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善と悪

 このところのロシア・ウクライナ戦争は凄惨である。なぜ戦わなくてはならないのか、その理由は知識不足ではっきりとは言えない。隣り合った国同士でもあり、過去や周辺との関係から両者の言い分があるはずであろうことが推測できる。ただSNSなどを見ていると、ロシアが悪でウクライナが善という、二項対立のように書かれている情報が意外に多く気になった。私自身は善の中にも悪が、悪の中にも善がなどと、道徳的につい解釈してしまうが、いま現実に人間が犠牲になっている中で「お人好しのようなことを言ってられるか。はっきりと善悪を示し敵国に訴えることが重要だ」などの意見が大方のようだ。その現状は別にして、一般に言われる「善と悪」とはどのようなものかを考察してみた。

 おそらく両者は儒教や仏教とか、あるいは哲学で詳しく語られていると思うが、私の主観では表裏一体のものとして、簡単に使う言葉ではないと考えている。善悪の二分法は物事の本質よりもカテゴライズを優先し、善は良いこと、悪は排除されるべきものという判定を容易に導いてしまう。またこうしたことは周囲の、つまり大衆が決めてしまうことが多く、当事者の真意とはかけ離れたレッテルを貼られてしまう。いわゆる環境や文化、地域というものが善悪を決めるのであり、絶対的なものはないとする相対主義の思想がこれに近いだろう。現実をみても「善」と「悪」という意味通りの意識が社会の秩序に組み込まれ、政治に利用され、同調圧力や相互監視の扇動ともなっている。

 善悪といって頭に浮かぶのは「悪人こそが救われる」と説いた親鸞聖人の言葉だ(歎異抄より)。私の日常に鑑みても、人間は必ずしも聖人君子ではいられないし、つねに善と悪が振り子のように揺れ動いている。それらは無意識化されているものであり、何かことが起こってから判定される厄介なものだ。そのことは善悪という概念自体が法を作り、近代社会を維持しているとも言える。神や仏の赦しというのは、現代では通用しなくなっているようだ。善悪は「悪しき人」とか「善き人」などとも形容されるが、この場合は判定に含みがあり、「悪人」や「善人」という区分けの響きは薄くなる。ちょっとした言い方の問題でもあろう。「善」と「悪」はつねに流動的であり、融通性が要求されるだろう。それはとても面倒くさい思考だが、危機に陥ってる現代こそ、二分法ではない柔軟性のある判断が必要となるだろう。


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