「新・平家物語(二)」(講談社、吉川英治文庫)

 第二巻は、かの有名な保元の乱である。

 保元の乱は、公家の内部抗争に端を発し、朝廷と武家がそれぞれ後白河天皇側と崇徳上皇側に分かれて武力衝突に至った1156年の出来事である。

 後白河天皇側の主な人物は、関白藤原忠通、信西入道、平清盛、源義朝(頼朝の父)などであり、対する崇徳上皇側は、左大臣藤原頼長(忠通の弟。兄弟仲は険悪)、平忠正(清盛の叔父)、源為義(義朝の父)と義朝以外の息子たち、などである。

 一見してわかる通り、親子兄弟が敵味方に分かれて争った戦いである。この戦いで崇徳上皇側が敗北し、崇徳上皇は讃岐に流されることになった。この乱では公家が武家を頼る形となり、武家勢力の存在感が一層増すことになった。

 さて本作。清盛の父忠盛は、保元の乱が勃発する数年前にすでに他界していた。清盛が義朝に出会うきっかけとなったのは、佐藤義清、後に出家して西行と名乗ることになる、彼の紹介である。この清盛と義朝の二人は言わずと知れた平家と源家それぞれの棟梁だが、保元の乱では同じ後白河天皇側に立って参戦することになる。

 さて、ここに一人、豪快な人物がいる。義朝の弟だが、父為義と共に崇徳上皇側についた鎮西八郎為朝だ。若いながらも合戦慣れした彼の献策は、残念ながら左大臣頼長によって一笑に付されてしまう。相手方がこの策を先んじて仕掛けてきたため、頼長は慌てて為朝を呼び戻すが、怒った為朝は叙位昇官も蹴って去ってしまう。頭にいただく人物を誤ると、陣営そのものが瓦解するというわかりやすい事例である。

 なお、倒した敵兵の首級(みしるし)を上げる風習は、前九年・後三年の役を通して陸奥(みちのく)で戦った兵たちが、敵の風習を持ち帰ったものだと言われているそうだ。

 少々話はそれるが、かつて白人が北米を「発見」し、進出した頃、アメリカ先住民は白人の頭の皮をはぐと恐れられたりしていた。ところが実際は、頭の皮をはぐのは白人がアメリカ先住民に対して行ったのが最初だったという説がある。戦いにおいて死んだ者は敵方であっても敬意を払っていたアメリカ先住民は、一部のサディスティックな白人たちが殺した先住民の頭の皮をはぐ行為を知り、衝撃を受けた。なぜこのような、死者を冒涜するような行為を行うのか、と。以降、アメリカ先住民は報復として白人に対して頭の皮をはぐという行為を行うようになったという。これを見た白人たちは、頭の皮をはぐのはアメリカ先住民特有の「野蛮な行為だ」として、白人の側がアメリカ先住民を非難する。これが事実なら、なんと皮肉で悲しい構図なのだろうか。

 話を保元の乱に戻すと、戦は崇徳上皇側の負けである。

 清盛の叔父忠正は、崇徳上皇側に加担して破れた後、すでに義絶したはずの清盛を頼って身を寄せるが、やがて処断と決まる。一方の義朝も、清盛が叔父に対してしたのと同様のことを求められていた。つまり、義朝の父・為義の首を差し出すことである。義朝に匿われていた為義だったが、最後まで、義朝に胸を割って話してもらえなかったことを残念に思いつつ、首を差し出す。

 讃岐に流された崇徳上皇は、魔道に生きてこの世の恨みを晴らすことを誓いつつ世を去る。こうして保元の乱は終わったのである。

 ところが戦の後、信西入道の恐怖政治の時代を迎える。崇徳上皇側で戦った100名近い者の斬首は、後の禍根を残す。多くの敵を作り、新たな報復の火種となっていく。

 ここに一人の商人がある。あだ名は朱鼻(あけはな)。彼は公家人脈から情報を得て、保元の乱と同様な戦の勃発がもはや間もないと見るや、どちらが勝ってもいいように、対立する陣営の双方に賭けるという、いわゆる「死の商人」ばりの抜け目なさを発揮する。

 謀議を重ねた反信西勢力は、藤原信頼を中心に源義朝も加わり、清盛が熊野詣のため京を離れた間隙を縫って行動を開始。保元の乱と異なり、謀反であり、クーデターと言える。後白河上皇は幽閉され、信西は逃亡するも捕まって斬首。

 ところがクーデター側の主要人物は、盟主信頼から早々に離反し始め、清盛側と内通。幽閉されていた上皇は勝手に別所へ移されてしまう。

 情勢は転々。勢いを得た清盛は、嫡子・重盛を総大将として信頼・義朝の討伐へ向かわせる。迎え撃つは、義朝の嫡子・悪源太義平。源平の嫡子同士の白兵戦。この時代の醍醐味でもある騎馬による一騎打ちである。

 最後は、信頼に反感を持つ内部の者が呼応して信頼を追放。クーデター側は内部から崩壊したようである。保元の乱の時の悪左府頼長ごとく、信頼は追われる身となった。

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