#191 カウンセリングマインドと、つなぎ人マインド
ときどき思うことがある。
もっと早く相談に来てくれていたら‥‥
自分は役に立っているのだろうか。
特に欠席が重なっている学生には「何かあったら私のところにおいで」と声がけしている。
私に愚痴をこぼしてスッキリすることや、励ましでどうにかなることもある。
次の相談段階へ繋ぐきっかけにもなる。
私は「つなぎ人」の役目も担っていると思っている。
「何かあったらおいで」の “ 何か ” があまりにも重たくて、放っておくと精神が崩壊してしまうレベルの場合、素人の私にはどうすることもできない。
私ができるのはティーチングとコーチング。
“ カウンセリング・マインド ” はあるけれど、カウンセラーの知識・技術や資格はない。
自分ができる相談のレベルを超えていると思ったときは、カウンセラーや医療へつなげるようにしている。
日頃おこなっている定期面談の大半は対応できている。
学生の中には自信を失い正常な思考や判断ができなくなり、崩壊の手前まで来てしまっている者もいる。
私自身、心に余裕がないと受け止められない。
「心ここにあらず」の面談は失礼なので何としても避けたい。
同じ話を繰り返すエンドレスループにハマってしまう者もいる。
面談の進行にも気を配らなければならない。
私はセルフ・マインドコントロールしながら鋼のメンタルで対応しているつもりだ。
それでも、本来業務のかたわら何件もの傾聴と問答を繰り返していると、受容や共感が同情になり、同情の波動が共振共鳴して、私までメンタルをやられかねない。
善くも悪くも気持ちは伝染しやすい。
「気」という漢字の中にある「〆(締め)」は、エネルギーが外へ漏れないように締めるという意味がある。
気を引き締めたり、心に留めているものといった意味合いか。
哀しみや怒り、憎しみの気持ちは閉じ込めているのはよくない。
旧字体の「氣」の中にある「米(四方八方に広がる)」は、エネルギーの放出を意味している。
氣を放出するのは、ポジティブ、ネガティブの両方があるから厄介である。
良かれと思って放った言葉も、受け止める側にとってはプレッシャー要因になったり、ありがた迷惑な押しつけになる危険性が潜んでいる。
だからこそカウンセラーは専門的な知識と技術が必要なのだろう。
学生の中には、「あのカウンセラーは圧を感じるので苦手です」「態度が横柄でイヤです」と言って、相談室へ行きたがらない場合もある。
私が、あの人はいいカウンセラーだと思っても、学生によって受け止め方は千差万別ということもである。
カウンセリングやコーチングは「気」と「氣」のキャッチボールのようなものか。
とはいえ、クライエントは支援者の非言語(ノンバーバル)の部分、たとえば身なりや振る舞い、目つき、声のトーンなどで気が散ったり不快感を覚えることがある。
いくら私が声も顔も福山雅治に似ていたとしても、ダメな時はダメなのだ。
残念である。
「ガラスの10代」という表現は、もはや過去のことで、ストレスフルなこの時代にあっては「ガラスの20代、30代」や「ガラスの中高年」がいてもおかしくない。
SNSではいろんなキャラ設定で情報発信が行われている。
それを見た人は、
「自分もキラキラと輝きたい」
「輝いていなければいけない」
「自己肯定感や自己有用感が高くなければいけない」
と呪いの言葉に背中を押されているような人は案外多い。
ガラスはキラキラと輝いて美しい。
しかし、案外もろくて、ちょっとした衝撃でヒビが入ったり割れたりする。
学生たちの砕け散った心のカケラを丹念に拾い集め、一緒に考え、支え、心の立て直しのお手伝いを続けていきたい。
ただし、私ひとりで解決しようとせず、カウンセラーに情報を流し、必要に応じてすぐそちらへつなぐ準備だけはしておこうと思う。