短編『三人』


 自習室を出て廊下の窓から外を見ると、空は厚い雲で覆われており、しとしと雨が降り始めていた。今年は空梅雨だったから雨が降り出して少しほっとした。
 薄暗い廊下を抜けて、私は昇降口へ向かった。階段を降りると下駄箱の土臭いにおいがした。二年B組の下駄箱に上履きを入れ、黒いローファーを取り出す。
 昇降口を出ると、雨は思ったよりも激しかった。アスファルトは黒く艶やかで、柔らかく澄んだ雨のにおいが立ち上る。私は深く息を吸った。湿っぽい空気がゆっくりと肺に満たされていくと、熱っぽい頭が急速に冷やされていくのを感じる。心地よい疲労感が全身を駆け巡り指先まで膨らんだあと、空気とともに肺から一気に吐き出した。
 今日は集中できたな。
 私は折りたたみ傘を取り出す。今から向かうのはいつものように水泳部の部室だ。水泳部は普段から遅くまで練習しているので、帰宅部の私はめいっぱい学校の自習室で勉強できた。良太と進が部活を終えるまであと十五分くらいあるが、部室に行って待っていよう。
 水泳部の部室は校舎から最も遠い。グラウンドを越えたその先にある。雨が降っていなければサッカー部やら陸上部やらが練習をしているはずの、寂しいグラウンドの隅を通って水泳部の部室前まで歩いた。
 部室前でしばらく待っていると、制服に着替え終わった水泳部員が足早にやってきた。プールに更衣室があるのでそこで男子も女子も着替えてくる。だから部室には荷物を取りに来るだけだ。
「あ、田中さん」
 背の低い、ボブカットが良く似合う女子生徒が話しかけてくれた。
「鈴井さん。鞍馬と柏木はまだでしょうか」
「すぐ来ると思いますよ」
「ありがとう」
「いえいえ、それでは」
 鈴井さんはにこりとして、自分の荷物を部室から取り出すとそのまま帰っていった。鈴井さんは水泳部のマネージャーでタイム計測や練習管理をしている。もともとは選手として練習にも参加していたらしいけれど、今年の四月からはマネージャーに転身したらしい。
それから五分ほど待っているとようやく待ち人が現れた。
「よう、美香。待たせたか?」
 良太が片手を上げた。
「ううん、全然待ってないよ」
「そっか」
 進は良太の後ろからひょっこり顔を出すと、
「いつも待っていなくて良いぞ」
 と言った。
「いいの。勉強しているから」
 私の幼馴染の鞍馬良太と柏木進。この二人はとても対照的だった。良太は日によく焼けていて、ゴーグルのせいで日焼け跡が逆パンダになっていた。筋肉質で引きしまった体に、象牙でできているのではというくらいに真っ白い歯。髪の色がプールの塩素のせいですこし茶髪になっている。初めて会った人がみたらやんちゃそうだと思うだろう。
 対して進は水泳部らしからぬ色の白さだ。元から色白で、加えて日に焼けてもあまり変わらない体質らしい。筋肉質ではあるが、良太と比べてスマートな体型だった。背は良太よりも五センチくらい高い。少し眠そうなたれ目が柔和な印象を相手に抱かせる。
「まじめだなあ」
 進が柔らかに笑った。
「暇だからやっているだけだよ」
 私も笑顔で返す。
「さっさと帰ろうぜ」
 良太はいよいよ本降りになってきた雨を見て言った。
 良太の一声で私たちは迷いなく歩き出す。
 特に話すこともなかったので、無言で歩いた。この三人なら話を続けなきゃいけないとか、気まずいとか感じずに済む。無言であることも大切なコミュニケーションだと思う。
 三人が横並びで歩いていく姿は、ファランクスみたいだなと思った。今日の世界史の授業を思い出しながらにやけてしまう。私はともかく両脇の二人は体格が良いからとても目立つ。
 部活終わりの生徒たちにじろじろと見られたがもう慣れた。
 カフェや八百屋などが軒を連ねる商店街前の交差点で信号に引っかかった。
 青に変わるのを待っている間、横断歩道の対面に、相合い傘をして仲睦まじく下校する中学生カップルを見た。そのカップルはお互いに意識しすぎて会話が弾んでいるという感じではなかったが、相手との距離を暗闇の中、手探りで確かめ合うようないじらしさがあった。
 信号が青に変わる。私たちは無言で横断歩道を渡り始める。中学生カップルは私たちとすれ違っていく。
 無言で下校するとなりには、今も小学校から変わらず二人がいる。私は確かな熱を胸の奥に感じていた。
「今度の休みはどこへ行く?」
 不意に良太が私に話しかけた。
「大会があるんじゃないの」
「終わった後の話だよ」
「そうだなあ。二人が行きたいところにしてよ。私はどこでも良いから」
「お前、そればっかりじゃないか。たまには行きたいところを出せよ」
「私は家にいる方が好き」
「張り合いのないやつ」
「進はどうなのよ」
 私は矛先が自分に向けられ続けるのを避けようと、進に向かって話を振った。
「悪いが俺はすでに休みの予定があるんだよ」
「マジか」
「行くとしたら二人で行ってくれ」
「なんだよ、付き合い悪いな」
「ほっとけ」
「分かった。彼女だな」
 進はちらっと良太を横目でにらむと、継いで溜息を吐いた。
「違うよ。バイトだ、バイト」
「つまらん」
「それに、毎週どこかへ遊びに行っているようじゃ、行く場所もお金も無くなるだろう。たまにはゆっくりと家で過ごせよ」
「そうね。今回は良太の家で勉強会をしよう」
「はあ? 休みの日にわざわざ集まって勉強するのか?」
「そ、良太はやっておいた方がいいんじゃないの。この前の中間テスト赤点取っていたでしょ」
「良いんだよ。一夜漬けで何とかなるんだから」
「そうやって笑っていられるうちはいいけどな、いつか後悔する時が来るぞ」
「そうだよ。ノートだって貸してあげないよ。ちゃんとやらないと」
「なんだよ、二対一か? せっかくの休みに勉強なんて」
「決まり、決まり。今度の日曜日は勉強会ね」
「俺はバイトだからパスな」
「勉強するくらいなら、バイトの方がいい」
 良太はしばらくしょぼくれていたが、家が近づくにつれて元気を取り戻した。
 家の近くの公園で、私は二人と別れた。

 翌日、進は欠席だったらしい。進と同じクラスの良太曰く、風邪をひいて寝込んだそうだ。
 放課後になると、私はいつものように自習室で勉強して、水泳部が終わるころにまた部室へと向かった。二人と一緒に帰ることは小学生からの習慣のようなものだったので、どんな時も二人に時間を合わせて帰宅するようにしていた。
 部室で十分くらい待っていると、他の水泳部員と一緒に良太がやってきた。二人、並んで下校する。
 今日も雨が降っている。
 昨日よりも暗く分厚い雲が街を覆っていた。大きな鍋の中に落し蓋をされたみたいに圧迫感があった。辺りはもう暗く、街灯と建物から漏れる光で幻想的なコントラストを描いていた。
 歩道をゆっくりと二人で歩く。商店街前の交差点でまたしても信号に引っかかった。すると偶然、昨日も見た中学生カップルが対面に現れた。
 信号機の赤色がにじんで、輝く。
 相合い傘をしたカップルの表情は、傘に隠れて分からない。けれど、二人の距離は昨日よりも近づいているような気がした。
そんな様子をなんとなく眺めていた。
中学に上がってから、水泳部で成長する二人を見て、自分がおいて行かれたような気がして悲しくなった。それ以来、深く考えることは避けてきた。私と進、良太のつながりはただ単に家が近所の腐れ縁というだけだったから、新しい環境で受け入れられ、活躍する彼らを遠い人に感じることが嫌だった。
「なあ、美香」
「うん?」
「夕子ちゃんは元気か?」
「まあ、元気なんじゃないかな。また突然だね。妹のことを聞いてくるなんて」
「いや、お前の家に行ったの、中学以来だろ?」
「ああ、そんな前になるんだっけ」
「最近どうしているのかなって思って」
「別に様子を私に聞くだけじゃなくて、家に来ればいいのに」
「まあ、確かにそうなんだけれど」
 良太の言葉は何か含むところがあったように思う。
「なにも遠慮することないよ。今度くればいい」
「いや、元気にしているんなら良いんだ」
「ふうん……」
「今度の大会、見に来るように言っておいてくれよ」
「まあ、言っとく」
 信号機が青に変わる。私たちは横断歩道を渡り、商店街の方へ歩を進めた。
 良太はニヤッと笑った。笑い方は小学校の頃からちっとも変っていない。
「それはそうとさ、進のお見舞いに行こうよ」
 私がそう言うと、良太は申し訳なさそうに首をすくめた。
「わりい、今日はこの後用事があってな……。お前一人で行ってきてくれよ」
「あ、そう。いいけど」
 良太は、ちょっと待っていろと言い残して、近くの自販機でスポーツドリンクを買ってきた。
「見舞いに持って行ってくれ」
「任された」
 私と良太は、商店街の前で別れた。良太は駅の方へ行く用事があるらしく足早に立ち去った。残された私は、なるべく早く進の見舞いに行く事にする。進の家は商店街を通り抜け、十五分ほど歩いた住宅街にある。
 進の家は木造一軒家、普通の家だ。両親は共働きで今は進だけしか家にいないはずだ。
 進の家のインターホンを押すが、中から人の気配がしなかった。
 寝ているのかな。
 試しにドアノブを回すと鍵はかかっておらず、玄関は開いた。
 不用心だなと思いつつ、何度も同じように上がったことがあったので、私は進の家に上がった。玄関は手狭であまり靴が置かれていない。進の家は木のにおいが充満しており、清々しくて好きだった。
 進の部屋は何度も行ったことがある。玄関を上がって廊下の突き当りを左に曲がり、二階への階段を上る。二階の廊下で一番手前が進の部屋だ。勝手知ったる家なので迷うことなくたどり着く。
 試しにノックしてみた。しかし、中から反応はない。
「進、お見舞いに来たよ。入ってもいい?」
 やはり反応はない。
 スポーツドリンクだけでも置いて行こうと思い、静かに進の部屋のドアを開けた。
 六畳ほどの部屋はかなり乱れていた。部屋の奥に窓がありその手前にベッドがある。ベッドは衣類がうずたかく積み上げられ、その下に埋もれるようにして頭が見えた。進が寝ているらしい。部屋の中央にはローテーブル、その上には食べかけのコンビニ弁当がそのままになっている。本棚には漫画が押し込められているが、少年誌ばかりで私にはよくわからない。
 これはまたひどい部屋だな、私は半ば呆れながら進の横たわるベッドを覗き込む。
 散らかったワイシャツやら、ジャージやらの山に埋もれていたが器用に顔だけ外へ出して、進は穏やかに寝息をたてていた。進は外面がいいからあまり感じさせないが、内ではかなりずぼらなところがあった。
 私はため息をついて、彼の顔を見た。そういえば進の寝顔は初めて見るのかもしれない。
「う、ん」
 進が寝返りを打つ。私は手に持っていたスポーツドリンクをうっかり落としてしまった。
 どすん、と床にペットボトルが跳ねた。
 ほぞを噛んだときにはもう遅かった。
 もそもそと布団がうごめいたと思うと、進がゆっくりと目を開いた。進は私が部屋にいることをさも当然といった感じで、大きなあくびを一つした。
「美香?」
「あ、起こしちゃった?」
「なんで、いるんだよ」
「いや、その、お見舞いに……」
「……そうか。ありがとな」
「これ」
 私は、落としてへこんでしまったペットボトルを、衣類に埋もれたままの進に押し付けた。
「良太から、もっていくように頼まれた」
「テーブルに置いてくれる?」
 言われた通りにそばにあったローテーブルにスポーツドリンクを置く。ペットボトルが結露していて、手が濡れてしまった。
 進はのっそりと衣類を崩しながら起き上がる。ベッドの脇にばさばさとワイシャツが落ちた。
「風邪、もういいの?」
「とりあえず薬飲んで朝から寝てた。明日にはもう復活できそうだ」
 進が、言いながら掛布団をはずすと、色白な肌が露出した。
「ちょ、なんで裸なのよ!」
「え? いや下半身は着ているぞ」
「上にもなんか羽織って!」
 進は「えー、別にいいだろ。お前しかいないんだし」とぶつぶつ抗議してきた。
「そういう問題じゃない。女子の前でデリカシーが無いことするのやめて」
「……ああ、そうだな。悪い」
私の顔がみるみる火照ってきているのを感じた。耳の先が痛いくらいだ。私は自分の手の甲を進に見られないようにつねった。
「……用は済んだから、私帰るわ」
「もう帰るのか?」
「病人を疲れさせちゃあれだし」
私はすぐに踵を返した。いつの間にか湿度の高さが不快に胸を締め付けていた。
「また学校で」
「ああ」
 部屋を出ようとした時、可愛らしい花柄のタオルハンカチが、散乱している衣服の中に埋もれているのに気が付いた。
 私は急いで家の外に出た。雨はほとんど止んでいた。傘をささずに走っていたら、水たまりに足を突っ込んで靴下がぐっしょり濡れてしまった。

 自宅の玄関の扉を開けて中に入ると、どっと疲れが押し寄せてきた。なんとか自室までたどり着き、ベッドに倒れこむ。部屋着に着替える気力もなく、学校から帰ったそのままの格好で呆けてみた。濡れた靴下が不快で、靴下を蹴っ飛ばすようにして脱いだ。
 ため息がもれた。ベッドに身を投げ出すとすぐに強烈な睡魔が襲ってきた。私は睡魔と闘うことを放棄して、蹂躙されるがまま瞼を閉じた。
 朝、六時十分。あまり清々しいとは言えない目覚めの後、一階のダイニングに降りていくと、母がすでに朝食を作っていた。
「おはようね、美香。……あんたすごい顔よ。鏡見た?」
「まだ見てない」
「見た方が良いよ。一晩中泣きはらしたみたいな目の腫れ方してる」
 事実、昨日の夜は泣いていたので何となくそんな気はしていた。
 制服のまま目を閉じた後、深夜二時に目が覚めた。部屋の照明はつけっぱなしだったし、歯磨きをせず、お風呂にも入っていなかったので、寝苦しくなって自然と目が覚めた。シャワーを浴びている最中、私は一人めそめそと泣いていた。何が悲しかったのか、自分でもよく分からないが、とにかく感情が湧き上がって、とめどなく流れ落ちた。
「わかってる」
「……朝ごはん食べるでしょ。玉子焼き出来たら食べられるよ」
 母は、多くを聞かない。昔から遠くから見守ることに徹してきている母は、どんな時も寄り添ってくれる。子供の頃はもっと母に近づきたいと思ったけれど、今はこの距離感が心地いい。
「うん」
「できるまでに、夕子を起こしてきてくれない?」
 私はのっそりとダイニングから出て、夕子の部屋の扉を勢いよく開け放った。
「ほら、朝だぞ」
 何も反応がない。
 ベッドには、夕子が大きな蛹のように頭からつま先まですっぽりと掛け布団にくるまっていた。私は閉め切っているカーテンと窓を一気に開けて、太陽の光を薄暗い部屋へと誘った。空は澄んだ青で雲一つない。夕子の反応はない。
 私は掛け布団の端を乱暴に掴み、そのまま剥ぎ取る。
 夕子は肩甲骨あたりまで伸ばした髪を豪快に振り乱して、気持ちよさそうに眠っていた。
 仕方がないな。
 私は夕子の頬を軽くぺちぺちと叩いた。
「なにするん」
「朝だぞ、さっさと起きな」
「ええ? だるい」
 寝ぼけたままの夕子を引きずってダイニングまで運ぶ。
 三人分の茶碗にご飯をよそい、みそ汁も同じようにつけた。
 母と夕子の三人の食事はだいぶ慣れた。父は単身赴任で大阪に行っているが、仕事が忙しいらしくなかなか帰ってこない。三人の生活は今年で三年目だ。最初は頻繁に父に電話していたが、最近はほとんど連絡を取っていない。前に電話したのが三週間前だったか。
 母は玉子焼きを焼き上げてお皿に盛りつけた。
「進くんたち、そろそろ大会よね」
「うん。応援行かなきゃ」
 食卓に座る。「いただきます」とそろって言ってから、静かに三人で食べ始めた。玉子焼きと野菜炒めが暖色の照明を受けて、目の前で光っていた。
「あの二人のことだから、個人ではいけるわよね」
「どうだろう……。進、昨日から風邪ひいて学校休んでさ」
「進さん、大丈夫なの」
 夕子が、ずずず、と味噌汁を流し込んだ。
「たぶん」
「私も進さんの応援行きたかったな。くそ、部活め」
「汚い言葉を使わない!」
 母は夕子を睨んだ。
 夕子は眠そうにご飯をもそもそ食べている。
「進以外に良太もいるよ?」
「良太はいいや」
「あんたのその扱いの差はなんなの」
「うーん。なんとなく」
 良太に夕子を観戦に誘ってくれと言われていたことを思い出したが、今更言ってもしょうがないことのような気がする。ごめん、良太。

 進の風邪は完治したらしい。私は水泳部の部室へ行く気はしなかった。進と顔を合わせるのが何となく気まずかったのだ。それに自習室で勉強する気にもなれなかった。私は空いてしまった放課後の時間をどうやって潰そうか、自分のクラスの机に座り考えていた。教室には私一人しかいない。
 外は雨が降っておらず、空梅雨の今年はすでに晴れ間の方が多い。傾いた西日が南向きにつけられた窓から入り込み、少し眩しかった。二階の教室からはグラウンド、プールが見える。グラウンドからはサッカー部の掛け声だろう、「まだいけるぞ!」と雄叫びが聞こえてくる。
 グラウンドの奥にあるプールはあまりはっきりとは見えないけれど、水泳部員がしきりに練習していた。
 私が窓から水泳部を眺めていた時、教室の入り口に人の気配がした。
「あれ、田中さん。まだ教室に残っていたの。自習室にはいかないんだね」
 入り口に目を向けると、水泳部のマネージャーの鈴井さんが立っていた。
「ええ、今日はなんだか気分が乗らなくて」
 鈴井さんはにっこりと笑って、教室に入ってきた。窓際の席に腰掛け、夕日をバックに髪をかき上げた。額縁をかけたらそのまま絵になってしまいそうな彼女に一瞬見惚れた。
「あなたこそ部活には行かなくても良いんですか? とっくに水泳部は活動していると思うけれど」
「今日はちょっと用事があって」
 私の見間違いじゃなければ、鈴井さんはとても悲しそうな眼をしていたような気がする。私はなぜかとても不安になって彼女にどんな用事なのか聞こうとした。しかし、彼女はすぐに明るい表情に戻った。
「それにしても田中さん、良太と進くんと本当に仲が良いね。いつも一緒に下校しているし……」
「腐れ縁なんですよ」
「羨ましい。そんな仲の良い幼馴染なんてそうそういない」
「そうですかね」
「休日とかは三人で出かけたりとかしないの」
「したことないかもしれない」
 反射的に嘘が口をついて出た。
「ええ、どうして?」
「休みの日まで一緒にいる必要ないもの」
「あはは」
「特に良太なんて、暑苦しくって平日に見ておけば十分すぎますよ」
 鈴井さんはとてもまっすぐな瞳で私を見据えていた。そこにはある種の迫力というか、凄みがあった。
「良太はよく言うんですよ。田中さんを怒らしちゃまずいからすぐ帰るって。私、美香さんは怖い人だと思ってた」
「あいつ……」
「でも、実際に話してみるとそんなこと無くて。実を言うと少しほっとしたよ。田中さん、なんか近寄りがたいというか、鉄壁の人って感じがしていたから」
「そんなつもりは全然ないのだけれど」
「そっかー」
 お互い沈黙する。彼女の瞳は少し揺れていた。切り出したい話があるに違いない。聞きにくいことなのか、迷っている風に見えた。しかし、意を決したようで、私の方へ身を乗り出した。しかし、言葉は出てこなかった。
「どうしましたか?」
「なんでもない」
 鈴井さんは肩をすくめた。少し夕日が眩しそうだった。
「あ、そうそう。今日は大会の直前日だから、練習が短いんだ。あと三十分くらいしたら終わるよ」
 今日は部室に顔を出すのは気が引けていたが、鈴井さんに言われた通りに三十分後部室へ行くと、丁度良太が部室を出てくるところだった。
「お、美香、お疲れー」
「進は?」
「もう少しで来ると思うぜ」
 部室前で話していると、後ろから人が近づく気配があった。
「待たせたな。二人とも」
 進がワイシャツの裾をはためかせながらこちらへ歩いてきた。進はマジ疲れたーと言いながら私たちの肩にもたれかかった。
 体を固くして、もたれかかった進を支える。
「柏木、お前重い」
「良いだろう、少しは休ませろよ」
 ぐっと体重をかけてくる進を足で踏ん張って支える。私は一度息をすべて吐き切ると、思いきり息を吸い込んだ。肩に進の頭が乗っている。まだ湿っている髪からは、カルキのツンとしたにおいが漂い、鼻をくすぐる。私はもう一度大きく息を吸い、カルキのにおいを体中に取り込み、息を止めてただ身を固くしていた。
「いいから自分で立てよ、美香だって重いだろう?」
 良太が私に、なあ、と同意を求めた。
「……」
「美香?」
 進は不思議そうに私の顔を覗き込んでくる。無邪気な笑顔だった。
「いい加減にして」
 私は手で払いのけるようにして、進の体から逃れた。
 進の表情、まなざし、言葉、すべてに腹を立てた。
 自分でも分からない衝動が、私の足を回転させる。
 進の顔を見た時、何かを感じた。私はそれを知りたくなかった。だから、いま私は走っている。走って、走って、走っても、足りない。

 家に帰ると携帯に着信があった。良太からだった。
 私は一瞬ためらってから、電話にでた。
「はい、もしもし」
「あ、美香か」
「うん」
「さっきはどうしたんだよ。いきなり走って行っちまって」
「ごめん」
「謝ることはないけど、お前なんか変だぞ」
「本当、何でもない。ただ苛々してしまっただけ」
「そうなのか? でも」
「何でもないったら」
「俺には言えないことなのか?」
「……」
「進にはどうなんだよ」
「ごめん。もう切るね」
「え、ちょっと――」
 通話を終了し、携帯をベッドの上に放り投げた。
 ベッドに転がっている携帯電話から低いバイブレーションの音が聞こえる。
 心臓が鷲掴みにされたように、苦しくなった。
 そっと携帯電話のディスプレイを確認した。またしても良太だった。
「はい」
「ごめんよ。さっきの話はもうしない。ただこれだけは言いたかったんだ。明日の地区大会、観戦しに来いよ」
「……うん。最初からそのつもりだった」
「そうか、それならよかった」
「あ、良太」
「うん?」
「私一人で行くね。夕子は行けないから」
「そうか、なら仕方ないな」
 良太は会場と種目順を説明してくれた。
「わかった」
 明日待ってるぞ、と良太は言って電話は切れた。
 地区大会は、H市の総合水泳場で行われる。私は最寄り駅のI駅まで母に車で送ってもらい、電車とバスで行くことにした。八時五十分発のI駅行の電車に乗り込む。H駅で降り、駅のバスターミナルで、九時九分発の総合水泳場行のバスに乗車し、揺られること四十分、計一時間半かかって、やっと総合水泳場へと着いた。魚のマークがあしらわれた施設は、青が印象的なとても大きな水泳場だった。
 正面入り口から施設に入り、メインプールの観覧席へと赴く。南ゲートから観客席へと出ると、その規模の大きさに圧倒された。メインプールは屋内プールで一階に位置していた。十レーンある五十メートルプールでは、すでに競技は始まっていた。各校の応援が会場内に響く。観覧席は二階にあり、一階部分が見えるよう、吹き抜けになっている。
 観覧席は大会に参加している学校の控え場所として多くが埋まっていた。私は良太と進を探す。すると、一番奥の観客席に我が校の横断幕が見えた。横断幕が掲げられた観客席の、前から三列目奥に目立つ茶髪で日焼けした男が目に入った。
 私はそっと、彼の近くまで行き、後ろから声をかけた。
「良太。来たよ」
 良太は静かに振り返り、「おつかれさん」と言った。
「……それにしてもすごいね。こんなに人がいるなんて思っていなかったよ」
「県大会に繋がる大会だからな、どの学校も気合入ってるさ」
 そこかしこで、選手の応援をしている学生がいた。
 今行われているレースは、百メートル平泳ぎの予選だ。
「この後が、百メートル自由形?」
「ああ、そうだよ。あいつはエントリータイムが速いから、最終組のレースだ」
 我が校の水泳部員たちが慌ただしく自分のレースの招集に動いていた。私はレースの招集順を告げながら、部員に声をかけ続けている鈴井さんを見ていた。カルキと汗、プラスチックの観客席のにおいが混ざり合い、胸がむせかえりそうだった。
「進は?」
「ああ、後ろの席にいるんだろ」
 良太が指さす方向には、誰もいない観客席の最上段で一人イヤホンを着けて目を閉じる進の姿があった。
「進は、試合の時はいつも音楽を聴きながら静かに過ごしているんだ。きっと集中しているんだろうな」
 良太は困ったような寂しいような変な顔をしていた。腕をぼりぼりと掻いた
 予選落ちした選手や招集時間になっていない選手は応援席にとどまり、競技をソワソワした様子で見ている。
鈴井さんは進のいる席まで上がっていった。
「鈴井さんは何しに行ったの?
「召集の時間だから呼びに行ったんだろうな」
進は鈴井さんと二言三言お互いに言葉を交わして、またイヤホンを着けた。
 進が最上段の観客席から降りてきて、私の近くまで来たとき、進に「頑張れ」と一言だけ言って手を振った。進はイヤホンをしたまま右手を上げて答え、応援席から出て行った。良太は進の後を追うように小走りで応援席を後にした。
 戻ってきた良太は、進がアップをしに行ったと教えてくれた。
 一通り順番の確認を終えると、鈴井さんは応援席に座った。私と同じ列だったが、五席分離れていた。鈴井さんはまっすぐにメインプールを見下ろしている。
 私は大きく息を吸い込み、腹に力を籠めて立ち上がった。鈴井さんが上目遣いに私を見る。あえて意に介さず、鈴井さんのすぐ隣の席に座った。
 場内アナウンスが流れる。
 百メートル自由形の予選が始まり、そろそろ進の順番だという時、鈴井さんは口を開いた。
「そろそろ、進ですよ」
「ええ」
選手が入場し始めると、他校の生徒たちが自分の学校の選手を大きな声で激励し始めた。喧噪の中、私と鈴井さんの間に音はなく、お互いに少しの間見つめあった。鈴井さんは少し困ったように微笑をうかべて、メインプールへと視線を戻した。
進は黒地に赤いラインの入った競泳水着を穿き、黒いゴーグルをしていた。水泳選手にしては色白な体によく映えた。選手たちは控用の椅子に座って思い思いに緊張をほぐしているようだった。体をばしばし叩く者、ストレッチする者、目を閉じて深呼吸する者。進はただ眼を閉じていた。

 ピ、ピ、ピ、ピ

 選手たちが一斉に立ち上がり、スタート台の横に整列した。一様に小麦色に日焼けした逆三角形の体をして、タイトな水着が下半身をよりスリムにしていた。光沢のあるゴーグルがぎらぎらした選手がいて、ぴったりとした水泳帽も相まってサイボーグみたいだと思った。進は真ん中のレーンで、一際白くて浮き上がって見えた。
 騒がしかった会場は一斉に静まり返った。

 ピー

 ひときわ長いホイッスルが鳴って、選手たちはスタート台に乗った。それぞれの飛び込み姿勢で、ぐっと力をため込み、スタート合図を待っていた。空気が一瞬張り詰めた。
「気づいた?」
「え」
 私は思わず鈴井さんを見た。
 彼女はいたずらっぽく笑っていた。

 ピ!

 水しぶきがあがる。会場全体に迫力の波が押し寄せるように伝わった。
 堰を切ったように音が帰ってきた。
 水を蹴る、どどどどどど、という重低音が渦となって耳に届く。
 会場の声援がこだまする。
 五十メートルプールの端までどの選手も拮抗していた。ターンを滑らかに決めた選手たちは水中でイルカのように加速する。浮上すると再び、どどどどどど、と重低音を響かせゴールまでなだれ込んでいく。拮抗していた選手たちは次第にばらけ始めたが、上位三名は最後の五メートルになっても客席からでは順位の判別は難しいくらいに接戦だった。しかし、進は上位三名の中でわずかに一位との差を縮めることができなかった。
 進は二位だった。
 進のレースが終わると、すぐに良太が左隣に座った。
「進、すごかったね」
「ああ、あいつはうちの部のエースだからな」
「よく学校の朝礼で発表されてるもんね。賞を取った人」
「だけど、あいつのタイム、今回はあまりよくない」
 電光掲示板に表示されたタイムを見ながら、良太はうなった。
「え、そうなの」
「ああ、練習で出せていたタイムよりもはるかに遅い」
「そうなんだ。でも、それでも二位がとれちゃうなんてね」
 私は良太のほうへ顔を向けた。良太と目が合った。私は首を掻いた。
「そうだな、すげえよ」
 プールから上がった進は私たちに向かって手を振っていた。
 私が手を振ろうとした時には、すでに鈴井さんが手を振り返していた。
「そういえば、良太の競技はいつなの?」
「ああ、俺はもう終わったんだよ」
「え、私が来た時には終わってたの?」
「ああ」
「良太に言われた時間できたのに」
 私は良太の脇腹を肘でつついた。
「まあ、良いじゃんか。進を見られたら十分だ」
「えー」
「なあ、少しは気が晴れたか?」
「昨日のことは、もう大丈夫」
「そうか」
「鞍馬くん、ちょっと手伝って」
いつの間に席を立っていたのか、鈴井さんが部員の荷物の横で手招きしていた。良太はどうしたと言いながら、鈴井さんのところへ行ってしまった。
 私は天井を見上げた。骨組みがむき出しの天井は不思議ととても近く感じられた。
 自動販売機で飲み物でも買ってこようと思い立ち、私は観客席を後にした。観客席を出ると、メインプールから総合水泳場の正面入り口へと続く通路を進み、エントランスの休憩スペースで自動販売機を見つけた。スポーツドリンクを三本買った。休憩用のソファに座る。買ったばかりのスポーツドリンクを飲もうとした時、お見舞いに行った時の進の半裸姿と、水着を着た姿が同時に脳裏をかすめた。抱え込んだペットボトルがやけに重かった。気が付けば、ペットボトルをソファの脇に放っていた。
 ソファに座っていると、後ろから声をかけられた。
「探したよ」
 振り返ると、鈴井さんがにこやかにこちらへ歩いてくるところだった。彼女は可愛らしい花柄のタオルハンカチで手を拭いていた。
「そろそろ、午前の部が終わりだよ。お昼休み」
「分かった。あ、はいこれ」
 私は放ってあったペットボトルを取り、鈴井さんに渡した。
「お疲れ様ってことで」
「え、良いの? 三本も」
「ああ、進と良太にもあげてください」
 私は鈴井さんと観客席に戻ろうと立ち上がった。
 そのはずだったけれど、なかなか戻るための一歩が出なかった。
「どうしたの?」
 先に歩いていた鈴井さんはいぶかしげに振り返った。
「やっぱり、いい」
「え?」
「午後にちょっと用事ができてしまったの」
 鈴井さんは口で息をして、唇をなめた。
「それじゃ、進たちに言っておかないと」
「ああ、鈴井さんから言っておいてくれないかしら。急用ですぐに行くから」
 私は鈴井さんに背を向けて、出口へ向かって歩き出す。
「分かりました」
 鈴井さんはのっぺりとした調子で言った。
 今年は空梅雨で良かった。
 出口から見える外の景色はすでに初夏を思わせる眩しさだった。
 濡れて帰る心配もない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?