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娘が生まれる前に知っててよかったこと① モンテッソーリ教育より

これは、娘がバターにバターナイフを刺しているところ。

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なんでこの写真撮ったの? という感じだと思うけど、僕にとってはおぉ~と唸った一場面。

1歳7か月の娘は、まだ50単語くらいしか話すことが出来ないけれど、

それは表出言語としての話であって、受容言語はもうすでに相当な量になっていると思う。その証拠が、さきほどのバターの写真。

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今朝、朝食のパンにバターを塗ろうとしたときに、娘が「それなに?」という顔をして近付いてきた。こうした時に娘の好きにさせると、まず間違いなくバターを手づかみにする。

なので、娘が手を伸ばす前にこう伝える。

「バターは手で触らないで、バターナイフを使ってね」と。それからバターナイフを持たせてあげる。すると、なんと娘はちゃんとバターナイフを使ってバターに触れることができる。到底すくいとることは出来ないけれど、ちょっと突き刺すことが出来ればもうそれで満足。興味は次へいく。

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次に挑戦したのがこれ。

卵焼きにケチャップをかける。これも娘が近付いてきた時に、「ケチャップかけてくれる?」と言ってケチャップを渡すと、娘なりの丁寧さでケチャップをつけてくれる。もうちょっとつけて欲しいなぁ…とは思うものの、娘としてはこれで仕事完了。その先はケチャップでいたずらをすることもなく、次の関心ごとへと進んでいく。

多分、こういうことを書くと、なんだか嫌味に感じる人がいると思う。ちゃんと立派な親を出来てるよアピールにしか読めない人もいるだろうし、そういう子なんでしょう、あなたのとこは。と思われるだけかも知れない。

なので、こういうことを書くのはちょっとためらいの気持ちがある。けれどやっぱり書こうかなと思ったのは、それでも紹介したいと思ったからです。モンテッソーリ教育のことを。

僕たち夫婦にとって幸運だったのは、娘が生まれる前からモンテッソーリ教育のことを教えてくれる方が近くにいらしたこと。こどもとはどういうものなのか、折に触れて教えてもらっていたので、娘が誕生する前から、こどもとの向き合い方について、なんとなくの心構えが出来ていた。

深津高子さんに教えてもらった多くのことのなかで印象に残っている言葉はたくさんあるのだけど、このバターの件だったら「こどもは本物の仕事が好き」というのがポイント。

娘がバターに関心を持つのは、親が持ってきたから。そして、パンを食べる時にはバターが出てくるという関係に気が付いているから。こどもは親のことを本当によく見ているので、きっとこれからバターをパンに塗るのだろうということまで娘はちゃんと分かっている。そして、その仕事を自分でしたいと思っている。

ここが凄く大事。ついこども扱いしてしまうので、親としてはまだ娘はバターを塗ることは出来ないだろうと先回りして思ってしまう。やらせても失敗して机が汚れるだけ。なので、そうなる前にこどもからバターナイフを取り上げ、こどものために親がバターを塗ってしまう。多分、モンテッソーリの考え方に出合っていなかったら、僕も普通にそうしたと思う。だって、床にバターが落ちたら悲劇だもの。

だけど、こどもにとって親と同じ仕事をすることは喜びなのである。というひとつの事実だけを知っていれば、バターナイフを娘から取り上げることは、娘の喜びを取り上げることと同じなのだと気付くことが出来る。そうであれば、親として取るべき態度はひとつだけ。娘に仕事をしてもらおうじゃないか。となる。

この時にもう一点大事なことがある。それは、こどもというのは親が思っている以上に、こちらの言葉を理解出来るのだということ。表出言語に囚われると、まだ50単語しか使えないと思ってしまうけど、その内側にはもっともっと多くの言葉の積み重ねがあるので、それを信じてあげれば「バターは手で触らないで、バターナイフを使ってね。」と伝えてあげられる。そして、娘はなんと驚くことにそれをちゃんと理解する。理解したという証拠が冒頭の写真だ。

もしここで何も伝えずにバターとバターナイフだけを渡して挑戦させたとして、娘が手づかみでバターを触ったとしたら、「あっ!手で触っちゃ駄目だよ…!」と後追いで注意をすることになるのだけど、多分これをするとこどもは混乱をしてしまう。渡してもらえたのに注意された。なんで? と。

ちゃんと娘がこちらの言うことを理解出来ると信じて、事前に伝えてあげる。これが本当に大事なのだなぁといま実感している。そんなわけで、「バターナイフが刺さったバター」なんていう、他の人が見たらなんの意味も無いような写真を撮って感動してしまうわけです。

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繰り返しになるけれど、これは自分が親として適切に行動を出来ているなんていう大きな勘違いを書きたいわけではなくて、モンテッソーリ教育を知っていてよかったという話を書きたいのです。

「こどもは本物の仕事が好き」を知っていると、多くのことに応用が効く。キッチンで料理をしているところに娘が来たら、包丁が危ないから来ないでと遠ざけるのではなくて、出来たお料理のお皿を出して「これを持っていって」と渡してあげる。すると娘は嬉しそうにお皿を机に運ぶ。決して邪魔をしたいわけではなくて、自分も一緒に仕事がしたいのだと分かる。

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最近、玄関に踏み台を用意した。これがあることで、娘は自分で自分の靴の脱ぎ履きにチャレンジできるようになった。おかげで脱ぐはちょっとずつ出来るようになってきている。これも親がよかれと思って、娘の靴を勝手に脱がせてしまうと、あぁ~んとつっぷして泣いてしまう。とにかく自分でやりたいのだ。

この玄関の写真で分かると思うけど、うちは本当に普通の家に住んでいる。なんなら隙間風が吹いてくる分、ボロ屋と言った方がいいくらい。それでも大丈夫なのがモンテッソーリの良いところ。ただ踏み台を設置するだけなので、どの家でもすぐに実行可能。家庭に合わせて出来る範囲で環境を整えてあげる。この気軽さも凄い魅力的だと思う。

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これは最近、娘が描いた水彩画。家が汚れるのは覚悟のうえで、娘には思いっきり描いてもらっている。これもこどもだましのものを使うわけではなく、おとなが使うようなものを与えている。そうしたものに娘の目は輝く。

お風呂ではシャワー持ってもらうし、お出かけの時はリュックを背負ってもらう。おもちゃの片付けも手伝ってもらうし、たまにはよしよしと頭をなでて慰めてもらう。

要するにこれは、娘を一人の人格ある人間として扱うという、考えれば至極当たり前の話なのだ。こんな当然の話も、目の前でよちよち動く姿を見せられるとうっかり忘れてしまう。つい娘が困らないようにと先回りして動き、それがこどものための手助けだと思ってしまう。親としては自然な行動でも、こどもにとっては親に楽しみを奪い取られてしまった…となる。

じつを言うと、料理がのったお皿を運んでもらうときは、転んでひっくり返さないかな…と気が気でないのだが、もうそこは信じるしかない。娘を。そう、親にとって大事なことはこどもを信じることなのだ。というこれまた当たり前のところに結局もどってくる。

最近だと将棋棋士の藤井聡太さんがモンテッソーリ教育を受けていたことなどから、モンテッソーリ教育=英才教育的に捉えている方もいると思うのだけど、僕が知る限り全然そんなことではない。

教育法というよりは、こどもとはどんな性質を持っているものなのかを徹底的に観察して導き出されたある種の人間理解みたいなものだと思うので、親としての心構えというか態度というか、そんなものを教えてもらっているような気がする。

そんなわけで、モンテッソーリ本当にいいと思いますという話でした。まだまだ書きたいことがあるので①としましたが、②以降も続けて書けるかは自信がありません。なにせ、忙しい…。

僕がここで書いてることは、あくまで僕がこうなのかな? と理解したことなので、ちゃんと詳しく知りたい方は、上記の深津高子さん監修のこの本がおすすめです◎

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