「サトリ」(ドン・ウィンズロウ著、黒原敏行訳、早川書房刊)

 名作として知られるトレヴェニアンの「シブミ」の前日譚として書かれた本作。著者は麻薬戦争を描いた「犬の力」などで知られるあのドン・ウィンズロウ。トレヴェニアンへのオマージュがこれでもか言うほどウィンズロウから伝わってくる(たぶん)。

 さて、本作の単行本の帯などには、あの著名な日本人作家も驚愕!というような言葉が躍っているが、結論から言うと、読んでみてびっくり。この作品を高く評価する人がいるのかと思ってしまうくらい信じられない作品。また、これは本当にウィンズロウが書いたのか?というのが率直なところ。なぜそう思うか、さっそく本題に入ろう。

 まず前提として、私はトレヴェニアンの「シブミ」を読んでいない。なので、トレヴェニアンの作風や「シブミ」との比較という視点ではなく、あくまで本作そのものについてレビューしていることを最初に伝えておこう。

 本作は、冒頭から日本に関する知識がこれでもかというほど開陳されていて、深い見識を備えた上で書かれていることがわかる。しかし同時に、違和感も覚える。

 まず、「シブミ」と「サトリ」という日本語。どちらもあまり一般的な日本語ではない。「サトリ」についてはおおまかな意味を想像できる人は多いと思うが、「シブミ」に関してはどうだろうか。もちろん日本語の単語として「渋い」は存在するしその名詞形としてなら「渋み」の意味も想像できると思うが、日本語の用法として、「シブミ」を使う機会がそもそもあるだろうか?

 「サトリ」よりもはるかに使用する機会のない日本語、というより、使用すること自体があるのかとほとんどの日本人が感じる日本語ではないだろうか。それらの事情を知らない外国人が本作を読んだら、「シブミ」は日本語としてごく普通の言葉だと誤解しないだろうか、というのが違和感の一つ。

 次に気になったのは、暗殺者コブラ。冒頭にその登場シーンがあり、これがひどい。伏線として用意したつもりなのだろうが、待ち伏せして刺し殺した、という以上のものは何も無い退屈な場面が描かれている。プロの暗殺者としての手並みの良さや能力の高さが感じられるような場面や描写は一切無い。冒頭のこうした登場シーンで鮮烈な印象を残せない暗殺者に、読者は「魅力」を感じるだろうか。また、こういう場面こそ、暗殺者を早めに登場させる意味があるだけの見せ場にもなるわけで、ここできっちり仕事をこなしていない暗殺者は(あるいは作者は)、読者から見ると拍子抜けと感じるし、その後の展開にも期待が持てなくなる。

 実際、このコブラに暗殺者としての「魅力」は最後まで感じられない。ナイフの達人という位置づけも、それが分かるような場面は無く説得力は皆無。プロだということを強調したいがためにとってつけたような陳腐な形容に終わっている。本作のようなスパイもの、インテリジェンスものには「デキる」暗殺者が不可欠だと思うし、ウィンズロウはその期待(というか要請)に十分応えられる力があると思うのだが…。

 そして、教育係の女性と恋に落ちる、というストーリー。この部分が本作のキモとなっているわけでもあるので悩ましいところではあるのだろうが、主人公が教育係の女性と真剣な恋に落ちている時点で「なんだかなぁ」という低評価にならざるを得ない。プロにしては安直過ぎないか?それってプロじゃないでしょ?と言いたくなったとしても決して言い過ぎではないだろう。

 「魅力的な」云々の漠然とした印象を与える形容が多いのも気になる。もっと緻密に紡ぎあげていくべきで、そうでないとこのカテゴリーの作品の雰囲気に馴染まない。もちろん、物語が進むにつれて彼女の過酷な体験が語られたり、その詳細が分かったりするのだが、早い段階から恋に落ちてスタートしており、あとから付け足して言い訳しているような印象も受ける。

 さて、突っ込みどころをやたらと並べ立てているようで恐縮だが、どうしても挙げておきたい違和感の一つが「裸-殺」と名付けられた武術。「裸-殺」について本作中に詳しい説明はあまり無いが、素手で行う必殺の殺人技、というような位置づけになっているようだ。

 これが不自然。

 というのも、これは日本ではなく中国から着想を得たのではないかという印象を受けるからで、ある種の、「勘違いの日本」ではないかと思われるのである。

 基本的な理解として、日本も中国も武術が盛んな国ではあるが、若干の違いもある。その違いが分かっていないのではないか、ということである。わかりやすく言うと、誰かを確実に暗殺しようとする場合、日本では武器を使うのが自然だ。本作で描かれているような素手による殺人テクニックのみで人を暗殺しようとすることは通常無い。あるとしたら、武器が手に入らないとか使えないとか、やむを得ず素手で実行するような場合であって、本作のように武器を選ぶことも出来るであろう状況の中、武器使用を一切検討することなく素手による殺人テクニックのみで実行するというのは、その殺人技に自信があったとしても、極めて不自然である。

 常識で考えてみてもわかると思うが、日本人的な発想で誰かを殺そうとする場合、日本刀や匕首などの武器を使うでしょ、ということ。匕首とか持っていけるのに見向きもしないで柔道の締技で殺しに行くとか、一体どういうプランだよ、という感じ。

 ところが中国について検討してみると、素手による殺人も日本ほど有り得ないわけではない。つまり素手による暗殺にこだわるのは、日本的というより中国的なものに近い。そのあたりを混同して、あるいはあまり区別せずにひとくくりに捉えて、必殺の殺人技なるものを作り上げてしまったのではないか、と感じるのである。

 また、秘密作戦実行中に重要なプレイヤーと連絡が取れなくなり、作戦を中止するかどうか悩む場面があるが、ここでもプロとは思えない判断が行われる。なぜ、「大丈夫だ」とか「問題ないはずだ」というような根拠の無い楽観主義が出てくるのか、全く理解できない。このような現実的に有り得ない描き方をしているスパイ小説は、荒唐無稽に見えるだけだ。

 本作は、中盤あたりから展開がインテリジェンス小説らしく熱を帯びてくる。なので、まったく見どころが無いとまでは言わないが、上述したように作品のキモとなる部分その他に違和感や不自然さがあり過ぎ、非常に残念な作品である。ウィンズロウ作品という観点でも、「犬の力」や「ザ・カルテル」のような小説とは別ジャンルの作品、と言い訳しても言い訳にならないだろう。

 以上、思いのほか長文になってしまったが、突っ込みどころ満載というか、あれこれ言わずにはいられない気持ちにさせる作品である。

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