうは知らない。ドアが開き、のそりと乗りこんでくるのを見て、ああやっぱり大田岡だ、昔よりもさらにでかくなったなあと思う。ときどき、あまりにも印象が変わっていて気づかないという卒業生もいるが、大田岡はほとんど印象が変わらないのですぐにわかった。大田岡の学年は今は、高校はもう卒業しているはずだ。大学かな。専門学校だろうか、いや、この時間の列車に乗っているんだからきっと大学生なんだろうな。隣の女の子も同じかな。
 自分が直に担当したことのない生徒であってもほぼ全員の顔と名前とをきちんと記憶して、なおかつ忘れることもほとんどないというのは、職業病だろうなと改めて皺沢は思う。顔と名前をおぼえるのが得意な人と苦手な人というのはどうやらいるようで、ときどきそんな会話を耳にすることもあるけれど、皺沢は得意だとも苦手だとも感じたことがなくて、まあすくなくとも苦手でなくて助かったとはいえるかもしれない。それこそ試験を控えた生徒たちが英単語や年号を暗記するように顔と名前を暗記するという努力はしたことがないし、それでも自然とおぼえられるし、忘れない。逆に、俺に教えてくれた学校の、または塾の先生たちは俺のことを今もおぼえているだろうか。思い出すことなんかなくても、今、仮にここでばったり会ったとして、おぼえているだろうか。それは、ちょっとわからない。
 ずっと黙っていた大田岡が隣の女の子と話し始めたのが視界の隅っこに見える。声は聞こえないけれど、元気そうでなによりだ。窓の外はぬるま湯のようにゆっくりと流れ続けて、皺沢にへばりついた記憶を浮かしながら洗い流していく。


「あ」
 と小さく、しかし平時のトーンで突然声を出してしまった大田岡のほうを峯市が向く。峯市はいつもと変わらない顔をしていて、怒っているようでもなければ笑っているわけでもなく、そこが非常に厄介なのだと大田岡は思っている。だからこそ膠着が生まれるし、大田岡も会話の糸口をつかめないままなのだ。
「どうしたの」と唇だけの峯市。
「塾の先生がいるな、と思って」と大田岡。
「塾」
「中学のときの」
「どの人」
「あの、前のほうの向かい側の」
「背広のおじさん」
「そうそう」
「なに習ってたの」
「なんだったっけな」
「忘れたの」
「通常授業で教わったことはないと思うんだよな、夏休みとか冬休みとか」
「講習会」
「そうそう講習会では、教わったことがあったと思うんだけど」
「ふうん」
「名前なんていったっけな」
「なんでこんな時間に電車に乗ってるんだろうね」
「出勤じゃないの、背広着てるし、塾、駅前だし」
「こんな時間に」
「塾の先生って遅いでしょ」
「そうなの」
「授業は夕方からだし」
「ああ、そっか、そうだよね、そうなんだ」
 峯市は小さな新発見に黒目がちな目をほんの僅かに輝かせる。大田岡は穏やかに息を吸って、吐いて、全身の力が抜ける。


「先生」と声をかけられてはっと我に返り目の焦点を合わせ直すと、目と鼻の先に女子高生の制服があった。見上げると化粧をしているが、間違いなく山奈川だった。
「先生、久しぶり」
「そんなに久しぶりでもないだろう」
「半年ぐらいぶり」
「ああ、でも、もうそんなに経つか」
「そうだよ」
「そうだな」
「隣、座ってもいい」
「いいも悪いもないだろう」
「いいの」
「いいよ」
 山奈川は皺沢の左側に座る。スカートから露出する膝の上にスウェット生地のやわらかいデイパックを置いて、それをぬいぐるみのように、抱くようにして背中を丸めて座る。
「先生、いつもこの時間に行くの」
「いつもは快速に乗ってるけどな」
「なんでこんなに遅いの」
「遅いか?」
「もう昼だし」
「これでも、いつもよりは早いぞ」
「ほんと?」
「だって、定時は二時」
「うそ」
「夜中まで働くんだから」
「あーそっか、そうだよね、遅いもんね」
「みんなが学校から帰ってきてからが俺たちの仕事なんだから」
「そっか、そうだよね」と山奈川は、あっけらかんと笑う。大きめの声が、すくなめの乗客の車内にすこしだけ響く。
 皺沢は窓の外を見る。皺沢の住む町を出た列車は海沿いの線路をひたすら進む。波のやや荒い秋の海に人はほとんど出ていないが、ときどき小舟が見えるのは、あれはなんだろう。なにかの漁なのだろうか、それこそおそらく何度も何度も何度も目にしているはずなのに、それがなんなのかを知らないままの自分に苦笑いするしかない。すっきりと晴れた高い空の下に、日本刀のような水平線が一筋。ドアが開く。乗客が増える。ロングシートの座席は概ね埋まり、まだ座れないわけでもないが、ちらほらと立つ者も出始めている。


「よくおぼえてたね、顔」と峯市が言う。「わたし、中学の頃の先生の顔なんてひとりも思い出せないよ」
「ひとりもってことないだろ」と平常運行の大田岡。
「担任ですら曖昧」
「まじで」
「顔、おぼえるの得意なんだね」
「そうかな」
「だって、教わってたわけでもないんでしょ」
「うん」
「それって社会人になったらすっごく大事らしいよ。お姉ちゃんが言ってた」
「そうなんだ」
「わたしはだめだ」
「いやいや。いや、違うんだ」
「違う?」
「俺があの先生のことをおぼえてるのはさ、噂があったの」
「うわさ」
「生徒に手え出してるっていう」
「あー」
「よくある」
「よくある?」
「いや、ほんとかどうかはわからないけど、噂としては、まあよくある」
「そっか」
「でも、女子って好きだよな、先生とか」
「そう?」
「顔もべつにだし、ただのおっさんだしさ」
「おじさんっていっても、今よりは若かったでしょ」
「まあ、今よりは若かったけどさ。なんなの、大人の男がよく見える時期ってのがあるの、女子は」
「どうなんだろうね。でも、うん、好きな人は好きなんじゃないかな」
「年上が」
「年上が、っていうか、先生が」
「そういうもんですか」
「そういうもんですよ。あ」
「なに」
「なんか、女子高生と話し始めたよ」
「ほんとだ。隣座った」
「かわいい子だね」
「んー」
「元生徒かな」
「もしかして」
「え」
「もしかして」
 乗客が増えて、大田岡は脚を組むのをやめて、大きな図体をコンパクトにまとめる。リュックサックは床の上、シートと脚の間に収める。峯市はしばらくその塾講師と女子高生を見ていたが、やがて真っ直ぐ前を向き直す。


「山奈川さ」
「なに」
「こうやって、卒業した後の生徒に会うじゃない、俺」
「うん」
「まあ、そりゃ、会うよな」
「会うよね」
「そしたらだいたいまず言うことは決まっててさ」
「なんて」
「高校楽しいか、って」
「ああ」
「聞こうとしたんだけどさ」
「うん」
「楽しくないのか」
「どうして」
「俺は、いつもの時間だけどさ」
 山奈川は咄嗟に皺沢から目をそらし、無理矢理そらしてしまったのでぎこちない視線を宙に泳がせてしまう。皺沢は正面を向き、ブリーフケースの上に置いた手の指をポキポキと鳴らす。やわらかいデイパックをさらにきつく抱いて山奈川は丸まる。押しつぶされたデイパックの中は、おそらく、ほとんど空っぽである。
「行くのか、今日は、これから」
「うん、行く」
「体調とか、悪くないのか」
「それは大丈夫」
「まあ、言いたくなければ、いいよ」
「うん」
「無理はするなよ」
「うん」
 山奈川はデイパックに顔の下半分をうずめて、上目遣いで窓の外の流れる風景を見るが、ぜんぜん頭に入ってこない。どうしてわたしは、先生に声をかけたんだろうと考えている。わざわざ自分から、つい声をかけてしまった。どうしたんだと問われることは、ちょっと考えればわかったはずである。それがわからないほどわたしはあほではない。と思いたい。べつに、卒業した塾の先生になにがばれようがなにを言われようが、立場的にはもう関係ないのであるし痛くもかゆくもない。ないけれど、すきこのんでそのような話をあえてしなくても、自分からそのような状況をつくらなくても、よかったのに、あ、先生だな、と思って、たった半年ぶりでしかなかったみたいだけれど、ものすごく久しぶりな、大げさじゃなくずっとずっと会っていなかったような気持ちがして、完全に気がゆるんでしまった。ほっとしてしまって、そして反射的に、半年前までと同じような感覚で、それはこのところずっと忘れていたような感覚で、声をかけてしまったのだった。と山奈川は思った。
 海面がきらきらと光っている。「こう天気のいい日はさあ」と、まるで半年前までと同じように山奈川は喋る。「このまんまどっかに行っちゃいたくなるよね」
「なに言ってんだ」と皺沢は笑う。「そんな風に思うには、ちょっと若すぎるよ」
「べつに若さは関係ないでしょ」
「そうか、そうかもな」
「先生は、さぼったことないの」
「ない。一度もない」
「一回もないの」
「ない」
「先生、真面目だもんね」
「んー」
「すごく真面目っぽい」
「高校のとき、友達がさ、よくさぼるやつでさ」
「うん」
「曇ってる日は遅刻するし、雨が降ると学校に来ないで家にいる」
「晴れてる日だけ来るんだ」
「でも、すごく晴れてる今日みたいな日は、やっぱり学校に来ない」
「え」
「こんな天気のいい日に学校行ってるやつはあほだ、って言って遊びに行っちゃう」
「すごいね」
「すごいだろ」
「でも楽しいね」
「楽しそうだった」
「うん」
「俺はそいつのことがすんごくうらやましくて」
「さぼればよかったのに、先生も」
「でも、さぼれなかったんだよな」
「真面目だから」
「真面目だからかな、どうなんだろうな」
「真面目だからじゃないの?」
「どうして一度ぐらいさぼってみなかったのかな、俺。まあ、でも、そいつ、卒業するの大変そうだったけど」
「卒業できたんだ」
「高校の先生にも、ずいぶん苦労かけたみたいだったよ」
「そっか」
「いい天気だなあ、ほんとうに」
 皺沢はあくびをひとつ。顎に手をやり、無精髭をじゃりじゃりともてあそぶ。つられて山奈川もあくびをひとつ。


「あの女子高生も、そうなのかな」と大田岡。
「それはないんじゃない」と峯市。
「でも、なんか楽しそうに話してるし」
「先生、そんな感じの人に見えないけどね」
「わかんないだろう、そんなの」
「わかるわかる、だいたいわかる」
「うっそ」
「ただ、ひとつ言えるのは」
「なに」
「女子高生のほうは、たぶん先生が好き」
「まじ」
「好きだった」
「過去形」
「うん。たぶんそんな感じ」
「なんでわかんの」
「雰囲気」
「それだけで」
「あと、経験?」
「経験?」
「わたし、先生とつきあってたよ」
「え」
「だからわかる」
「まじ」
「ほんと」
「いつ」
「高校のとき」
「へえ、え、へえ、へえそう」
「なに」
「いや、そうなんだ、初めて聞いたなと思って」
「初めて言ったしね」
「なんで今まで黙ってたの」
「わざわざ言うことでもないでしょ。聞きたかった?」
「いや」
「じゃあいいでしょ」
「じゃあなんで言ったんだよ、今」
「隠しておくことでもないと思ったし、そもそも昔の話だし、それに」
「それに」
「あなたがわたしにしたことに比べれば、なんだっていうの」
 峯市は塾講師と女子高生のほうへ顔を向けたままで言う。大田岡は反射的に言い返そうとする体重移動をしただけで、一言も言葉は出てこずに、重心をもとの位置に戻す。窓の外を流れる風景の遅さに腹が立つ。


「イメチェンなの、先生」と山奈川。
「なにが」心当たりがなくて皺沢。
「髭」
「ああ、いや、べつになんとなく」
「いい感じだよ、ワイルドで」
「ワイルドってがらでもないだろう」
「だからイメチェンなんでしょ」
「イメチェン、って久しぶりに聞いた」
「そう?」
「言うか? 周り」
「言わないかもしれないけど、他に言いかたがないでしょ」
「まあそうかもな」
「チェンジ・ザ・イメージ?」
「まんまだ」
「チェンイメ?」
「まんまだし言いづらいな」
 山奈川が屈託なく笑う。つられて皺沢も屈託なく笑う。指先で顎の髭をじゃりじゃりといじる。
「しかし参ったよ、伸びた髭、よく見てみたらさ、白髪混じってんの」
「うそ」
「ほんとほんと、このへん」と、顎の右側を指さして山奈川に向ける。
「ほんとだ、わー、おじいちゃんだ」と顔を近づける山奈川の息がかかる。
「おじいちゃんはひどいな」
「さわってもいい?」
「いいけど」
 じゃりっ。
「痛い!」と山奈川は屈託なく笑う。笑う息が皺沢にかかる。皺沢も笑う。
「きっとすぐに真っ白になるし、なったらほんとにおじいちゃんだな」
「苦労してるの?」
「いや、単純に、歳だろう」
「先生、わたしの倍ぐらい?」
「倍より、もうちょっと多い」
「もうちょっと?」
「もうちょっと、ちょっとぐらい多い」
「ちょっと、ちょっと?」
「ちょっと、ちょっと、ちょっと、ちょっと」


 列車は海沿いの線路を抜け、川を越えてS市に入り、再び街中へと進む。車窓の風景が同じような家と集合住宅、ときどき商店の屋根屋根屋根に変わり、踏切のカンカンが一瞬で近づいては一瞬で遠ざかる。川を境にしてこんなにはっきりと風景が切りかわるというのだということに皺沢は初めて気がつく。いつもはいつの間にかだったものが、今日は目の前ではっきりとその過程を見せつけられている。車掌のアナウンス、まもなくT駅。この鈍行列車はしばらく停車し、快速列車が追い越していくことになっている。いつもの皺沢が乗っているほうの快速列車に。
「乗りかえ?」と山奈川が問う。
「いや、今日はこのまま」と皺沢。
「時間、大丈夫なの?」
「今日は大丈夫。山奈川は」
「じゃあ、わたしもこのまま」
「そうか」
「座れたほうがいいし」
「そうだな」
 ゆっくりとT駅のプラットフォームに滑りこんだ鈍行列車がドアを開け、車両をそれなりに埋めていた乗客たちが一斉に降りる。大田岡は立ち上がり、足下のリュックサックを右肩に引っかけてドアへと向かう。峯市は立ち上がらない。同じ姿勢のままで、同じ方向を見ている。
「乗りかえだよ」
「わたしこのまま行く」
「え、なんで」
「べつにいいでしょ」
「意味わかんねえ、遅いって」
「遅くていいよ」
「三限」
「間に合うよ」
 大田岡は峯市の腕をつかもうとして出したその手のやり場がなくて曖昧に宙をさまよい、吊革をつかみ、峯市の目の前に立ち塞がる格好になる。峯市はぴくりとも動かずに、どうやらなにも見ていない。「勝手にしろ」小さく小さく言い残して大田岡は鈍行列車を降りる。
 がらがらになった先頭車両、塾講師と女子高生、小柄な老爺、中年の婦人が個別に二人と女子大生峯市。プラットフォームを挟んで隣の線路に後続の快速列車が滑りこんできて止まる。どっ、と吐き出された人々が鈍行列車の空席をまんべんなく埋めていく。入れかわりに、差し引きもっと多くの乗客を収めて快速列車は慌ただしく発車。静けさの戻ったプラットフォームの空気をドアが遮断して、鈍行列車は再びのろのろと動き出す。


 峯市はさっきから特になにも見ていない自分にようやく気がつき、膝の上の鞄に目を落とし、手帳を取り出す。文庫本サイズの綴じ手帳の、ゴムバンドをずらすように外して月間カレンダーのページを開く。明日も、明後日も、来週も、特に予定は入っていない。予定が入っていなくても過ごしかたは予め決まっていて、それがいつの間にか当たり前になっていたんだなあと峯市は思う。大学と居酒屋とアパートの巡回。からっぽの月間カレンダーをすこしずつでも埋めていくにはどうしたら楽しいだろうと峯市は考えてみる。アルバイトでも始めてみようかな。子どもは好きだから塾講師か、家庭教師もいいかもしれない。きっと大変だろうけど、すこしは大変な思いもしておいたほうがいいのかなと峯市は考える。大変な思いなんかしないでいられたらもちろんそれにこしたことはないけれど、そんなことってこれから先、このままなんの問題もなく大学を卒業してスムーズにどこかに就職してその先もいろいろあるだろうけれど平均寿命ぐらいまでは生きて大変な思いをしないままで墓場に到達するというそんな模式図のような人生なんてあるんだろうか。ないんだとしたら、じゃあ、模式図のような大変な思い、というものはあるんだろうか。もしもそんなものは存在しなくてすべては個別具体的なのだとしたら。峯市は今、なにを念頭に置いて行動すればいいのだろう。左から右へ、いつもの車窓の風景が、いつもよりゆっくりと流れていく。こんなところに、こんなかわいいおうちがあったんだ。でもきっと、こんなに線路沿いなんだから毎日うるさいだろうな。もっと山の中か、もっと海の近くか、そうでなければもっと街中に住みたいと峯市は思う。いつか住みたいと思う。
 いつか。いつか? どうして今、峯市は、希望を先送ってしまったのだろう。住んでしまえばいいんだ。引っ越してしまえばいい。そのためにはお金が要るから、やっぱりアルバイトをしよう。そしてお金がたまったら引っ越す。山の中か海の近くか街中か、どれもいいけど、それはじっくり考えよう。手帳の隅に「アルバイト」と書く。さらに「引っ越し」と書く。それだけでわくわくしてくる。ぱたんと閉じて、ぱちんと留める。鞄にしまうが、また取り出して、ゴムバンドを外してページを開く。峯市は手帳というものに初めてわくわくしている。手帳はいい。書けば、おぼえていられる。予定で埋まった月間カレンダーを想像して薄化粧の顔がにやけてくる。
 ドアが開き、小さな男の子がてけてけと走って乗ってくる。後から母親だろうか、スーパーの買物袋を重そうに提げて、男の子を追いながら乗る。先頭車両の先頭までダッシュして運転室の中を覗きこもうと背伸びする男の子を引っつかまえて、ちょうどひとりぶん空いている老爺の隣の座席に母は収まる。重い買物袋を足下に置き、子を膝の上に乗せるが、子はすぐに立ち上がろうとして収拾がつかない。老爺が、静かに席をつめる。呼応するように乗客たちは席をつめ、ひとりぶんだったスペースがひとり半ぐらいまで広がる。母は老爺に礼をして、母と老爺の間に子を座らせる。ちょうど収まる。男の子は立っているときの動きの激しさに反して無口で、母はようやく筋肉を弛緩させることができる安堵に身を委ねながら子の行動に意識を向け続けている。これを自分の未来だとは峯市も山奈川もまだまったく想像が至らずに、これまで通り他人事として見ている。車内は静まりかえり、列車の振動音と駅ごとのアナウンス、ブレーキ音、踏切カンカン。どん! と、反対方向へ向かう列車とすれ違うときの音。ドアが開き、人々は乗り降りして、閉まり、進む。
 皺沢は目を閉じて、それらの音に耳を澄ます。規則性があるようでないような音の羅列と繰り返しを順に耳から入れて暗闇の中に一列に並べてみる。文字に置きかえずに音のかたまりのままで、入ってきた順に並べてみようとする。完璧にはできないけれど、できるだけそんなイメージで。それは皺沢が今までに聴いたことのない音楽のようで、退屈だけれど心地よく、新鮮な発見であると同時に、すこし寂しい気持ちになる。退屈と心地よさの両立について皺沢は考えたこともなかったけれど、両立しうるものであることを初めて知る。このことをもっと早く知っていたら、これまでももっと楽しかっただろうか。このことをもっと早く知っていたら、この鈍行列車に乗っていなかっただろうか。
 山奈川は黙ったままだ。皺沢は目を閉じているから山奈川が今、どんな顔をしているかはわからないけれど、ときどきもぞもぞと身をよじる気配を感じる。山奈川が中学校を卒業して、塾も卒業して、頑張ってぎりぎりで滑りこんだ志望校に通い始めてから半年の間になにがあったのかを、皺沢は知らないし、あえて問おうとも思わない。なんらかの問題を抱えているのは確実で、それを、もう自分には関係のないことだと切って捨てることもしようとは思わないし、いち教育者としてなんとか問題解決に導く、あるいはそのための手助けをしようとするのも皺沢にはしっくりこない。ただ、どんな関係性であれ、ある時期を一緒に過ごした人間と人間が、今、ひとりの人間どうし、偶然にも今日という日のこの時間の鈍行列車の同じ車両に乗り合わせて、座席に身を寄せ合いお互いを尊重し合うという、そのことだけが皺沢にとっては自然な行為である。


 手帳を鞄にしまった峯市は、自分の右側、車両の後ろの端っこの座席が空いているので尻を浮かしてそちらにつめる。大田岡の体温が残っていてぬるくて気持ち悪い。大田岡とは後で、同じ講義室で同じ講義を受けることになる。なるんだろう。が、その講義室から一緒に出ることはないだろうと峯市は思う。さぼってしまおうか、という考えが頭をよぎるが、それはない。だって関係ない。関係ないのだから、同じ講義室で九十分間を共有したとしても、それは別になんでもないし、視界に入っても視界に入ったというだけのことである。大田岡のほうがさぼるかもしれないな、と峯市は思う。快速列車に乗って先に行った大田岡はS駅に着いた頃だろうか。関係ない。
 壁に寄りかかって車内を見渡してみる。立っている乗客はいなくなって、みんなロングシートに行儀よく座っている。さっきかけっこしていた男の子も行儀よく座っているようだ。例の塾講師と女子高生は、まだ乗っている。峯市のように乗りかえをせずにこの列車に乗りっぱなしということは、ふたりともS駅まで行くのではないのだろうか。それともゆっくり行くのだろうか。もしかして、やっぱりもしかしてなのだろうか。会話をしているようではない。塾講師のほうは背筋をぴんと伸ばして顎を引いて、正面を向いて目を閉じている。女子高生のほうは鞄を抱きしめるように背を丸めて座り、ちらちら、ちらちらと塾講師のほうを見ている。
 何人か、車輪のついたスーツケースを膝の間に挟むようにして置いている人がいて、旅行なのか、あるいはあの背広の人は出張だろうか、わからないけれど、ああ、そうかこの列車の終点は空港なのだ、ということを峯市は思い出す。飛ぶのか。これから、この人たちは。行きなのか帰りなのかはわからない。わたしは今、行っているのだろうか帰っているのだろうか。行きっぱなしの毎日なんてわたしに耐えられるだろうか。峯市は手帳を鞄から取り出して、ゴムバンドを外して開き、二ヶ月後のカレンダーページの欄外に「帰省チケット」と書き付ける。


 列車は街の中心部、商業的に栄えたエリアへとどんどんどんどん突き進み、背の高いビルやマンションがちらほらと遠くに、または線路のすぐ近くに見えるようになり、そして線路自体も地上から高架へと切りかわる。豊かな車窓の風景は失われてしまうが、ときどき川を渡る鉄橋で、すこんと視界が開けて、うららかな天気、青空の下、幅広の川のゆるやかな流れ、ゆったりとした河川敷をおばあちゃんが犬と一緒に散歩しているのが見える。山奈川は小学生のときまで家で飼っていた犬のことを思い出す。家の近くを散歩させたことを思い出す。こんなに気持ちのいい河川敷は家の近くになかったから、いつかこんなところに暮らして、そしてまた犬を飼って、平日の昼間からゆっくりと散歩して、それで誰からもなんにも言われずに、のんびりと笑っていられる、そんな未来が、わたしにやって来るんだろうかと不安になる。不安になって先生の顔を見る。先生は目を閉じている。うっすら生えた顎髭の片隅が白くきらきらと光っている。先生も歳をとるんだなあと、当たり前のことを思う。自分もきっといつかは歳をとるんだろうけれど、いつになるかはわからないなあと山奈川は思う。向かいに座る小さなおじいちゃんの目が細すぎて開いてるんだか閉じてるんだかわからなくて、でも真っ直ぐな姿勢でそんな目をしているところが今の先生と似ているように見えて、先生もいつかはあんなおじいちゃんみたくなるんじゃないかと思って愉快な気持ちになる。いくらなんでもあんなに縮みはしないだろうけど。
 さっきからお互い黙ってしまって、列車の中も静かだし、なんだか話すきっかけを失ってしまってそのまんまだけれど、ほんとうはなんか喋りたい。喋りたいけど、そのなんかが見つからない。なんでもいい。でもわからない。ほんの半年前までは、中学生の頃までは、塾に通っていたあのときは、毎日、毎日、みんな一緒にいて、とくに中身のないことでも笑って話せて話題の絶えることなんか一度もなかったのに、いつの間にこうなってしまったんだろう、わたしは、どうしてこうなってしまったんだろう。目が潤んできて、まずいと思って、デイパックのスウェット生地で吸い取る。小さなしみができる。先生ともいろんな話をしたように思うけど、なにを話したかは全然おぼえていないけど、それはそれでどうでもいいんだけど。先生はすごく、塾の他の先生と比べても学校の先生と比べてもとても真面目そうなのが伝わってくる先生で、でも、くそ真面目で融通がきかないというよりは人間として真面目なんだなあというのがよくわかるというか、イケイケでウェーイみたいなところがまったくない、そんな感じの先生だった。塾の外で会ったのは今日が初めてだったけど、その印象はまったく変わらない。髭は意外だったけど。先生のほうを見る。目を閉じている。向かい側のおじいちゃんを見ようとして、おじいちゃんの背後の窓の外、線路沿いに立つビルの窓ガラスに反射した太陽の強い光が、山奈川の目に飛びこむ。
「えっ……くっしゃん!」
 大きな大きな山奈川のくしゃみが静かな車内に響き、乗客全員がびくん、とする。注目を集める。皺沢はぱちんと目を開けて、山奈川のほうを見る。山奈川は恥ずかしくてデイパックに顔をうずめる。
 老爺と母親の間に収まって行儀よく座っていた男の子が、大きな音にびっくりして山奈川のほうを見る。見て、てこっと立ち上がり、てこてこと歩いて、向かいの席まで到達し、皺沢の目の前に立つ。目の開いた皺沢と、男の子の目が合う。男の子は手を伸ばして、皺沢の顎髭をさわる。はきはきとした声が静かな車内に響く。
「ぱぱ」
 え、と山奈川。
 え、と峯市。
「ぱぱのじょりじょり」と、男の子は言う。
 母親がすぐに大股二歩で向かいの席へ到達、男の子を引っつかみ「すみません」と皺沢へ、完全に謝り慣れた調子で謝り、大股二歩でもといた座席へ戻る。山奈川は母親の顔を見る。きれいな人だ。でも、きっと先生と同じぐらいの歳なんだろうけど先生よりずっと老けて見える。先生のほうを見る。先生も山奈川のほうを見て、苦笑いする。肯定とも否定ともいえない曖昧な表情だと山奈川は感じる。こんな曖昧な表情、先生といういきものがよく使うこの表情がわたしも好きだったんだと峯市は思う。皺沢は、顎に残る小さくてやわらかな手の感触を味わっている。列車が止まり、ドアが開き、母子が降りる。ドアが閉まり、鉄の箱は動き出す。


 S駅からの乗りかえを案内する車掌の長いアナウンスが始まる。ロングシートのあちこちではS駅で降りるための身支度が始まる。先頭車両の先端、運転士からは大きなS駅のプラットフォームが既に見えている。いくつものポイントを通過して、敷かれたレールの上を鈍行列車は今日ここまででいちばんのろのろと進む。
 峯市は立ち上がる。乗客のなかでいちばん早く立ち上がる。鞄のなかの手帳のなかには、列車に乗る前にはなかった文字が書きこまれている。ただそれだけであるが、峯市はとても満足している自分に気づく。がたん、ごとん。がたん、ごとん。駅前のファッションビルの前をひとつ、またひとつ列車は通り過ぎる。塾講師と女子高生のほうをちらりと見る。女子高生の目が充血していることが峯市にはわかってしまう。峯市は鞄のポケットから目薬を取り出して自分の両目にさす。
 ひとり、またひとりと乗客が立ち上がり、網棚の上の荷物を下ろす人は下ろして、ドアのそばへゆるやかに近寄る。山奈川は立ち上がり、デイパックを背負い、さっき、先生に声をかけたときのように、先生のすぐ頭上の吊革をつかんで正面に仁王立ちする。
「先生はやさしいね」
「なんで」
「なんも聞いてこないから」
 皺沢はそれには答えず、ただ微笑むのみ。大きな大きなS駅の、何本もあるプラットフォームの一本に列車はゆっくりと滑りこむ。ドアが開き、静寂は崩れ、ドアから人々がどっ、と吐き出され、入れかわりに駅構内のやかましさと、空港へ向かう旅行者たちが流れこんでくる。山奈川はドアへ向かおうとするが、皺沢は立ち上がらない。
「先生」
「ん」
「降りないの」
「降りないよ」
「なんで」
「さっき、言ってたろう、山奈川」
「なんて」
「このまま、どっかに行っちゃいたくなるって」
「言った」
「俺は、今日、それなの」
「それ」
「うん、それ」
「今日」
「うん、今日」
「そうなんだ、いいね」
「いいだろ」
「わたしは、今日は、降りるよ」
「うん」
「いってらっしゃい」
「いってらっしゃい」


 ドアが閉まり、鉄の箱はその身を震わせる。ここからは空港行きの快速列車。座席はほぼ埋まって、立っている人もちらほら。プラットフォームをゆっくりと抜け出して、いくつものポイントをゆっくりと通過。S駅を後にした列車は徐々に、徐々に速度を上げて、どんどんどんどん速くなって、窓の外の都市の風景はびゅんびゅん後ろへ流れ去ってしまう。
 立っている乗客の向こう、向かいの席に小さい老爺が座っているのが見える。開いているんだか閉まっているんだかわからない細い目をして、ボストンバッグを膝の上に乗せている。ああ、あなたもでしたか。皺沢は背広の上着を直して背筋を伸ばす。顎を引き、無精髭をじゃりじゃりといじって目を閉じる。老爺と同じ顔をしている。

〈了〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?