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細川周平「アメリカでは──カエターノ・ヴェローゾ『熱帯の真実』を読む」-その1

月刊誌『ユリイカ』2003年2月号「カエターノ・ヴェローゾ特集」に掲載された音楽学者の細川周平さんによる『熱帯の真実』評を、細川さんと『ユリイカ』編集部のご厚意により、ここに再掲します。
このテキストは、『熱帯の真実』の編集をしながら何度も参照し、そのたびに細川さんの読みの鋭さ、的確さ、深さに感嘆していました。ポルトガル語による原書の発売から5年あまり、全文を読み通した人が日本に何人いただろう? という時期に、これほど精緻に深く読み込んだレビューが発表されていたことに、畏怖の念すら覚えるものです。
『熱帯の真実』には訳者・国安さんのあとがきに加えて、中原仁さんと岸和田仁さんのおふたりに懇切丁寧な解説を書いていただきましたが、さらにこの細川さんの評もぜひ読んでいただきたいと思い、再掲をお願いした次第。これを読めば本書の理解がいっそう深まることは保証します。4回に分けてアップしますので、ぜひご一読ください。なお本文からの引用は今回出版した国安真奈訳に替えています。
(掲載をご快諾くださった細川さんと『ユリイカ』編集部にこの場を借りて御礼を申しあげます)


信じられないような思想があるなら/歌にするほうがいい
カエターノ・ヴェローゾ「言語」

名前のない国、国のない名前

 カエターノ・ヴェローゾの『熱帯の真実』は、還暦近い「知的なポップスター」の回顧録ではない。それは二〇世紀後半の最高の知性の一人が、ジョアン・ジルベルトを聴いた時に始めながら、音楽活動に没頭していたために中断していた「評論活動」(50ページ、以下日本語版から引用)を集大成した著作である。幼年期や楽屋裏のこぼれ話はいうまでもなく、牢獄生活やマスタベーションやドラッグのことまで、年代順ではなく、循環する時間構造──記憶の本質──に乗って赤裸々に、しかしよく計算されて記されている。いくつもの時の記憶が、多層的に構築されている。本の最後が本を書き出すきっかけで終わっているのは、プルーストを十分に意識してのことだろう。自分について書く者をつねに呪縛するナルシシズムと、それから距離を取った省察が拮抗した希有な文体が、五〇〇ページにわたって、時には甘い感傷を誘いながら、また時には刺すような痛みを伴いながら、読者を引っ張っていく。
 世界中で「音楽を考える」知性は、それほど多くないとはいえ、皆無というわけではない。しかし「音楽で考える」知性は、私の知る範囲では、ブラジルに集中している。私はことさら気取った歌詞や実験的なサウンドを発明したり、哲学者の名前を引用する程度の仕事を語っているのではない。他の国では知識人に任されているような議論を、ブラジルではシコ・ブアルキ、ジルベルト・ジル、そしてカエターノのようなポップスターが、歌や小説やインタビューのなかで扱っているというかなり特異な事情について語っている。彼らの位置は「社会的な発言をする」という域にとどまらない。時事的な話題を歌詞に織り込むだけではない。ポップ・ミュージックを媒介に、国語や詩や歴史や宗教について発言している。彼らはまさにグラムシのいう「有機的な」知識人=音楽家である。トロピカリズモについては、「応用哲学の学校」という評価もあるが、カエターノにとっては、逆に哲学こそが音楽の応用といってよいだろう。新しいサウンドやリズムの発明者は現れても、この点に関して、真の継承者は──亡きシコ・サイエンスを除けば──ブラジルでさえ現れていないようだ。
 『熱帯の真実』を貫くテーマのひとつはアメリカだ。アメリカはカエターノの音楽の重要な構成分子であるだけでなく、ブラジル国民が自分を映し出す鏡でもある。ジルベルト・フレイリからダルシー・リベイロまで、ブラジルの国民や文化についての議論は、「北半球の大国」と比較することで、おのずから「南半球の大国」という自負を生みだしてきた。ちょうど戦後の日本人論と同じように、アメリカと自国がどれだけ対照的なのかを論点としてきた。英語とポルトガル語、プロテスタントとカトリック、温帯と熱帯、文明と半未開。ブラジルのナショナリストは、物質文明や経済発展の遅れを国民性や精神文化の優位、あるいは未来への期待で補うような類型的な議論で、自国の誇りを主張した。カエターノは当初、「トロピカリズモ」という呼び名が、ジルベルト・フレイリの「ルーゾ・トロピカリズモ」(ポルトガル=熱帯主義)と混同されるのを恐れ、「トロピカリア」という造形作家エリオ・オイチシカの造語のほうを好んだ(49ページ)。「トロピカリズモ」では、「すべての西洋都市文化と必然的に共感する要素」(211ページ)が排除されてしまうような違和感を覚えた。しかし運動が展開するや否やある批評家の発案で、もっと一般的な響きを持った「トロピカリズモ」といいかえられた。そして『熱帯の真実』の著者も現在ではこのほうが「熱帯の人間の運命に対する責任」をいいあて、自分たちの運動の精髄をつかんでいたと考え直している(487ページ)。「トロピカリズモについて問うことは、この〔世界経済の〕波の力とブラジルの特異な点との交差の意味を問うことだ」(486ページ)。それではナショナリストのトロピカリズモとは、どこまで共通しどこで分岐するのか。
 カエターノは、合衆国を「名前のない国」、ブラジルを「国のない名前」と巧みに対比している(46ページ)。前者は大陸の名前(アメリカ)と政治の形態(州の連合)とを合わせたにすぎない。後者は逆に名前こそ早くにつけられたが、ポルトガルがしっかりと国作りをしたとはいえない。そこから彼はブラジルを中世ヨーロッパのユートピアよりも、もっと非現実的な「巨大な浮き島」と呼んでいる。しかもその名前は美しい木(パウ・ブラジル)に由来しているのに、この木はすべてヨーロッパ人によって伐採され、今では図録にしか残っていない。ブラジルは、一般名詞としては実体がない。自然の恵みを讃えるはずが、凌辱と搾取の象徴になってしまった。またブラジル人にとって国は実際的な意味では存在せず、ただ名前──それもカエターノにとっては、とても美しい名前──としてしか機能していない。誇りを持てる名前と汚辱の歴史や貧しい現実にはさまれながら、「国のない名前」に国家としての実体を与えていこうとするのが、従来のナショナリズムの戦略ならば、名前の力に加担して、浮遊状態をさらに続けさせようとするのが、カエターノのトロピカリズモだろう。このエッセイでは、彼にとってのアメリカをポップ・アートとの関連、ブラジルの歴史的・文化的アイデンティティとの関連から論じる。

遅れて発見された国

 『熱帯の真実』は、なぜアメリカ大陸のなかで、ブラジルだけが、コロンブスよりも八年遅れで「発見」されたのか、という子供のころの疑問から始まっている。コロンブスがカリブの島に到着しただけでもなければ、カブラルが南米大陸全体を発見したわけでもない。スペインとポルトガルの間の条約のおかげで、カブラルはコロンブスと功績を分け合うと認定されたにすぎない。偶然、ポルトガルの漂着船に発見された(しかもインドと間違えられた)という始まりは、ブラジル人の歴史意識に混乱を呼び起こしてきた。
 マニフェスト・アルバム『トロピカリア』(一九六八年)の「三艘の帆船」は、コロンブスの航海をスペイン語・ポルトガル語の二ヶ国語で歌っている(トロピカリスタのヒスパノ・アメリカとの連帯は、「君に狂ってるよ、アメリカ」にもっと顕著に歌われている)。二つの言葉は同じ内容だが、唯一、ポルトガル語だけで歌われた「その時からいろいろなことが起こった/なかでもブラジルができたことは一番大きい」という一節は、コロンブスによって発見されなかった国、あるいは遅れて発見された国という混乱の始まりを、チャチャチャの無垢なリズムに乗せて、ブラック・ユーモアで表現している。発見に対する皮肉は、カエターノの最初のソロ・アルバム(邦題『アレグリア・アレグリア』)の「トロピカリア」が、カブラルの船からポルトガル王に宛てた手紙のパロディーから歌い出しているところにも表れている。空には鳥が、足元には豊かな花と果物が……という小学校で習うフレーズは、「空には飛行機が、足元にはトラックが/中央台地〔ブラジリア〕に向かう」と言い換えられ、始まりと現在が強引にはりつけられている。懐メロ、政治集会、古典小説、映画の暴力的場面、テレビの音楽番組、はやり歌を次々にカットアップしながら、曲は「ブラジルのアレゴリー」(ロベルト・シュワルツ)を提示している。自分たちの消費生活に対してさえシニカルに風刺している。異質なものの取り合わせは、ブラジル社会の豊かさと貧困、歴史の連続性と切断、軋みと幸福を強烈に伝える。脈絡のない列挙という手法そのものが、異化効果を生み出している(ノエル・ローザの「ぼくらの物事」がヒントだという)。何人もが論じてきたように、古典と現代、前衛とマス文化のコラージュとパロディ、併置と反転は、偶像破壊的なトロピカリズモ運動の最も目立った美学となった。彼らにこのような方法を自覚させた中にウォホールがいる。[続く]

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