#105 教育における感覚インフレ
教職課程の課外講座としてワークショップを実施している。
学生から「お題」を出してもらう方式だ。
例えば、いじめ、不登校、教室マルトリートメント、生徒指導、校則、合理的な配慮、教育課程、学習指導要領、教師の働き方改革・・・・等々に係る問題などを任意に出してもらい、学生たちの討論の合間に私がコメントしたり解説したりもしている。
こう見えて私は真面目にやっているのだ。
出たとこ勝負になることもあるが、私の底の浅さがバレないよう、学生達には「宿題」ということにして勉強させ、私も全力でその宿題に取り組むようにしている。
「えーっ、今日は感覚インフレ」というお題を頂戴しました。」
(落語風)
まあ近頃の学生っていうのは、とかく勉強をしたがらないものでございまして
えーっ・・・・・感覚インフレなんてぇものがあるんですがね・・・・
なになに感覚インフレ?
おいA君、今日は聞いたことのないお題だな。
お集まりのみなさんはご存知なんですかねぇ‥‥
■インフレーションの原理
私が勉強不足なのか「感覚インフレ」なんて言葉は聞いたことがなかった。
バズってるのか?
ネット界隈で、特に学習面や運動面で自己の能力をどう向上させるかという場合の環境整備や、そこへの身の置き方、心の処し方なんかの説明で引用されているらしい。
インフレーションは経済学用語として大雑把にいえば
「貨幣価値が低下し物価が継続的に上昇する」
という現象をさして言う。
【inflation】膨脹、得意、慢心、誇張
「感覚インフレってなんだ?」
といことになり、学生たちとネット検索して大意をつかんだ。
たとえば、小中学校時代に勉強や運動で
「自分は結構イケてるぞ」
と思っていたら、高校や大学へ進むと凄いヤツがゴロゴロいると気付く。
(私がそうだった)
自分の価値は予想外に低いな・・・・と。
相対的な価値の低減によって自己否定感が強くなる者もいる。
(私がそうだった)
メンタルがやられてしまうことだってある。
「どうせ自分なんて」と。
人は心身の発達と共に、冷静に自己の内面を見つめたり、外側を見つめながら、自己と他者を比べたりするようになる。
今までは自分が上位であり、その他大勢の者たちより秀でていると思っていたけど、上のステージへ駒を進めると、さらに「上には上がいる」と気付くことになる。
「ヤバイぞ、ヤバイぞ!どうする?」
いつまでたっても低いところから這い上がることができず、気持ちが腐ってしまい負のスパイラルから抜け出せなくなる者も出てくる。
(私がそうだった)
何にかをきっかけにして、今までの自分にカタをつける必要がある。
「自分はまだ努力が足りない。よし、もっと頑張るぞ!」
「もっと頑張らないと置いてきぼりをくっちゃう!」
そう感じて、自分がやるべきこと(目的・目標)や、自分が生み出すべき新たな価値を定めることができれば右肩上がりの成長が始まる。
感覚インフレだ。
どんな環境にいても、自分を俯瞰(メタ認知)することが求められている現代。
中学生の進路指導で「偏差値」を考案(1957年)した桑田昭三 氏(理科教師、教育者・教育評論家)の思いは、子ども達の現在の立ち位置を客観的に見ること、そしてチャレンジする心を育てることにあった。
私が高校3年生のとき(1979年・昭和54)から共通一次試験(現大学入試センター「共通テスト」)が始まった。
そこから偏差値に基づく国立大学の序列化が起こり、受験産業の隆盛と偏差値を重視した受験戦争が過熱していった。
勉強に努力するのは当たり前という者が多い集団にいると、自分もそういう環境に順応しようと努力し成果を上げる者が増えてくる。
高校と大学の序列化も加速する。
できる子は「できる子が集まっている集団」(環境)に身を置いた方ができるようになる。
しかし、どんな集団でも序列化される相対評価によって “ できない者 ” が発生する。
(私がそうだった。たびたび登場して申し訳ない。そろそろ引退します)
勉強は個人競技の要素が強いように思うのだが、学年やクラスのチームプレイで学習成果を上げ、見事、難関校に合格する者を多数輩出している学校もある。
勉強に限った話ではない。
人がひとりで成し得ることには限界がある。
だからこそ、教師や保護者、大人をはじめ、自分の外側にある力が必要になる。
そういう意味では、子ども達を見守る「町内会」の機能不全や崩壊は深刻だ。
現在、あらゆるタイプのコミュニティが形成されているものの、人口減の激しい地方は策を講じようと必死だ。
■個の感覚インフレを起こす環境
人と環境によって鍛えられた者は、持続可能な感覚インフレを自ら構築する術を身に付けられる。
チームの取り組みが個に反映されているのか、個々の取り組みがチームの中で生かされていくのか。
相互作用だろう。
そこは高校教師をしていた頃、痛切に感じていた。
指導者が明確な意図を持って「仕掛けづくり」するかどうかにかかっているとも言える。
成功も失敗も、そこで終わりではない。
自分とどんな向き合い方をすればよいのか、自分ひとりだけで考えても打開できないことはたくさんある。
心身にのしかかるストレッサー(心理的・社会的、物理的、生物的、化学的なストレス要因)はさまざまだ。
人によって耐性もちがう。
さまざまなストレスに押しつぶされている子や、その予備軍は思いのほか多い。
(少年期の私がそうだった。あっ、また登場してしまった)
さて、この問題の落としどころは、どーこだ?
ということで、ワークショップを閉じた。
また宿題ができた。