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『ジョゼと虎と魚たち』彼女を好きになる論理

こと恋愛映画というジャンルに対してまるで興味のない僕だが、この『ジョゼと虎と魚たち』を毎月1日のファーストデイ割引で見に行ったところ存外面白かった。

公開中の映画なので中盤以降の具体的なネタバレは避けつつ、なぜこの映画が面白いのかをまとめてみる。

恋愛映画のフォーマットに組み込まれた障害設定

恋愛を扱ったドラマや映画には、定型のフォーマットがある。

①仕事や学校生活で忙しい、第一印象が悪いなどの理由で恋愛対象外の相手と、外部的な事情のため継続的に会い続けることになる

②何度か顔を合わせるうちに第一印象を覆す面(ギャップ)を発見することで、いつの間にか惹かれ合う

③三角関係のライバル(当て馬)が登場して恋が盛り上がる

④トラブルや生活環境の変化によって、片方が身を引く形で別れを告げ、もう一方が物分りのいい振る舞いをして破局する

⑤仕事や学業などに打ち込んで一定の成果を上げたあと、なんだかんだで再び付き合い始める

⑥雨、雪、桜、光芒のいずれかが降り注ぐ中でキスをする

本作も基本的に、このパターンを踏襲している。
しかし、次の展開がある程度読めるにもかかわらず、ヒロインの女の子が魅力的なのと、中盤のアクシデントが予想外に大惨事だったため、面白く感じた。
特に女の子の魅力を伝える描写については、非常に上手い。

まず最初の出会いでは、車椅子から投げ出された女の子と正面衝突をする。が、女の子は助けられたにもかかわらず、相手に暴言を吐いて噛みつく
この一連の行動は小池一夫が提唱した、”初登場時に意外な行動を取ることでキャラクターに強烈な印象をもたせ、読者に「続きを読みたい!」という欲求を与える”手法である。

その後もワガママで気分屋な言動を繰り返すが、同時に外出時に高揚する彼女の姿を観て観客は好印象を抱く。ここで、彼女のイラッとする言動とかわいい側面は障害によって思うように外出ができない反動であり、両者はパラレルな関係であることが明かされる。

主人公に対する態度の大きさや、それと裏腹に人見知りだったり、同年代と比較したときの社会からの取り残され感、自分が足を引っ張っている無力感など、女の子の言動はいずれも彼女の障害に由来した性格付けとなっており、筋が通っている。
このため、恋愛映画で定型化された心理の動きを経ていても段取りっぽさが薄く、自然な流れで定型パターンが展開していく。

この、観客が女の子の内面を徐々に知っていく流れと主人公が打ち解けていく過程がリンクすることで、観客は彼女を好きになっていく。
しかし、ここで主人公は、彼女の抱える悩みやネガティブな側面といった内面的な課題に気が付かない。観客だけが「ああ、彼女は主人公と出会って世界が広がってワクワクしている反面、自分が社会の中に居場所が無いことに気づいてしまって悩んでいるんだな」と分かるようになっている。
そのため、2人が近づくほどすれ違っていくという恋愛映画あるあるを自然に受け入れられる。
言い換えれば、「このキャラクターは何者か」という情報を開示するタイミングのコントロールによって、彼女の魅力が形作られている。
これは、シンプルに脚本のウマさによる。

また、女の子の魅力に、デザインと関西弁が与える影響も大きいように思う。
フェミニンな服装や髪型は守られ感をイメージさせ反面、ツリ目ぎみの顔によって気の強そうな印象を与える。見た目から彼女の持つ両側面がわかるようになっている。そのため、中盤の転換点において髪型が変化する。
また、(別に方言萌えというわけではないが)関西弁でポンポン話すのも気の強そうなイメージを与えて、精神的に弱ったときのギャップも大きい。一人称が「うち」だけどコテコテの関西人キャラではないのは、ラムちゃんとジョゼくらいしか思い浮かばない。

車椅子描写の圧倒的不足

基本的には面白かったが、それでも気になった部分が2点ある。

まず1点目、劇中で女の子が抱える精神的な課題や困難の描写が、”車椅子であること(=障害の有無)”ではなく”外部との交流が少ないこと”に起因している点。
劇中で女の子は主人公との出会いをきっかけに、新しい世界に触れることで(正の面でも負の面でも)感情を動かしていく。だが、それは逆に言えば物語開始以前は外の世界と触れていなかったからであり、厳密にいえば車椅子が必要なこととは別問題である。
極論すれば、「皮膚が弱いので紫外線に当たれない」「幼少期に大病を患ったため体力がない」「宇宙人に命を狙われているので敷地内から出れない」など、外出できないてきとうな理由付けがあれば、障害者でなくても成立してしまう。

一応「健常者には分からん」といった台詞はあるものの、車椅子であることを活用したシーンは、坂道での暴走や電動への乗り換え、車輪の跡など、ごくわずかでしかない。
もっと車椅子を活用したプレイが見たかった…というのが正直なところだ。
(また、これに付随した疑問として、おばあちゃんが孫娘を外出させたがらなかった理由が不明瞭である。いつまでも閉じ込めておくつもりだったのかと思いきや、外出を繰り返すようになったことを喜ぶ描写もあり、ちぐはぐな印象を残す)

2点目も1点目とかぶるものの、自立を意識し始めた象徴として1人で料理をする場面があるが、何故風呂とトイレと着替えも入れなかったのか
通常(健常者)の場合、生活感を見せるなら食事と睡眠が鉄板だが、睡眠は健常者も障害者も大差無いだろう。障害者の生活として料理しか見せず、風呂とトイレと着替えを出さないのでは片手落ちといえる。

家の中では匍匐前進で移動する女の子が、周囲の手助けを断って暮らそうとしたときにどういった問題が発生するだろうか。
祖母に介助してもらうことができなければ、蒸しタオルで体を拭くか、せいぜいシャワーを浴びる程度で、月に一度のヘルパーが来る日以外に湯船に浸かるのは難しいだろう。
トイレだって、うつ伏せの体勢から上体を起こしてドアを開け、手すりにつかまりながら体を持ち上げて、便器の上で前後に体を回転させなければ用を足す姿勢になれない。
着替えもそうだ。立ち上がれないと背の高いタンスは使えないので、自然と服の数は少なく、オシャレもしづらくなる。いざ着ようとしても、上半身はともかく、ショーツを履くときは大変だ。動かない足を腕で持ち上げながらショーツに通して、両足首に通してから太ももあたりまで引っ張り、片尻ずつ持ち上げて少しずつずり上げるように履くか、あるいは布団の上で体を回転させながら半身ずつ履くことになる。ワンピースやスカートが多いのも、パンツスタイルだと着替えに手間取るからだろう。
しかも、古い木造一軒家ではルンバも使えまい。ロクに掃除もできない埃っぽい家の中でこういった匍匐前進スタイルの生活を行うのだ。

あられもない姿を見たいという下心があることは否定しないが、彼女の風呂とトイレと着替えを見たい理由はそれだけではない。
人間誰しも自分の生活、自分の考え、自分の認識をスタンダードにとらえてしまう。他人の心を読めるエスパーでもなければ、それも無理からぬ話だろう。
他人に思いやりを持つには、想像力が不可欠となる。相手がどう考え、どのような行動をし、何を求めているのかを考えるには、知識が必要だ。「他人を助けましょう」とスローガンをかかげるのは容易いが、真に相手の身になって行動することは極めて難しい。
そこでフィクションによって擬似的に他人の立場を体感することは、わずかでも思いやりを育む一助となるはずだ。だが、ここで実写によって詳細な描写をすると、生々しさが出てしまう。なればこそ、抽象表現であるアニメであれば他人の気持ちをダイレクトに共感させることができるだろう。
例えば、車椅子を使う男性がスカートのような服だったとしても、想像力があれば「そのほうが着替えやすいのかな?」と考えられるだろう。
映画を観た人が他人に対して優しくなれるように、風呂とトイレと着替えを入れるべきだったと思うのだ。

そんなこんなで、個人的に車椅子モノはわりと意識的にチェックするようにしているのだが、その中でもかなり上位の面白さだったと思う。

近くに映画館があり、ヒマで、基礎疾患が無く、きちんとマスクをつけられる方はオススメです。

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