「ネーさんとカーさん」鈴木鹿(55枚)

〈文芸同人誌『突き抜け7』(2014年5月発行)収録〉

 ハットを逆さにして頭に乗せた男めがけてギャラリーが我先にと小銭を投げ込んでいる。歩道橋の上からしばらくそれを眺めていたが十五分ほどかかってようやく、それ自体が芸なのだと気づいたのであった。なんて理にかなった短絡だろう。こうありたい、と葱間は強く思った。短絡したい。直結したい。一本串刺しになってさえいれば手段と目的が入り混じったっていいじゃないか。みたらし団子を一本、もぐもぐと噛みながら葱間は思う。甘くてしょっぱくて吸いつくような白い肌。信号が青に変わって色とりどりの自動車が同じスピードで歩道橋の下を駆け抜ける。荷台の大きなトラックが路肩に停まって芸人の姿は見えなくなってしまった。運転席から勢いよく飛び出した若い男が車に轢かれそうになったが、轢きそうになった車のほうも何もなかったように過ぎ去り、轢かれそうになった男のほうも何もなかったように荷物を下ろし始める。目の前のことしか見えていない人々の全体をぼんやりと見下ろしながら、陽射しの快さもあって葱間はその場から動くことができないでいる。幹線道路を時おり吹き抜ける秋の風が葱間の両耳と鼻の頭から熱を奪ってゆく。七分丈のズボンからのぞくむき出しの脚に薄いすね毛が震え、腕まくりしていた長袖Tシャツの袖を伸ばす。

 トラックがハザードランプの片方を消して動き出す。ギャラリーはとうに姿を消して、いそいそとスーツケースにハットをしまう芸人の姿が見える。ふだんはどうか知らないけれど、見ている限りではずいぶんと潤ったのではないか、今夜はいつもよりマシなコップ酒でも飲めるかもしれないな、彼。なんて、ブリーフケースからウイスキーの小瓶を出して、ぐびりとやる。口のなか、胸のなか、腹のなかがカーッとなって、葱間は歩道橋の手すりをそれまでよりぐっと強めにつかんだ。山のほうから吹きおろす風がビルとビルのあいだで増幅されて幹線道路をびゅう! と抜けて、上体が傾き、アクション映画のワンシーンを思い出す。路上、ちょうどたまたまクッションになってくれるやわらかな幌のトレーラーは、たまたま走っていなかった。べとつく串を放り、口もとを指で拭い、なめとる。
 きょうも一日わるくない日だった。
 独り言を抱いて歩道橋の階段を下る。人が人のあいだを抜き去り入れ違いながら歩く界隈とは逆の方角に進み、ひとり、だれとも摩擦せずにただ路面だけと摩擦し、立体交差、高架下、車しか通らない三車線の、埃っぽい歩道をてくてくと歩く。背の高いビルが、徐々にまばらになり合間の、小さなビルと、唐突に不調和な新築一戸建て住宅の車庫には外車が鼻先をこちらに突き出して突き刺さってすぐ隣には、コーヒーとお茶の自動販売機。喉は渇いているけれど飲みたいジュースがないので我慢して歩く。びりびりと空気を震わせて見たことのないナンバーのトレーラーが先を行き、よろけながらも先へ進んで、三車線から左に折れて、自動車の呼吸音はやがて動物の呼吸音に塗り替えられてゆき、目の前を端正な犬と人が横切ったので、犬に目配せ。
 軽トラックが一車線ずつすれ違えるほどの道の、角にある古本屋の前にワゴンが出ていて、透明な厚手のビニールをはぐって一冊、ぱらぱらと、はらはらと甘い匂いが立ち上り、からからと引き戸を店内へ進む。小ぎれい、整然と片付いている棚は一冊の乱れもなく気味の悪いほどで、予想よりも手前の、死角に、レジとその奥に座る予想よりも年若の、女性。慣れた手つきでカバーをかけて、輪ゴムでぱちんととめてくれて、こちらの目を見てくれた。また来ようと心をやわらかく決めて店を出る。
 炭のにおいがしみついた蛍光灯の暗い店の、定員八名のL字型カウンターの端っこに腰かけていつものように、焼酎を飲み、新聞紙をめくる。駅から商店街と逆方向の北口へ出て、てくてく五分と少々の小さな表通りに面して、葱間と同い年になるという「鳥もろ」の暖簾はいい味でてる。しゃぶりついたらほんとうにいい味がでそうな気がする色をしている。開きかけの引き戸、暖簾の下を、家路の下半身が歩いて行く。制服の学生、私服の学生、歩みの遅い老人と、サンダルと、パンプスと、スラックスと革靴。雪駄の親指をぽりぽりと掻きながらグラス、というかコップを傾け社会面に目を落とす。グラスとコップの違いというのはたいへん微妙な問題であるなあと思うが、そんなに盛り上がれる話題ではないのでそのまま口にせずにいる。カウンターの端っこに腰かけているが、残りの七名分の席は空いているので、端っこにいる意味は実際のところ、ない。定位置なのだからしかたない。
 とはいえ偉そうに、この席をとっておけなどというつもりも葱間にはない。この席が埋まっていれば快く他の席につくだろうし、仮に満席の場合はにっこり笑って「また来るよ」なんつって、爽やかに店を出るだろう。ただ、そのどちらもまだ一度も発生したことはないし、それはなぜかといえば葱間はやっぱりそうなるのがいやだから、できるだけ早い時間に暖簾をくぐるのだ。開店直後というのはちょっと照れる、だからすこしだけ間をおいて、自然に暖簾をくぐれるようなタイミングまで、そのへんをぶらつく。葱間にはそれができる。できる男なのである。
 新聞に飽いて、カウンターの中へぼんやりと視線を遊ばせてみる。ばあちゃんがひとり、菜箸でおでんをつつきながら様子を見ている。それ以上にテレビを見ている。テレビの中の気象予報士は、きょうもあしたも晴れだとにこやかに告げている。こちらもにこやかに告げられる。ばあちゃんは表情を変えないが、テレビから目を離さないままだ。ばあちゃんといっても葱間にしてみれば祖母というよりは自分の母親のほうに近い年齢だと思う。けれど葱間より若い客からすれば、ばあちゃんと呼ぶのも自然だと思えるほどにばあちゃんの顔と首と手には歳月が刻み込まれているし、葱間よりも年上、なんなら、ばあちゃんとほとんど変わらないような年代の客も、ばあちゃんと呼ぶのだ。だから葱間もばあちゃんと呼ぶ。もうひとり、カーさんは、きょうはいない。
「きょう、カーさんは」
「来ないよ」
「ばあちゃん、ひとりか」
「いやなら帰んなよ、席がひとつ空くから」
「おれしかいないでしょ」
「あんたが早すぎるんだよ」
 ばあちゃんはテレビから目を離さずに、ときどきおでんをつつく。大根と瓶ビールをもらう。辛子だけなめて、冷たいビールをコップですする。うまい。開きかけの引き戸、暖簾の下を通り過ぎる靴の群れを鑑賞する。グッピー、ネオンテトラ、エンゼルフィッシュのようなスニーカー。足早に駅に向かう若者たちの群れ。空気の色がだいぶ変わってきた。そろそろ暖簾をくぐって、ひとりまたひとりと吸い込まれてくるに違いない。コップの半分まで注いだところで瓶ビールは空になり、葱間はきょうの潮時をここと決めて、席を立つ。
 夜の、おそらく朝まで続く生ぬるい空気感。駅からの小さな表通りの、アパートに帰る角のパン屋がきょうはまだ開いていて、ラッキーだ。ところがなかに入ると、もうほとんどの商品は売り切れていて棚の上は少々のパンくずを残すだけで、がらんとしていて、店員のおねえさんだけがこちらを見て愛想よく微笑んでくれる。きっと今夜は彼氏と会うのだ。彼氏のほうが仕事が終わるのが遅いから、気持ち的には余裕なのだ。いいじゃない、葱間はそれで満足だ。レジ近くの冷蔵ケースに残っている値下げ後価格のサンドイッチを、飲みきりサイズの牛乳パックと一緒に購入し、ポッケの小銭でちょうどの会計。おねえさんの手はひんやりと、ほのかに汗ばんでいた。これは明日の朝食にしよう。出張のときのビジネスホテルに帰るときのようなスタンバイで、ビニール袋をさげてアパートに向かう。上品な愛人っぽいスカートの丈とすれ違う。
 きょうは全部で千七百円減った。団子百円、古本百円、鳥もろ千二百円、牛乳百円、サンドイッチ二百円。鳥もろで千円を切らなかったのは、ちょっと気分がよかったからで。

 朝は、起きるようにしている。目覚まし時計は使わない。目覚まし時計はすこし前に壊れてしまっていまはただの置き時計として静かに眠っている。前の晩によほどの夜更かしをしていない限り、朝は自然と目が覚めるものだ。そこに葱間の意志は関係ないが、自然と目が覚めたその後に活動を開始するのかどうかは葱間が自分の意志で決めることができる。二度寝は気持ちいいものだが、二度起きはあまり気持ちよくないことにあるとき葱間は気づいた。起きるなら一度起きが気持ちいい。
 ぼんやりした頭をバランスよく体の上に乗っけて布団を出る。カーテンを開け、雨でなければ窓を開ける。水道の水を飲み、トイレに行き、そこで初めて時計を見る。七時を過ぎていることは、まずない。食パンをオーブントースターにセット、じゃない、きのうはサンドイッチを買ったのだった。牛乳も買ったけど、それはそれとして、コーヒーメーカーをセット。FMラジオをつけると、つとめて冷静な声色で交通情報がレポートされている。彼女らはいったい何時に起きているのだろうな、などと浅くごく浅く考えながら、もぐもぐとサンドイッチの惣菜感を味わいながら、陽当たりのよい窓際の小さなテーブルで、葱間の四肢五臓六腑はゆっくりと起きてゆく。
 FMラジオが、一日の始まりに爽やかなエールを送るのを聴き届けて、葱間は熱いコーヒーをマグカップに注いで、静かにぼーっとする。静かに、は、独り暮らしだしそもそも起きてから一言も発していないのであるが、心静かに、胸の中が凪いだような状態で、空っぽの思考をころころともてあそぶのである。からからころころと音をたてて空っぽの。葱間は冷静だ。冷静に考えてこれがいいのだ。つかずはなれず、ぶんなげておきたいのだ。アパートのがらんとした多すぎる部屋の中に思考を転がして遊ぶ。
 シャワーを浴び、髭を剃り髪を整え服を着替えて、ブリーフケースを手にアパートを出る。ブリーフケースでなくともよいのだが、他にちょうどよい鞄を持っていないのである。葱間が持っている鞄は、海外旅行にも使えるようなスーツケースか、ブリーフケースの二択。スーツケースはぴかぴかのままで部屋の片隅の花瓶台になっている。花はない。ざっ、ざっと歩く。午前の駅前には平和な時間が降りている。電車には乗らずに線路と並行した道を、徐々に線路から離れてゆく道を進み、市立図書館に本を五冊返す。図書館のなかはたいへんな盛況で、きょうも時間が止まったように熱心な方々が椅子に座って下を向いている。葱間はそれを眺めて、不安な気持ちとすこしのあいだだけ向き合う。五冊借りようと思ったけれどぴんとくる本が五冊なかったのと、きのう一冊古本を買ったのだということを思い出して二冊だけ借りる。読み終わったらまた来ればよいだけのことだ。図書館を出る頃には太陽が真上まできていて、図書館がいかに暗かったのかを思い知らされる。若干軽くなったブリーフケースを手に、さらに駅から遠ざかるようにして歩く。
 広い芝生の大きな公園では、幼稚園児だろうか、保育園児だろうか、ピクニックめいたおもむきの集団と引率の大人が、ランチを頬張る者あり走り回る者あり、食べる者にちょっかいを出す者あり、めいめいに青空を満喫している。水飲み場で水を飲んでベンチに腰かけそんな様子を目の端っこでとらえているうちにこちらもお腹がすいてきてしまって、ただこのベンチにいちど腰をかけてしまった以上ここから立ち上がるのは困難なこと甚だしい。しまった、食べるものを買って持ってくるのであったと葱間は悔いる。遠足で弁当を忘れたとき、だれかの弁当箱の蓋を借りて、そこにみんなから一口ずつのおかずを恵んでもらい、結果的にだれよりも豪華な弁当になるような事例を思い出す。いや、思い出す、ではない自分ではやったことない。あの幼稚園児あるいは保育園児から、そのようにしておかずを恵んでもらえないかな。さすがによくないと思うけれど、恵んでもらえたら最高だな。うんとのびをして葱間はベンチから立ち上がり、道歩きを再開すると、まもなく弁当屋を発見し、海苔弁当を購入してしまう。公園に引き返すと同じベンチが空いていたが、園児たちはもう姿を消していた。
 ブリーフケースを枕に芝生で昼寝をして、目を覚ましてそのままストレッチをして、ブリーフケースからきのう買った古本を読み始めるけれど最初の十ページを三回繰り返してやめた。雪駄をつっかけて再び葱間は歩き出す。市民プールはやはりいつものようにがらんとしていて、ブリーフケースから取り出した海パンと水泳帽、水中メガネを着用。海では使ったことがないが海パン。いつもほんのりと引っかかっているが、ただ他にうまい呼びようが見つからない。葱間はがんらいガリガリな体型ではない、どちらかといえば太りやすい体質だと思っているが、年齢のわりには腹も出ず、バキバキにかっこいい体とはいえないが、まあ、ふつうだ。プールサイドで塩素のにおいを大きく吸い込んで、ちゃぷん、あとはすいすいと、特に距離も時間も決めずに、疲れるまで泳ぎ続ける。もっぱらクロール派。
 鳥もろのカウンターには葱間がひとり。雪駄の親指をぽりぽりと掻きながらコップの焼酎を傾ける。しみる。心地よく疲労した四肢五臓六腑に安い焼酎がしみる。いい味でてる暖簾が西陽を浴びて透けていて、その下をいろんな足が行く。スラックスと革靴が通過するにはまだ早い。L字型のカウンター、中にはばあちゃんと、カーさんが並んでいる。その向こうにテレビ、気象予報士は今晩から週末にかけての雨を告げる。「ああ、やだな」とカーさんがつぶやく。「洗濯物、出してきちゃった」テレビ、ばあちゃん、カーさん、葱間が惑星直列のような一直線の位置関係にある鳥もろの店内である。三人の目は同じテレビを見ている。カーさんはお胸が豊かなので、小柄でガリガリのばあちゃんはカーさんの影に隠れて葱間からはほとんど見えないが、見なくてもわかる、手元のおでんをいじくり回しているはずだ。「雨が降る前に帰っちゃえばいいよ」ばあちゃんが言う。「そういうわけにもいかないでしょ、きょうは。金曜だもの」とカーさんが返す。ああ、そうかきょうは金曜か、と葱間は思う。「ああ、そうかきょうは金曜か」と葱間は、思ったまんまのことを言ってしまう。カーさんが驚いた顔をして小さく笑う。「曜日の感覚、とっくになくなってるんでしょ」と言われて「そんなこと、うん、そうだね」葱間は返す。「そうだよね」カーさんは、ばあちゃんからリレーされたおでんの皿を葱間の前に置いてくれる。大根とはんぺんと牛すじ。きょうは気がついたらずいぶん長い時間を泳いでしまっていて、ずいぶん筋肉が疲れていたので、肉を食べておこうと思ったのだ。なんとなく。「牛すじ珍しい。なんかいいことあったの」とカーさんがきいてきてくれる。葱間は別に、と答えながら、とてもやわらかく煮込まれた牛すじにかぶりつき、よくよく噛みしめているうちにきょうは、ひとりまたひとりと、客が集まってきてカウンターだけの店をあっという間に埋めた。ばあちゃんとカーさんはL字型の中で立ち位置を変えないままに、まるで機材の前に立ちツマミやターンテーブルを自由自在に操る二人組テクノユニットのように手を動かし続け、必要最低限のMCをはさみながら、店内に、ここにしかないリズムをつくりだす。キリモリズムである。カウンター席を埋めるオーディエンスたちは徐々に盛り上がり、はじめは硬かった表情を徐々に緩め、心のネクタイを緩めて、週末に向かって緊張をときほぐしてゆく。葱間を除いて。葱間はときほぐす必要がないから。既に充分にときほぐれているから。カーさんの豊かなお胸が上下に揺れて、オーディエンスの視線も小さく上下に揺れる。
 きょうは全部で二千五百四十円減った。海苔弁当二百九十円、市民プール五百五十円、鳥もろ千七百円。使いすぎてしまったかもしれない。これで残りは九百四十九万五十円となった。アパートの鍵を取り出した手の甲にぽつりと雨粒が落ちて、カーさんの洗濯物のことを考えた。きょうも一日わるくない日だった。

 窓の外の雨を聴きながら、うすくFMラジオをかけて、ソファに寝転がって本を読んでいるうちに眠ってしまっていたらしい。携帯電話が鳴って、久しぶりに鳴ったのと寝ぼけていたのとで葱間はしばらく何のことかわからなくて、いつの間にか真っ暗な部屋の中で唯一光り続ける携帯電話の画面にようやく気づいたときには鳴り終わっていた。DJが明日も引き続き雨であること、そして北海道では雪が降っていることを告げる。北海道、いいね、雪。行きたいな、と葱間は思う。そうそう、電話。だが電話がどこにあるか暗くてよく見えない。まずは部屋の灯りを点けて、水道の水を飲んで、そのまま顔を洗って大きく息を吐く。
 テーブルの上の着信履歴には名前が表示されず、番号だけが表示されている。気にはなるが折り返しかける必要性も感じられない。トイレに入る。テーブルの上の携帯電話が再び鳴り始めて、慌てておしっこが便器からそれてしまう。掃除しなきゃ。と思いつつ掃除を後回しに、急いでトイレを出るが着信に間に合わない。ああもう。窓の外はすっかり暗い。カーテンを閉め、椅子に座る。二度目の着信は、実家からであった。折り返す。母が出る。
「きょうは休みなの」
「うん」
「こっちは一日中雨よ」
「こっちもだよ」
「そう。あのね、おおばもりくんってわかる」
「おおばもり」
「おぼえてないの、私もおぼえてないけど」
「おおばもり」
「高校で、C組だったって」
「ああ、大葉森」
「わかる」
「懐かしい」
「仲良かったの」
「いや、別に」
「やっぱり」
「なに、やっぱり、って」
「さっき電話が来たの、うちに」
「へえ」
「同窓会やるんだって、年末だか年始だか」
「へえ」
「あんたの電話、教えといたから」
「ああ、そう、ありがとう」
「きょうは休みなの」
「うん」
「帰ってこれそうなの、年末は」
「まだわからない」
「おねえちゃんも会いたがってるよ」
「うん」
「まあ、じゃあね」
「うん、じゃあ」
 本の続きを読み始める。東京の地名がたくさん出てくる本だ。なんとなく聞いたことのある地名の位置関係や街並み、そこから見えるものについて、葱間はイメージがわかない。東京でもなければ故郷でもなく、北海道でも沖縄でもない、中途半端なこのまちにどうして葱間は住んでいるのだろう。いや、もちろんどうしてといえば、これまでの経緯があってのことなのだけれど、これまでの経緯とはぷつりと切れてしまっているいま、どうしてこのまちに住み続けているのだろう。と、葱間は思う。

 鳥もろにはばあちゃんとカーさんと葱間、ほかに顔だけは知っている客が三人。「どうしてスーツなの」とカーさんが訊いてくるので、葱間はその理由を順を追って説明する。きょうは雪駄は寒すぎると思ったこと、雪駄の他に葱間は革靴しか所有していないこと、革靴に合わせられるような服はスーツしか所有していないこと、スーツを着るならネクタイは締めなければどうしても落ち着かないこと。「几帳面なんだか、ずぼらなんだか」とカーさんが笑い、ばあちゃんもフンと鼻で愉快に笑い、それぞれの仕事に戻る。テレビは北海道の、街中に雪の降る様子を伝えている。顔だけは知っている三人の客が、はー、雪。と、嘆息から、それぞれの生まれ故郷の話へと移行するのを、ぼんやりと聞いていると、引き戸をけたたましくガラッと開けて、社長がやって来た。社長、というのは彼のあだ名で、実際社長らしいのだが、名前は知らない。こんなに肌寒い日なのに、相変わらず汗を拭き拭き、ころころとした体を揺すりながらいつものL字の角、葱間の隣に腰を下ろす。カーさんが瓶ビールを社長のコップに注いでやり、それはうまそうにくーっと飲み干す。スーツの上着を脱ぐとYシャツは半袖であるのも相変わらずだ。社長は葱間をちらりと見て微笑み、目の前の瓶ビールを自分で注ぎながら、急に葱間をもう一度見た。「ネーさん、なんでスーツでネクタイなの」葱間は理由を話そうとするが社長に遮られる。「ネーさん、とうとうウチで働きたくなった。そうかそうか、それでか、よっしゃ、いまから面接するか。面接とか、いまさらもう要らないか」葱間が曖昧に笑い、カーさんが声を出して笑い、違う違う社長、と言うと「じゃあアレか、ウチはイヤか、それで就職活動でも始めたか」と社長は拗ねだして、「いえ、イヤじゃないです」と葱間が言うと社長は「じゃあウチ来るかネーさん」とかぶせ、カーさんが笑いながら順を追って理由を説明してくれた。社長はワッハッハと豪快に、本当にワッハッハと言って笑い、「ああ、安心した」と言って瓶ビールをおかわりした。葱間は社長のコップにビールを注ぐ。社長は葱間とコップをカチンと鳴らし、うまそうにくーっと飲み干す。
 帰り道、雨はもう上がっていて、傘を忘れてしまう。取りに帰るのが億劫でそのまま歩く。携帯電話が鳴る。大葉森だったら出ようかどうか、迷ったけれど、画面を見たら名前があった。小耳沢だった。電話に出た。

 革靴に合うような服を買うべきなのか、七分丈のズボンに合うような靴を買うべきなのか、そもそも七分丈のズボンで冬は乗り切れるのか、決めかねたままで買い物に出てきてしまって、結果として何も購入できないままに、ブリーフケースを脇に置いて、コーヒーをすすりながら喫茶店の外を眺めている。道を挟んで向かいのビルの全面ガラスが低い角度から入る太陽光線を反射して、さっきから葱間を眩しい顔にさせる。
 カランコロンと古風な戸の鐘の音をたてて、小耳沢が喫茶店に入ってきた。葱間のほうを見て、えっ、という顔で近づいてくる。
「仕事、始めたの」
「いいや」
「じゃあ、なんでスーツ」
「ああ、これは、なんとなく」
「悪いね、忙しいときに。あ、忙しくないのか」
「まあ、忙しくはないな」
 にっ、と笑って小耳沢はコーヒーとホットケーキを注文して、煙草に火を点けて葱間を真正面から見据えて「お前、あのタイミングで辞めて正解だったよ」と切り出した。
 小耳沢の勤める会社、すなわち葱間がかつて勤めていた会社が、事業を大幅に縮小する。それに伴い、小耳沢の部署、すなわち葱間がかつて所属していた部署が消滅する。それに伴い、小耳沢は転勤となることが九分九厘確定している。のだという。小耳沢の話は行きつ戻りつ、ここまで話し終えるのにお冷やを二回おかわりした。「お前はうまくやったよな、ほんと」「いや、そういうわけじゃないけど、たまたまだけど」煙草をホットケーキに押しつけそうになって慌てて灰皿に押しつけ、小耳沢はぬるいホットケーキをかじる。葱間はコーヒーを飲み終えてしまった。
「というわけで、しばしのお別れ」
「そうか、お別れ」
「そう。お別れ」
「どこに行くんだ」
「決めてない」
「決めて、って、決められるのか、転勤先」
「そうじゃなくて、辞めるの」
「ああ、そういうことか」
「地元帰るのもいいかな、とか」
「地元どこだっけ」
「北海道」
「いいじゃん」
「まあ、いいんだけど、これから考えるけど、海外でもいいかもって思ってる」
「海外」
「転職か、留学か、わかんないけどまあ、金はしばらく心配ないし、絶対ってわけじゃないけど、なんとなく」
「そうか」
「お前も、なんか、ちらっと言ってなかったっけ」
「え」
「辞めるすこし前に、海外に行くかもとか、なんか」
「そうだっけ、忘れた」
 葱間は、空のコーヒーカップをすすり、小耳沢の煙草を一本抜き取り、火を点ける。

 煙草が今いくらで売られているのか葱間は知らない。たぶん値上がりしているんだろうけれど、それがいくらかわからない。アパートの使っていない部屋の片隅の花の一本も飾られていない花瓶をどけてスーツケースを開けると、封を切っていないメンソールの煙草が二箱出てきて、一箱開けて、台所のひきだしをまさぐりマッチを取り出して、煙を吸ったけどメンソールの味はもうしなくて、そのままぼうっと台所に突っ立っているうちに伸びた灰を落とすべき灰皿のありかがわからなくて、しかたなくシンクに水を流して消す。布団に入っても頭の内側を煙が出口を失ってぐるぐると回り、体温で布団の内側がみるみる熱され、布団から這い出て、窓の外は雲ひとつない満月で、冷たい床の上で力尽きて眠る。
 案の定、登呂田さんの夢を見る。登呂田さんと葱間は高校の教室にいる。みんな学生服を着ていて、葱間はスーツを着ていて、登呂田さんは真っ白いドレスを着ている。雲ひとつない青空の下、照りつける太陽に顔をしかめながら、全校生徒が集まっているのは小学校のグラウンドである。遠足は予定通り実施される。歓声が上がる。
 クラスメイト達はみなリュックサックにお弁当と水筒を忍ばせている。登呂田さんはヒールの高い靴を颯爽と履き、スーツケースをゴロゴロと転がして、クラスメイト達と談笑しながらずんずん歩く。しんがりに葱間、副担任の先生と一緒に、足には雪駄を履いて、ざっ、ざっと、なんとか置いて行かれるまいと歩く。手にはブリーフケースを握りしめて、中にはウイスキーの小瓶と海苔弁当を忍ばせている。
 気がつけばやはり葱間は置いて行かれて、登呂田さんもクラスメイト達も副担任の先生もだれも見えなくなってしまって、それでも歩くよりほかないから、だってこれは遠足だから、目的地はわからないけれど前に進むしかないから、葱間は歩くのだが、どんどん風が涼しくなって寒くなって汗が冷えて、このまま冷たくなってしまうのかと弱気になったとき、目の前の上り坂を登呂田さんがゴロゴロ転がるスーツケースに跨がって猛スピードで逆走してきて、葱間は必死の思いでよける。ギャギャギャと土煙、焦げ臭い匂いを立てながら葱間の背後で急ブレーキをきめて、登呂田さんはスーツケースに跨がったままこちらを振り返りもせず「私、海外に行くの」と言う。
「ぼくらは海外に行くの」と葱間は問う。
「私は、海外に行くの」と登呂田さんは言う。
 目の前に出現した駅に特急列車が滑り込んできて、登呂田さんはスーツケースに跨がって改札口をスイーと通過、真っ白いドレスを脱ぎ捨てる。葱間は追いかけたいけれど切符がない。財布を開けると一千万円あるが、一千万円札が券売機に入らずに切符を買うことができない。登呂田さんが乗り込んだ特急列車は、プラチナとダイヤモンドの輝きを残してあっという間に目の前から消える。葱間は一千万円札の両替を駅員に拒まれている。冷や汗が凍りついてゆく。列車じゃ、海外には行けないんじゃないかな。
 ずいぶんと長いあいだ、登呂田さんのことを思い出していなかったことに葱間は自分でも驚いた。そして、登呂田さんのことを思い出しても、思っていたよりもずっと心静かに、揺れずにいられることに、ほっとして、そのあとすこしだけ寂しくなった。

 しめかざりもなく、門松もなく、いつもと変わらず淡々と営業するスタイルである。テレビの中では羽織袴の気象予報士が、全国各地の初詣の様子にコメントをしている。カーさんがつくってくれた卵酒を葱間はすする。トレンチコートを脱がないで座っている。
「同窓会もあったんでしょう、どうして帰らなかったの」
「なんとなく」
「なんとなくなら帰りなさいよ、会いたがってる人、いっぱいいるでしょ」
「いないよ」
「そんなことないよ、ご両親も、お姉さんも」
「んん、まあ」
「会えるうちに会いに行かないとだめだよ」
「だって、風邪もひいちゃったしさあ」
「それは、早く、治して」
 カーさんはカウンターからぐいと身を乗り出して、熱々のおしぼりを葱間の顔に押しつける。熱された空気が葱間の鼻のなかに入ってくる。しばらくして、そのまま顔の汗をぐいと拭って、カーさんがカウンターの向こうの定位置に戻る。熱々だった顔面が爽快さで充たされる。
「そういうカーさんだって帰ってない」
「私は今年は帰るよ」
「今年って」
「来週」
「あ、へえ、そうなんだ」
「会えるうちに会いに行かないとだめだよ」
「床屋さんだっけ、カーさんち」
「そう、パパとママでやってるの」
「継ぐの」
「まさか。免許は持ってるけど」
「持ってるんだ免許」
「それが条件で、田舎を出てこれたの」
 ばあちゃんがクシャミを一発かまし、つられて葱間も一発かます。「ネーさん大丈夫か」と社長が心配してくれる。八席のL字カウンターは満員御礼である。葱間も、社長も、そのほかのおなじみさんも、みんなひとりの八人。カウンターの向こうも入れて十人。一年で一番分厚い日めくりカレンダーのすぐ横に、くたくたでぺらぺらの写真が画鋲止めされていて、そこでは初々しく照れている感じのカーさんと、特に現在と変わったところの見られないばあちゃんと、そして、鶏肉一筋だったという、おとうちゃんが写っている。鳥もろで鶏肉が出るところを葱間は見たことがない。
 社長がお年玉をくれようとするのをなんとか固辞して、その固辞する様子がおかしかったらしくカーさんにカラカラと笑われた。おかわりした卵酒で耳を赤くして立ち上がる。外へ出るときふらついて、心配そうに見送ってくれたカーさんに寄りかかってしまった。やわらかかった。にこにこと、よろよろと帰途につく。夢は見なかった。

 一週間、一切アパートの外に出ずに過ごした。聞こえるか聞こえないかのFMラジオを流し続けながら、年末に十冊まとめて借りていた本をちびちびと読み、ちびちびと眠って短い昼間を過ごした。余計なことを考えずに済んだ。オーブントースターで焼いた切り餅に砂糖醤油をつけて食べた。海苔も巻いてみた。チーズも挟んでみた。インスタントの味噌汁と、野菜ジュースで栄養を補っているつもりだったけれど、はたして意味があったのかどうか。一週間、一日三食、二十一食、規則正しく食事を摂ってもなお、実家から届いた段ボール箱は半分も減らない。この量。想像力を欠いているとしか思えない量。葱間は毎度、不思議でならない。母は葱間のことを何人家族だと思っているのだろうか。もしかすると、妻も子もいるのだと錯覚しているのじゃないだろうか。子はともかく妻ぐらいは、などと。
 大葉森からは結局その後いちども着信がなかった。あの知らない電話番号がそもそも大葉森のものだったのかどうかも葱間にはわからないし、同窓会が開催されたのかどうかもわからない。「会えるうちに会いに行かないと」というカーさんの言葉を反芻する。何度か反芻してみるが、自分自身、彼らと会いたいのかどうか、よくわからない。小耳沢は自らの退職に際し、どうしてわざわざ自分に会おうとしてくれたのだろう。葱間が明確な理由をだれにも説明せず、そもそも明確な理由を見いだせないまま、十六年勤めた会社を辞めて、もうすぐ一年が経とうとしている。部屋が多すぎるアパートで、目的地を失った貯蓄をじっくり食いつぶしながら、自らの自然を、のんびりとまっとうしている。
 朝、布団から出て起き上がる、その動作がほんのわずかに軽く感じられた。おっ、と思った。親指から小指まで一本ずつ、まず左手、そして右手と、ゆっくり折り畳んでゆき、ぎゅっと握る。伸びた爪が手のひらに食い込む。ようやく体に力がみなぎってきて、ほっとする。ちょうど最後の一冊をまもなく読み終わってしまうところだったので、外出できるのはちょうどよい。図書館は開いているだろうか。いわゆる松の内を過ぎ世の中は通常営業で、たぶん大丈夫だろうとは思うけれども、公の施設はときどきひょんなタイミングで休んだりするのでわからない。プールで泳ぐにはまだ体力がもたない気がするし、せっかく足をのばしておいて短時間で終わってしまうのはつまらない。ああ、いつか行ったあの、古本屋、の店員さん、かわいかったなあ。あそこなら図書館よりも近いし、いいだろう、たまには、買うか、本。
 カーテンを開けると外はまだ暗い。冬とはいえ、まだ暗いうちに起きるのはしばらくぶりだ。コーヒーメーカーをセットしてから食パンがないのだということに気がついて、けっきょく切り餅にチーズを乗せてオーブントースターで焼く。コーヒーをすする。餅をかじる。外は暗いままだけれど、やがて迎える爽やかな朝の空気を想像して、出かけてしまおう、ぶらぶらしてみようと葱間は決めて、シャワーを浴び、髭を剃り髪を整え服を着替えてアパートを出る。意外と往来を人が歩いている。犬の散歩というのでもなく、制服の学生、私服の学生、歩みの遅い老人と、歩みの早い成人。古本屋は閉まっている。
 つまりは日の出前ではなく日没後だったのであり、葱間は鳥もろのカウンターの端っこで焼酎を飲み、おでんをつついている。
「きょう、カーさんは」
「来ないよ」
「ばあちゃん、ひとりか」
「しばらくひとりだよ」
「ああ、そっか」
 カーさんの帰省は、必ずしも正月というわけでもないらしい。一年か二年に一回、特に期限を決めずに帰るのだそうだ。その間は、ばあちゃんが一人で切り盛りする。そんなやりかたで、ずっとやっている。鳥もろに定休日はない。それは、おとうちゃんが決めたことなのだそうだ。と、葱間よりもずっと前から鳥もろに通っている社長がぜんぶ教えてくれた。ばあちゃんは黙ってテレビと鍋とを交互に見ながら、葱間に大根を盛りつけてくれる。「続けるっていうのは大変なことだよ」社長はビールをうまそうに飲んで、眼を閉じてしみじみと言う。「続けるっていうのは大変なことだよ」二回言う。「そうですね」と葱間は答える。「なにが大変なもんか」と、ばあちゃんが言う。「そうですね」と惰性で言ってしまいそうになって葱間は口をつぐむ。「ここが私の店なんだから、ここにいるのは当たり前だろ」
 客席に八人、カウンターの向こうには一人。テレビの中の気象予報士が日本の半分の大雪を告げる。「マジか」と見知らぬ、若い男の客がつぶやく。「ちゃんと帰れたかな、電車、動いたかな、カーさん」と、社長が言う。「もう着いてるだろうよ」とばあちゃんが言う。
 天気予報とその周辺の話を上の空で、葱間はカーさんのことを考えている。カーさんのいないカウンターのなかは、カーさんの豊かなお胸のぶん、がらんと空洞ができていて、ばあちゃんひとりだけでは妙に広い。カーさんは、登呂田さんとは全然似ていないなあ。顔とか体型とかもそうだけど、喋ることの一つひとつというか、いや違うな、言葉の問題ではない、なんだろう。カーさんの姿を思い浮かべる。カーさんはいつも、横を向いているか、正面を向いている。L字カウンターの向こうから葱間に対して接客をするのだから当たり前なのであるが、カーさんはいつもそうだ。登呂田さんはどうだっただろう。登呂田さんは、どちらを向いていただろう。思い出せない。すくなくとも正面の像を思い浮かべることができない。カーさんが、早く帰ってくればいいなと思う。登呂田さんは帰ってこないし、そもそも葱間のところはもう帰るところではないのだ。
 次の日も、次の日も、次の日も、ばあちゃんはひとりで鳥もろを切り盛りした。いつものように焼酎のコップを傾け、一杯だけ飲んで帰る、二百五十円ずつ減る日が続いた。日に日に、登呂田さんの記憶が薄れていって、もう顔すら思い出すことができなくなってゆく。いつまで経ってもカーさんは帰ってこずに、けれどばあちゃんも社長も、特になんにも気にしていないようなのでそれを頼みにして、葱間は飲み続けた。アパートに帰ってからウイスキーを飲む夜が増えて、朝、二度寝をするようになった。読書のペースが落ちた。テレビの気象予報士が南のほうの桜の開花を告げて、列島を押し上がってくる桜前線が、葱間の内圧を徐々に高める。二月。三月。

 歩道橋の上から幹線道路を見下ろす。桜の花びらで両脇の歩道が埋め尽くされている。乾いた風がびゅう! と吹き抜け、その意外な冷たさに身を縮め、雪駄の親指を掻く。冷え切って、砂でじゃりじゃりとしている。道行く人々は桜に見とれ、こんな強風の中でジャグリングをする芸人のことをちらりと見る程度で、ほとんど立ち止まりはしない。きっと彼は、たくさん練習を積んだのだろう。はじめはうまくいかない、自分でも何やってるんだかよくわからない時期を経て、あるとき、おっ、と、うまくゆく瞬間があって、でも持続しなくて、それでも粘り強く繰り返し、繰り返しているうちに、ものにしてきたのだろう。そんな日々の果てに得た技術が、一銭のおひねりにも結びつかないのだとしたら、彼はその苦難を無駄だったと後悔するのだろうか。収入を得るための技術だったのだとすれば、きっとそうだ。けれど、ほんとうにそうだろうか。芸人の頭上に逆さに乗せられたハットにならば嬉々として小銭を投げ込むはずの人々は、きょう、路上に散った桜に目をときめかせている。桜にはおびただしい数の品種があるらしいけれど、葱間はそれを知らないし見分けることもできない。残念だなあと思う。風に飛ばされぬよう目深にかぶったハットのつばに隠れて芸人の顔は見えない。
 歩道橋から地上へ、大型トラックのたくさん通る砂埃の幹線道路脇の歩道、やわらかな花びらの絨毯を踏みつけて歩く。ひとけのないほう、ないほうへと、立体交差、高架下、背の高いビルがまばらになって、自動車の呼吸音が遠ざかる。携帯電話に着信があった気がして取り出すが、錯覚である。古本屋の近くの角でかわいい女性とばったり鉢合わせてしまい、すみません、と会釈してすれ違った後、どこかで見たことある顔だと、あ、あれはパン屋の、と思い出す。夕方というにはまだ早い、けれど髪を下ろして、パン屋の制服からは想像もつかないあんなに派手な服装で。ふふん、とひとり笑みをこぼした葱間は、しばらく使っていなかった顔の筋肉を使ったように感じて、葱間の足は、自然と鳥もろに向く。このところ、足が遠のいていた鳥もろへ、特に期待はしないけれども、自分でも妙に冷静な気持ちで、歳月がしみついた暖簾へ。
 暖簾がかかっていないその小さな表通りはいつもと違う見たことのない、けれど昔からそうだったかのようでもあり、どこか寂しくも違和感のない仕上がりである。夕方というにはまだ早く、いくらなんでも葱間にしても、これまでで一番早くに店の前まで来てしまったことを照れくさく感じる。そういや、鳥もろの開店時刻というのは決まっているのだろうか。確かめたことなどなかったし、そりゃ真っ昼間からやっているような店ではないけれど、とっぷりと夜が更けてから開くという店でもなく、盆暮れ正月、年中無休で、一杯ひっかけていける場所、という認識は、それでもよく考えてみれば葱間が実際に足を運び知っているのはここ一年のことだけである。同じ通り沿いの、これまで一度も入ったことのなかったチェーン喫茶店に入って、閉店時刻までつぶしてみたが、暖簾は夜更けまでかからずじまいでその日は終わった。三月。四月。「テナント募集」の貼り紙が三枚。四枚。

 スーツケースにありったけの、わずかばかりの衣類を詰め込み、葱間は電車に乗り込んだ。スーツに革靴の人々でごった返す午前中の車両のなかで、雪駄に七分丈ズボンの葱間はひとり、裸足の指が踏まれないように気をつけながら、まわりを見ていると、みんなが自分よりも不健康そうに見えてきて、なのにみんなが自分よりもしっかりと立っているようにも見えてきて、自分よりも、という自分の見方がよくないのかもしれないなと思って、優先席に座った。乗客はいくつかの大きな駅で、どっ、どっ、と降りて車両はいきなりがらんとして、腕まくりしていた長袖Tシャツの袖を伸ばす。終点で車掌に起こされるまでのあいだスーツケースに頬杖をついて眠ってしまう。
 電車から汽車に乗り換えてさらに揺られる。一両編成の単線の鈍行、ワンマン運転士と葱間の二人だけ、ボックス席を独り占めしてウイスキーの小瓶に口をつけて、窓の外の晴れ渡った海をぼんやりと眺める。海沿いをひたすらに走る汽車はそれなりのスピードが出ているはずだが、流れる風景に変化はなく、ただただ波が、一瞬のかたちを成しては消え、水平線の向こうには何も見えず、ディーゼルエンジンの音がやたらと耳につくものの、やがて遠のく。波がやや高いように見える。汽車の揺れで、ウイスキーの小瓶のなかで波が発生する。飲み干してしまう。駅と駅との距離が、いままでに経験したことがないぐらい長い。
 いきなり、学生服に身を包んだ集団がどやどやと乗り込んできて、葱間はボックス席の向かい側に投げ出していた裸足を下ろし、スーツケースを網棚に上げる。たぶん高校生だろう、男子は男子、女子は女子、いくつかの小集団に分かれて、いくつかのとりとめない会話が飛び交う。内輪を前提に繰り広げられる話の内容はもちろん葱間には理解できないが、とりとめないというのは声の表情からわかる。会話それ自体が、彼ら彼女らにとってはごはんのようなものであるに違いない。それは若いからなのかもしれないし、それとも若さなどと無関係に、だれにとってもごはんのようなものであるのかもしれない。そのような純会話を、葱間はごくごく限られた場所、限られた相手としか、してこなかった、会社を辞めてからは、そんな一年だった。楽しかった。とても。楽しかった。楽しかった。楽しかった。
 高校生たちのどやどやに混じって葱間も降りる。やけに大きな無人駅の駅前は閑散としており、既に肌寒く、太陽が完全に沈むと無力化されてしまいそうで、その前に宿を取ろうと駅でだれかに尋ねようとするが無人駅であり、途方に暮れかけるが、そこは葱間とていちおう大の大人であって、一〇四に電話をかけるぐらいのことはする。駅から最も近いビジネスホテル、とは名乗っているがビジネス用途で訪れる人がいるのかどうか、古く、小さく、しかしながら清潔で好感の持てる宿。窓を開けると海風が吹き込んできて、かすかに波の音も聞こえてくる。フロントで電話帳を借り、理美容室を見るとアカシヤ、腰沼理容室、バーバー鴨倉、ヘヤーサロンプレジデントの四軒しかなく、葱間はバーバー鴨倉の所在地を読み上げ、それがどのあたりかをフロントに尋ねたところ、バスで十分、歩いて一時間程度であるという。明日、歩くことにして、部屋に戻る。テレビでは気象予報士が「波浪注意報」と述べる。眠る。
 駅前のうら寂しさからは想像もつかないほど、海のそばにある駅から山の方角へと向かうにつれて、そこそこ、といっても田舎のそれであるが、家や集合住宅が集積している一帯が姿を現し、病院や郵便局、信用金庫、金物屋や青果店、地場のスーパーマーケットなどもぽつりぽつりと見受けられる。そのさらに先には、全国どこにでもある大型商業施設のミニマム版があるようで、ときどき葱間を追い越す車はすべてそちらのほうへと向かって走り去る。
 バーバー鴨倉は新築の一戸建てと一戸建ての間に挟まれて、そのやや小ぶりな店構えはいかにも長らく続けてきたのだろうというたたずまいで、色褪せたブラインドから店内の蛍光灯の青白い光が漏れて見える。なかをのぞき、だれも見えないので入ってみると、椅子が二つ。ややあって奥から、葱間の母親のような年頃のおばちゃんが「いらっしゃいませ」と迎えてくれたが、目が合うと親しげな顔はにわかに訝しげに曇り、またもややあって「新しいかたですか」と言われた。「は」「役場の、新しいかたですか」四月の平日の日中に、スーツにネクタイでブリーフケースを手に、いちども見たことのない顔の男が現れたら、そう考えるのが自然だろうか。いや、どうだろう、そこは、客だと思うほうが自然というか、妥当な対応なのではないだろうか。「いえ」と答えると、おばちゃんは再びパッと愛想のいい顔に戻って「あらまあ、なんて、失礼しましたほんと、どうぞ」と流れるように椅子へと促し、葱間は上着を脱いでそれに従ってしまう。床屋に来て、他に客がいない場合、自然とそうなるように、髪を切られ、髭を剃られ、髪を洗われ、乾かされる。「鴨倉さん」「はい」「あ、鴨倉さん、なんですね」「そうですよ」ぐらいの会話を交わし、さっぱりとして、店を出る。太陽が眩しい。風が心地よい。
 そうじゃない。
 そうじゃないのだ。だが、葱間はこれで、さっぱりとしてしまったわけで、そのとき葱間は、また髪が伸びるまで、このまちにいようと思った。古本屋を見つけたので、二日で一冊と計算して、十五冊買った。ブリーフケースに詰め込んで、一時間かけて宿へと戻り、連泊の旨を伝えた。部屋に戻り、窓を開けて、本を読み始めると、いつもと変わらない。

 五冊目の本を読み始めてすぐに、髭を剃りに行くだけでもいいんじゃないかと葱間は思いついた。髭を剃るためだけに床屋へ行った経験は葱間にはない。でも、そのときには、それでもいいんだと強く思った。ふだん読まないような冒険小説を読んでいたからだろうか、葱間は、たぶん葱間の人生において最も大胆になっている。スーツを着て、ネクタイを締めて、ブリーフケースを片手に葱間は一時間の道のりを歩く。わしわし歩く。暑い日だった。バーバー鴨倉が見え、葱間の内圧が高まる。高まる手をドアにかけようとしたところで、店内が真っ暗なことに気がつく。心臓が止まりそうになる。ドアは開く。なかに入る。ややあって、聞き覚えのある「いらっしゃいませ」が聞こえて、奥からカーさんが現れる。あっさりと現れる。
「どうして」
 カーさんはこちらを見て、カラカラと笑い「どうして、どうしてスーツなの」と笑う。葱間の内圧が下がり、汗が噴き出る。上着を脱ぐ。
 熱いシェービングクリームを刷毛でたっぷりと塗りたくった上から、熱々の蒸しタオルを乗せられ、気持ちよくて眠りそうになる。すっ、と蒸しタオルが外され、もう一度熱いシェービングクリームを刷毛でたっぷりと塗りたくられた上から、冷たい剃刀の刃があてられる。そりそり、そりそりと、肌が赤ん坊のようにすべすべになってゆく。葱間は何も喋ることができないが、カーさんも何も喋らない。葱間の視界には、豊かなお胸しか入らない。額の生え際、もみあげ、眉毛の上下、丁寧に、熟練の理容師のように、カーさんは剃刀をあててゆく。もう一度、新しい熱々の蒸しタオルで、葱間の顔をぐいと拭き上げる。顔面が爽快さで充たされる。
 仰向けに倒された椅子の上で、前掛けで両手の自由を奪われて、無防備なままの葱間は、目の前の豊かなお胸に向かって、想像していたよりも遥かにリラックスした声で、すんなりと言う。
「カーさん、おれと一緒に帰ろう」
 カーさんの気配が静止する。
「カーさんのことが好きです。おれと一緒になりませんか」
 手を止めたカーさんは無言のまま、背後へと二、三歩の距離へ行き、戻ってきたかと思うと、もう一度、新しい熱々の蒸しタオルを葱間の顔面に押しつける。
「四十歳手前で」
 葱間は
「それまで、特に何もなくて。つまり、何もなくて」
 何も
「告白するのって、どんな気持ちなの」
 喋れない。
「ねえ、どきどきしたの」
 熱された空気が葱間の鼻のなかに入ってくる。
「ありがとう。でもね、帰れないよ」
 ああ
「もう、私は、帰ってきたの」

 やけに大きな無人駅の待合室のベンチに座り、スーツケースに頬杖をついて、さっぱりとした顔で、ひとり、葱間は目の前の券売機と、その上に貼られている路線図を眺めている。目はぼんやりと、一つひとつの駅名を追うが、さっぱり頭に入ってこずに、そこから先の思考が組み立てられずにいる。雪駄の親指をぽりぽりと掻いて、もう一度、はじめから路線図の駅名を追う。その図に環状線はなく、せいぜいところどころ二股、三股に分かれる程度で、どこかしらの行き先が決まるようになっているはずなのだが、葱間は、どこ行きの切符を買えばいいのかわからない。
 海から吹く風が改札口を抜けて、待合室に入ってくる。その風を追うようにして、改札口からどやどやと学生服の男子と女子の小集団が入ってくる。たぶん、学生服の男子と女子の小集団だと思われるのだけれど、葱間の目には紺色の塊にしか映らない。海風も、会話も、待合室の外へ抜け去って、無人駅の空気が再び止まり、波の音だけになる。
 海が見える。雲ひとつなく、もやひとつかからず、抜けるような、さっぱりとした空の下、水平線の向こうに太陽が沈もうとしているが、そのほかには何も見えない。ここから、海外へ行くにはどうすればいいのだろうと葱間は考えてみる。どこ行きの切符を買えば、海の向こうへと行けるのだろう。そしてもう一度、路線図の駅名を目で追うが、いつまで経っても葱間の乗るべき汽車は来ない。たぶん来ない。
「ネーさん」
 不意に呼ぶ声のするほうへ、なんとか目の焦点を合わせようとする。ころころとした体を揺すりながら、猛スピードでこちらへ駆けてくる人がある。
「ネーさん」
 やわらかな体に抱きつかれて、目の焦点が合う。社長が葱間に抱きついている。「わ、わ、わ、社長」と社長の肩を、なぜだか惰性でぽんぽんと慰めるように叩いてしまう。社長の肩越し、向こうに、小さく、車椅子に座ったばあちゃんがいる。こちらを見て、カラカラと笑っている。
 葱間は泣いてしまった。

〈了〉

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