#99 面白半分日記 哲学の壁打ち
学生たちが自主的に主催している「倫理」の模擬授業を参観し、終了後にグループワークに参加した。
普段は学生たちにワークショップをやらせる私だが、引っ込み思案の私自身が参加するとなると、なんだかドキドキする。
ソクラテスミーティングみたいに、私をソクラテスに見立てて皆で囲んで、寄ってたかって私を質問攻めにしようとか、何かを語ってもらうおうと思っているとしたら、それは大間違いだ。
「哲学せよ」と言われてもねぇ・・・
学生たちから
「倫理という科目で “ 哲学 ” をどう教えたらいいんでしょう」
という問いを投げかけられた。
(そんなこと知るか!と言うわけにはいかない)
ストレートでど真ん中に投げられた私は打ち返すしかない。
▲わたし 「その問いは、私に投げかけるべきものか?」
■学生A 「えっ?・・・・」
▲わたし 「教師は先人が切り開いた哲学の基礎的・教養的なことは教えるけど、そこから先は自ら切り開いていくべきことじゃないのか?
哲学の探究とはそういうことだろう。
自ら課題を設定し考えるということが大切なんだ」
■学生A 「思考力、判断力、表現力という、例のアレですね・・・・・」
▲わたし 「たとえば、この教科書に出てくるルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインのことは少しだけ知っている。
これから倫理を教える高校教師になるなら、哲学関連の書籍の1冊や2冊は・・・・いや、20冊、30冊は読んだ方がいい。
私が考える哲学というのはね、いわばテニスの “ 壁打ち ” みたいものだ。
孤独に何百本、何千本と壁に向かってボールを打つこと。
ストレートで打ったり、ドライブかけたりしながら、ひたすら打つ。
基本の型を身に付けなければ応用の領域へ踏み込むことはできない。
普段の勉強も受験勉強の攻略法も同じだ。
大学受験で言えば過去問の赤本、青本、黒本などを1冊やりきること。
1周したら、2周、3周とやる。
これが“壁打ち”だ。
できる者は、そこから先が違う。
3割の者はスコアを上げ、第一志望を制す。
残り7割の者は、参考書や問題集を買い漁り、あれもこれもと手を付けて、「やった気」になるだけで、結果的に自己満足で終わって本当の目的(合格)に辿り着けていない。
そこをクリアした先に、本当の学びが待っているんだけどね。
過去問と同じ問題は二度と出ないと思って手を抜く者に未来は見えない。
過去問を分析し深読みする(未来の問題を見つける、考える)ことができるかどうかだ。
翻って、哲学の壁打ちとは?
ヴィトゲンシュタインはこんなことを言っている。
「人は“神”の一部だけについて知識を持っていて、ほかの部分は知らない。
つまり、“未知”の部分が残っている状態である。
したがって、我々は“神”の全貌を言語で表せるはずはない。
それはつまり、理解できないということである」
・・・・・と、この教科書に書いてることを読み上げただけだけど (^^ゞ
■学生B 「先生、難しくてわかりません」
▲わたし 「いや、言っている私自身、なに言っているかわからん」
■学生B 「そ、そんなぁ・・・・」
▲わたし 「私は言葉を尽くして語り未来を担う青年たちに大切なことを伝えようと努力はしている。
でも、わからないことだらけだ。
私は全知全能の神ではない。
ある部分については君たちのほうが優れているだろう。
ヴィトゲンシュタインはこうも言っている。
「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」
つまり、自分が言葉で表すことができなければ、理解したことにはならない。
そして、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と言っているわけだ。
この言葉を額面どおりに受けとめるか?
知らないなら黙っていようと受けとめるか?
そこに隠されている意図を酌み取ることが重要なのではないだろうか。
■学生C 「難しいですね・・・・」
▲わたし 「簡単なら、つまんないじゃないか」
■学生C 「倫理を教える自信がありません。政経を教える教員になりたいです」
▲わたし 「私も君たちを納得させる自信がない。
政経をナメるんじゃない!政経は政経で難しい。
公民という免許を持っていれば倫理も守備範囲だ。
どの科目も大切。
哲学はさまざまな難問に対して、いつでも正解へ導いてくれるわけじゃない。
哲学は考える道具だ。
未知の探究とは一体なんなのか、君たち自身、もう少し自分で考えてみる必要があるんじゃないか?
“哲学すること”の意義とか役割は何なのか、何千本と壁打ちすることが必要だと思うんだ。
テニスは、ラケットとボールをどうコントロールするかだろう。
私たち人間には「言葉」という道具が与えられている。
私たちは言葉で思考している。
でも、どれだけ言葉を駆使して語っても現実をすべて語り尽くすことはできない。
現実の世界は、言葉を超越した深くて高くて広いことだらけだ。
時に無力感に苛まれることがある。
ヴィトゲンシュタインは、言葉ですべてを語り尽くせるとか、説明しきれる、割り切ることができる、と思うのは人間のおごりだと言いたいのではないだろうか。
それでも人類は言葉を介してわかり合うことに努力しなければならない。
小説家や詩人など、言葉を操る人たちは言葉の重さを知っている。
言葉の限界も知っている。
だからこそ、謙虚に真理を探究し続けているんじゃないのか。
別に、読むのは哲学書じゃなくてもいいと思う。
私は“文学の力”を信じて生きてきた。
■学生D 「少しだけわかったような気がします! (^0^)」
▲わたし「いや、私はまったく理解できてないけどね (´д`)
まあ、とにかく、哲学とは何かを哲学しなさい」
■学生一同 「えーっ!! ( ̄□ ̄;)!!」