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#15 学校ver.3.0 へのアップデート

■回顧

高校教師になって24歳の頃のできごとを回顧。

駆け出しの “ あんちゃん教員 ” だった私は、教育委員会というところは恐ろしい組織だと思い込んでいた。

校長室に呼ばれ、教育委員会から鬼のように恐ろしい(であろう)指導主事が学校にやって来て、私の授業『マーケティング』を50分間丸々参観するということになった。

当日の朝、「お腹が痛いので休みます」と言いたかった。

授業は、終始緊張しっぱなしで、生徒たちは「いつもの先生と違う」と察知し、教室中に緊張感が充満し、しどろもどろの授業だった。

生徒はみんな、いつになくお利口さんの集団になっていた。

お決まりの「導入、展開、まとめ」で進行したけれど、早く終わらせたくて、早口で落ち着きがなかったに違いない。

授業後の反省会では、指導主事から矢継ぎ早にいくつもの質問をされた。

「需要曲線と供給曲線はどうして直線じゃなく“曲線”なんでしょうね。

生徒に対して通り一遍の説明じゃなく、売り手と買い手の論理をみんなに考えさせる質問をすると深みが増しますよ」

「はあ・・・・」

「発問には2種類あって、正解を答えさせる場合は既習事項の確認です。もうひとつは、答える内容が正解かどうか抜きにして、考えるきっかけをつくることです」

「えっ?」

「あなたの質問は単に暗記させた“ 知識 ”を問うていました。

でも、もう一歩踏み込むと、生徒の思考を覗き込むことができます。少しずつヒントを与えていくうちに、ある瞬間、周りの生徒達も「あっ!」と気付いたり、ひらめいたりするんです」

なるほど、生徒の思考にアクセスすれば、生徒の現在地がわかる。

既知と既知を組み合わせて考え「未知」へ繋ぐ。

「授業にどんな仕掛けを落とし込むかを考えよ」という助言は、その後の私の教師人生を変えたと言っても過言ではない。

その指導主事は、のちに高校教師に返り咲き、校長になり、その後、教育委員会に戻って教育次長、そして勇退後は教育大で教授をされた。

ティーチング・マシーンではダメだ、とも言われた。
「考えさせる授業」をマネジメントするといえばいいのだろうか。

生徒の思考にどう揺さぶりをかけるか。

それは、大学にいる今も課題にしている。

■カリキュラムマネジメント

別に新しい用語ではないが、今次の学習指導要領の改訂では「カリキュラムマネジメント」という言葉が当たり前のように使われている。

果たしてこれが教育界全体の共通語として、その真意が理解され定着しているか定かではない。

経営学を学んだ人や実務者なら、企業のマネジメント理論を想起するだろう。

カネ、モノ、ヒト、コトをどうコントロールするか、日々、頭の中で、あんなことやこんなことをマネジメントしている。

ビジネスに限らず、日常においても有形・無形のマネジメントをしているともいえる。

時流に乗っかって、にわか仕込みの “ マネジメントもどき ” もある。

「マネジメントしたつもり」

「なんちゃってマネジメント」

「アリバイづくりのマネジメント」・・・・・

学校という組織は利潤追求型ではないので、企業経営とは異なる手法も考えなければならない。

もちろん、組織なのだから企業との共通項は無数にあるが、ちゃんとした「言葉合わせ」をしておかないと思考が混乱をきたすことになる。

組織マネジメント、カリキュラムマネジメント、授業マネジメント、タイムマネジメント、人材マネジメント、プロジェクトマネジメント、リスクマネジメント、ナレッジマネジメント、メンタルマネジメント・・・・・

なんでも“マネジメント”をくっつけて表現すれば、それっぽくなって、モチベーションでも上がるのか?

私なんぞ、「 アンガーマネジメント(怒りのコントロール)研修」に参加したので、あまりプリプリと怒らずに冷静な言動に努めるようになり、ついには仏様の領域に達した。
いや、それは嘘だな・・・・

文科省の研修に参加した際、「カリキュラムマネジメントとは、校長が編成した教育課程に基づき組織的かつ計画的に各学校の教育活動の質の向上を図っていくこと」という説明を受けた。

定義はさておき、具体の行動にどう移すかでみんな立ち尽くしているのではないか?

何かが邪魔をしている。

上手く行かない要因がいろんなところに潜んでいる。

実際のところ、教員個々のなかに無意識的に宿っている「潜在的カリキュラム」(隠れカリキュラム、個人的信念カリキュラム)というものがあって、それが組織的な取り組みの障害になっていることが往々にしてある。

イノベーションを阻む要因は、仕事が属人化している組織ほどそういう傾向が強い。

個人として優れていて素晴らしい授業をしていれば、それは賞賛されてしかるべきだろう。

しかし、それが他の教員に伝播しなければ「組織力」「教科チーム力」にはならず「個人芸」で終わってしまう。

■学校ver.3.0

学習指導要領は大綱的基準であり、ミニマムスタンダード(最低限の基準、標準として、みんなやってね!)と呼ぶこともある。

実は、校長の裁量(教育課程の編成権)は結構大きく、学習指導要領をベースにしながら多様な取り組みが可能となっている。

逸脱はまずいが、発展的な学習をめざし、創意と工夫を図ることは歓迎すべきことで、それが「Society 5.0に向けた学校ver.3.0(学びver3.0)」なのだろう。

文部科学省「Society 5.0に向けた学校ver.3.0」

そのほかにも、「未来の教室」「GIGAスクール」などが掲げられている。

ICT教育の柱は、「学びの自立化・個別最適化」「学びのSTEAM化」「新しい学習基盤づくり」の3つ。

それぞれを因数分解していくと、いろいろなことが見えてくるが、これまでの慣習や思考の癖を取り除く作業が大切なのだろう。
これがなかなか歯がゆいのだ。

子どもたちは「学び方を学ぶ」

教師は「学び方を教え、支援する」

ティーチングせず、コーチング、カウンセリングが必要な時もあるだろう。

戦後教育約70年の中で、いや、数百年の歴史の中で、どこかの誰かがやっていた教育的手法が見直され改良されて今に至っているものもある。

不易と流行の見極めも必要だが、「改革」という言葉には背中を押す力がある。

老齢の私はアップデートの必要性を感じながらも四苦八苦している。

ただいま、脳内アップデートとメンテナンスが滞っています。

改革か・・・・・

菊澤研宗『改革の不条理』を今一度読む。