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#115 今年の教育時事を振り返る ~ 不登校をどう捉えるか

教職課程の「生徒指導論」では教育時事と絡めながら不登校についても触れている。

私自身、小学校時代は断続的な不登校児で、学校へ行かないことが最も幸せで心地よい時間を過ごせていたことを覚えている。

私の個人的な困り体験は、トップの固定記事で紹介したTEDトーク動画で述べているので省略する。

学校というところは、自分の思いを明確に言語化し、明るく元気にハキハキと述べる “ お利口さん ” が評価される仕組みになっている。
別にお利口さんを揶揄しているわけではない。

社会へ出てもその基本は変わらない。

コミュニケ-ション能力というのは、時や場所、人に左右されることもあり、きわめて曖昧な基準に基づいて、しかもそこに評価者の主観も入り込んでいる場合が多い。

10月に「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果の概要」が公表され、不登校の小・中学生の人数が過去最多を更新したことが判明した。

小・中学校における不登校児童生徒数は299,048人(前年度244,940人)であり、前年度から54,108人(22.1%)増加し、過去最多である。
高等学校は60,575人(前年度50,985人)で、前年度から9,590人(18.8%)増加している。

以前ならネガティブな要素だけで語られていた不登校が、
不登校は選択肢のひとつ」として未来の可能性を語る個人や支援団体も増えている。

つまり、「不登校になってしまった」とうろたえるのではなく、
児童生徒の心理に圧力をかけて追い込むことなく「不登校を選択した」という考え方を容認する動きが出てきているということだ。

特に保護者や教師は、否定的に捉えることを起点にせず、愛情や励ましを、どの場面でどう注ぐことがその子の未来へつながるのかを考えることが大切だということだ。

もちろん、当事者や家族はそう思えなくて苦しんでいるケースが依然として多い。

高校に勤務していた頃、100を超えるケースを直接・間接に取り扱ってきた。

チャレンジスクールにいた頃、教員の負担をカバーする意味で、教頭や校長だった私が直接対応したケースもある。

実際には原因も対応策も千差万別。
何が解決の決め手になるか手探りの状態から始まる。

友達との関係性だけでなく、教師や家族が子どもの心を苦しめていることもある。
自死にまで発展しては元も子もない。

そもそも解決とは、
学校に「引き留めること」なのか?
戻すこと(再生すること)」なのか?
教育とは何なのか

多くのケースを取り扱っていると、そうした根源的な問題と向き合うことになる。

外部組織と連携したりNPO法人に所属し、不登校の小中学生や高校生の学びの支援もしてきた。

本人にしかわからないこと、親にも教師にも言えないことを聞かせてもらうこともあった。

当事者と向き合いながら、糸をたぐり寄せるようにして過去まで遡り、共感することが必要になる。

「いいんだよ、それでいいんだよ」と受容する度量も必要になる。

実際、難しい判断を迫られることは多い。

家庭的な要因が大きい場合、最悪、母子分離や父子分離をせざるを得ないケースもある。
貧困やヤングケアラーの問題もあり、状況は複雑化の一途をたどっている。

私自身、
「教育は学校に通って受けるもの」
「人は集団の中で鍛えられ成長するもの」
という概念を根底から見直す契機になった。

現在は、本人や家族に学校・教師の正義を強要したり精神的に追い込まないよう配慮することが求められている。

令和4年の改訂版『生徒指導提要』では、第10章(p221~)に不登校に関する記述が改編されている。

「教育機会の確保」という観点から、NPO法人やフリースクール、その他の支援機関によって補完されることで教育を受けたと認定され、憲法や教育基本法等の理念(教育を受ける権利と義務)について解釈上の祖語は生じないことになってきている。

まだそこを柔軟に考えられない人々もいる。

ドキュメンタリー映画『不登校が呼び覚ますもの』や、映画祭「不登校だから見える世界」(YouTube配信)は多くの示唆を与えてくれる。
『種を蒔く人、ハッピーヒル』

当事者と家族はどんな思いを抱きながら生きてきたのか。
その後、どう生きていこうとしているのか。
それぞれの人生が描かれている。

決して不幸であるとか悲観的に捉えるだけではない。
自ら選択した道を未来へつなげるために、私たちに何ができるか。

今後も学校教育が言語思考的な学習をベースにして行われていくのであれば、当然、そこにフィットしない児童生徒も出てくるだろう。

視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚が優れている者にとって、言語では説明できないことがたくさんある。

現在の公教育は、研ぎ澄まされた特殊能力を持つ子たちがその能力を十分に発揮できる機会と評価基準がたくさんあるわけではない。

極端な言い方をすれば、言語思考できない者は低評価を受け、場合によっては排除対象にもなり得る。
教師の何気ない言葉に傷つく子もいる。

発達に課題がある児童生徒と定型発達の児童生徒が共生するインクルーシブ教育も大切だが、その枠組みにフィットしない子たちを無理矢理当てはめようとして不幸が生まれていることもある。

「教育」や「再生」の名の下に、なんとか学校に
「引き留める」
「引き戻す」
「みんな一緒」
という考えに必要以上に固執していると、むしろ不幸の連鎖を断ち切れないことにもなってしまう。

今後も不登校支援や発達支援を通じて、学びの在り方を探究したい。