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すずきまき写真展 《春眠》を終えて

2022年4月1日(金)〜10日(日)、山形県鶴岡市にある温泉地にて、はじめての写真展を開催した。少し時間が経ってしまったけれど、展示期間に写したフィルム写真が現像から返ってきたこのタイミングで、振り返りをしようと思う。


写真展《春眠》について


2020年、生まれ育った神奈川県の横浜市から山形県の鶴岡市に越した。移住からちょうど2年目の春。"湯田川温泉でひな祭りの時期に併せて展示をしたらどうか"というありがたい提案を受け、移住者のまなざしで見つめた2年間の記録をひとつの作品群に纏めることになった。(庄内地方のおひな様は4/3が本番。東北地方の春はゆっくり訪れる為、1ヶ月ほどずれがあるのだとか。)

"この空は 曇りばかりで すべてがくっきりと見えたりはしない
まろやかな光の中でじんわりと漂う幸せの雰囲気
決してドラマチックではない日常を愛すること"

今、ここにいる自分が、これまで生きてきた自分とあまりにも違いすぎて。夢と現実の狭間に落ちたような日々の中、あてもなく車を走らせては、ただ目の前にある景色と知り合うためにシャッターを切りました。季節に彩られた、名もなき風景に心を打たれて。果てなく続く自然詩をよんでいるような時間でした。

リリース文より


《展示写真》


百聞は一見にしかずというわけで、展示写真のうちいくつかを紹介しようと思う。清らかな庄内の自然と、水の豊かさに心奪われ、その景色ひとつひとつが新鮮だった。名所などではなく日常の風景を切り取った。(写真たちは、少々手を入れなおし湯田川の各旅館や施設に飾られる予定。)


湯田川温泉と藤沢地区


湯田川温泉のすぐ隣にある、藤沢地区がわたしにとってはじまりの場所だ。移住後、家も車もなかった時期に、農家を営む旦那さんの友人宅に居候させてもらっていた。(今思うと随分と無茶な引越しだったような気がする。)その場所が、藤沢だった。

霧の中の集落 お米づくりがさかんな土地

道路の端を流れる小さな川に心惹かれ、振り返るとその道は山々へと続いていた。

温泉とは、”奇跡の泉”だと思う。大地の恵みを含んだ水が、地球の熱により温められ湧き出したお湯に入ることで癒される。この土地の美しさが、湯田川温泉のお湯のよさを現していると言っても、過言ではない。

湯田川のお湯は、無色透明で優しい。その上、43℃前後という絶妙な温度で湧き出し、加水・加温の必要がなく新鮮なまま湯船に注がれる。あぁなんてすばらしい自然の賜物。

湯田川温泉 理太夫旅館にて

地の食材をいただき、温泉に浸かる日々を過ごすことで、長年見失っていた自然との繋がりを結びなおせたような気がした。わたしたちもまた水のサイクルの一部であること、そして、全ては繋がっているという当たり前のようにも思える気づきが次第に確かなものになった。

大きな提灯が目印

こうした2年間を背景に、はじめての展示の場所として、湯田川温泉 旧白幡邸の一角をお借りすることになった。水の湧く井戸のある、かつて清水屋と呼ばれた数寄屋造の邸宅。美しい水に導かれて、ここに辿りついたのだった。


展示の様子《旧白幡邸》


旧白幡邸では、磨りガラスの美しい入り口付近をお借りした。毎年、ひな祭りの期間のみ一般公開されるということだったが、某ウイルスの流行でここ2年は一般公開がなく、公に開かれるのは3年ぶり。この2年間は閉ざされていたという点に、またすこし運命的なめぐり合わせを感じた。

旧白幡邸
邸宅内の井戸
江戸時代のものもあるという、ひな飾り


無名の写真家が展示を終えて気づいたこと


展示のお話しをいただいた時には、まだ迷いがある状態だった。2年間で撮り溜めた写真は、誰かに見せる想定をしていなかったので、非常に個人的なものだという意識があり、人前に出すことをためらう気持ちも強かった。そして何より、"無名の写真家が展示をする。果たしてそこに意義はあるのか!?"という問いが、頭の中をめぐっていた。

そんな中、”展示をするべきなのだろうか?”と写真の先生方や、絵描きのパートナーや、友人、さらには占い師にまで相談をしたところ、全員一致でやるべきだという答えが返ってきた。なんとなく"ごたごた言わずにやれ"というニュアンスを受け取ったので、悩むのをやめて真剣に向き合うことができた。

展示にあたり、新聞社の取材を受ける機会があった。インタビューされ、話したことの詳細はうろ覚えだが、記事の結びにはこう書かれていた。

すずきさんは「見逃しがちな自然や町のよさを感じてもらえれば」と話している。

山形新聞の記事

上手に仕立ててもらった記事を読んで、"この一言に尽きるのかもしれない"と思った。展示をみてくださった方々から頂いた感想の中でも、一番多かったのは「普段見ているはずの景色でも、全然違う場所に見えるね」というような言葉だった。

景色というのは、世の中というのは、何か確固たる一定のものがあるのではなくて、それぞれの目を通して見た・感じたその姿が、あなた次第に、わたしの色にそれぞれ知覚されている、そういうものだと改めて感じた。

だから"わたしにはこう見える"は全て正解で、誰かにとってみればそうでないのも当たり前だ。でも、もしも似ている部分を捉えているとしたら、少しでも共感してもらえる部分があるとしたら、また、新しい一面を見るきっかけになったとしたら。それだけで、ただ会話を交わすのとはひと味ちがったコミュニケーションになった気がして、大きな意義だと感じることができた。その点においては、有名・無名は関係なく、ただ人と人の対話があるだけなのだ。


寒い東北の冬を越え、海の向こうの戦争など大変な時代に立ちながらも、穏やかな春を迎えられたことを、心から祝福する10日間になった。"たどり着いてまた巡る"という気持ちで、これからも庄内・湯田川の景色を写していきたい。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!