#140 こころの教育って?
教職課程の学期末の小論文を読んでいたらブラック校則をとりあげた学生がいた。
私も1,800字で書いてみた。
自己評価したら6段階評価(S、A、B、C、D、E)の中で、単位がもらえるギリギリのCだった。
この結果を真摯に受け止めて、引き続き新年度も私が講義を担当できるよう理事長と学長、教務課長に進言したい。
ブラック校則については、ひと頃、大きな話題となり、文科省や教育委員会が学校に調査を入れ、是正を求める通知も発出された。
ここ数年、生徒、保護者、PTAの主体的な提案や教員間での話し合いにより改革を推し進めている学校もある。
自分の中学・高時代や教師になった時を思い起こしても、不条理な校則はたくさんあった。
文言化されていない細則や慣習もあった。
理由や妥当性を説明せず「規則だから」の一点突破。
力でねじ伏せることが繰り返されてきた。
善悪や秩序が身の内側にしっかりと刻まれるような教育的取り組みにはほど遠い空気が学校の中を支配していた。
理不尽なことはどう頑張っても理不尽でしかない。
「女子の下着の色は白かベージュであること」という校則があることを報道で知り、もう笑うしかなかった。
男子はピンク、パープルでもいいのか?
いや、ふざけている場合じゃない。
肉体的暴力を使わないにしても、言葉による「ねじ伏せ指導」は暴力と等質であり、いつか限界に達する。
こうした避けがたい問題は、いつも学校の中に無数に存在し悪循環を繰り返してきた。
規則論と感情論が交錯することほど面倒なことはない。
人類が問い続けてきた社会学的、政治的、地政学的、文化的、哲学的、宗教的な命題と同じだ。
紛争、戦争、テロがそれを物語っている。
議論する際、大人の側が議論を途中で投げ出して、「ダメなものはダメ」とか「やっちゃいけないことだ。わかったな!」と、力でねじ伏せることを繰り返していると、子どもはいつしか議論することに意味を見出せなくなり、話し合いを回避するようになる。
そうすると、善悪や秩序を思考する回路が短絡化され、直情的、反抗的に行動するようになる。
かくして、議論回避の行動パターンは継承され拡大再生産される。
そして、人が見ていないところでこそ発揮されるべき「見えない力」としての道徳観・倫理観が育たないという循環が確立される。
裏金、キックバック、帳簿不記載、「記憶にございません」・・・・・
「どうせ大人は口ばっかりで、自分たちは正しいことをしていないクセに偉そうなことを言う」
政治家の中には、選挙のたびに「信を問う」と叫びながら、心のどこかで「信は問われない」「カネの力がものをいう」と思っている輩がいる。
立派な子どもが立派な大人になるわけじゃない。
ハナタレ小僧のくそガキたちは、いろんなことが欠落していて未成熟だ。
それでも、子どもは大人や社会との繋がりの中で真っ当な人間になっていく。
粘り強く子どもと真摯に向き合う大人(元ハナタレ小僧)がいるからこそ、子どもたちは成長できるのだろう。
大人は、自分が持っているものしか子どもに与えられない。
自分が持っていないことや、自分の中にしっかり根付いていないこと、あるいは、どこかの誰かが言った言葉をベルトコンベアーに乗せてただ流しているだけでは説得力はない。
子どもはそれを直感的に見抜いている。
子どもの嗅覚を侮ってはいけない。
同じことを言っても、人によって言葉が響いたり響かなかったりするのは、そういうことなのだろう。
大人は人生経験で得た抽象的な事柄をどう伝えるか、そして、持っていないものはどうすればよいのか。
それが大人の腕の見せどころなのだろう。
子ども達の疑問や不満、困りが表面化・行動化したときは、子どもが成長するチャンスが訪れたと考えたい。
学生たちにいつも問いかけている。
学校教育と家庭教育、社会教育の割合・比重には著しい偏りがみられ、“教育”と名が付けば 「それは学校の役割だ」と転嫁されることが多い時代が長らく続いていた。
気が付けば、学校はあらゆるリスクが集中する空間になってしまった。
疲弊する教師が増えているのはそうしたこともあるからだろう。
こうした状況をうけて、現在、子どもの育ちと学びを支援するNPO法人のフリースクールや、まちづくり、サードプレイス(第三の居場所)等が次々と誕生しているが、誕生しては消え、消えてはまた誕生して・・・・と、ほの少し先の変化も読みにくい時代の難しさも見えている。
個々の中で抽象的な概念や見えない力が主体的に人格化されるようになるためには、日常の様々な場面で経験を積み重ねていくしかない。
他の人格と向き合うなかで摩擦が生じたりぶつかり合ったりすることもあるだろう。
教育関係者も教育を論じる市井の人々も、抽象的な概念について、自分が教えられること、教えられないことを整理し、不足する部分をどう補うかを考え、再構築する必要があるのではないだろうか。
協働とはそういうことだと改めて思うのである。