ぼくは何者だったのか考えてみた⑩

このシリーズ、久々に。

大学入って2年も3年も
うだつが上がらないまま過ごしてしまいました。
今となっては後悔しないまでも反省はしている。

学校に通っている人は、
その限られた時間だけでも、その与えられた環境の中では、
せめて有意義に過ごす工夫や
周りの環境に惑わされない方法も編み出しながら
「卒業」はする努力くらいはした方が良いね。

中退したこと自体、後悔はしていませんが、
たかだか4年間、
決められたルーティンもこなせなかったことを、
反省はするくらい、
人生での「時間の使い方」は学べたはずだからね。

中途半端な大学生活なりに
ぼくなりに学んだことがあるので、
それは活きていますが。

さ、前置きが長くなりました。

その大学生活、いや、バイト暮らしの日々ですが、
夜は当時の日本衛星放送(JSB)、つまりWOWOW。
昼は当時のぴあ、
いまのe+との提携に発展することになるエンタメ雑誌。
そこで「音楽業界の入口」を探していました。
ずっと。

こないだも書いたけど、
バイト自体のエピソードも面白かったので、
それはまた改めますが…
簡単に言うと、
WOWOWもぴあもエンタメが総合的に集まっていて、
そこで目立った活躍(バイトだけど)をすれば
「音楽業界」の偉い人に拾ってもらえるもんだと…
思い込んでいたイタイ自分がいました。

ところが待てど暮らせど
そんなビッグチャンスは訪れる気配がナイ。

当たり前。いま考えれば、わかります。
だけど、当時は「なんでだろう?」←大学同期 と。

ところが、ある日。
前回だったかな、書いておいた「運命を変える日」を境に、
明け方のWOWOWに届く「新聞」をよく読むようになるんだ。
何故新聞なのかは、これまた別の機会に。
この「新聞」まぁ朝刊だよね。
これが決定的な行動を起こすきっかけになっていく。

ぴあのメン募(はみだし)でバンドを結成したぼくは、
元々紙媒体の情報には一定の信頼があって、
根拠は無いんだけど、
いまのネットに散らばってる情報よりは、ね。

その朝刊の「求人情報」欄に、
まさかの記事と名前を発見する。

『北島健二』『松本孝弘』を輩出した音楽原盤制作会社。
一緒に音楽作りましょう、みたいな。

え??
えぇーっ!?

大学にもロクに通わず、好きだったバンド活動もママならない、
自信過剰で、努力の方向も間違えてばかりの、
ぼくが…
憧れているギタリストの名前が2人も…?

音楽原盤…?制作?会社…。。。

当時は、事務所かレコード会社しかわからなかった。
なんだろう。音楽原盤制作って。

当時、既に大学3年に上がるか上がらないかのタイミング。
しかも単位落として、2年までに終わっているはずの、
教育課程的な、何て言うの?学科の。
まぁそういう単位を落としていたので、
簡単に言うと進級は出来るけど、
卒業に必要な単位が足りないため、
後々起こるであろう、
延長戦というかロスタイムというか、(つまり留年)
が思いやられる時期だった。

そんな自分的デリケートな時期に、
しかも日芸って中退者の方が
出世しているみたいな都市伝説まであって、
俄然その気になってしまったイタイぼくは…
その日の朝刊から求人情報の囲み記事を切り抜いて、
バイト明けで向かう次のバイト先までの道すがら、
「履歴書」を買って「証明写真」撮って。

ぴあ、のデスクにつくや否や(as soon as、~するや否や)
履歴書を仕上げて、その日の昼休みに投函しちゃうわけです。

北島さん松本さんは、ご存知日本を代表するロックギタリスト。
その方々が所属されていた音楽原盤制作会社。
それが「ビーイング」という名前と知ったのは、
応募書類を揃えている段階で初めてきちんと意識した次第。

この時点では、この会社が、
後に音楽業界を席捲する時代が来るとはまだ考えられなくて、
ただただ、自分が大好きだった憧れのギタリストが居る会社、
という認識だったんだよね。

1992年2月14日。
この日に運命を変える出来事があってから、
生き方、つまり人生との向き合い方だよね。
何をしたいのか、誰と過ごしたいのか、どうなりたいのか。
自分なりに考えるようになる。

その結果が、
大学に残るのか、音楽に関わる仕事をするのか、それとも…?
みたいな葛藤を家族やお金や周辺環境の問題とも重なって、
弱いアタマで必死に知恵を絞ってさ。
「なりたい自分」って何なのか、考えたよ。考えたんだよね。

でね。やっぱり、大学辞めよう、と。

高い学費を払っていても
思うように学べない授業や実習の順番待ちをするより、
バイト先では厳しくも現場仕事を教えてもらって、
少なくないバイト代をいただいていたことから、
だったら…もう一刻も早く音楽の現場に入って、
仕事を覚えて、いつか大きな仕事に関われるようになりたい、
って。

もちろん、この時点ではまだ
求人情報に対して応募しただけなんだけど。

もう「夢」が大きくなっちゃって。
受かるかどうかもわからないのにね。

ところが、
本当に受かるかどうかわからない時期が長らく続くことになるんだ。

大学を辞めて会社に入る時期っていうのは、
履歴書見ればわかるわけで。

それがネックだったのかどうかわからないんだけど、
書類審査が通過したって連絡が来て、
飛んで喜んでいたにも関わらず、二次面接の連絡が来ない。

2月に応募して、
1ヵ月くらい経った頃に書類審査通過だったのかな。

でもね…面接の連絡が来ない。
なかなか来ない。

4月を超えて
大学も留年前提(5年目あることがほぼ確定)の進級で、
幻の大学3年生を迎えちゃうし。

学校には相変わらず行かずに、バイト先で悶々とする日々が続く。
二次試験の面接に呼ばれた頃は、
確か…大型連休明けくらいじゃなかったなかぁ。
(この記憶は定かではありませんが。。。)

大学は大学で、専門課程を選ばなきゃならなくて、
気乗りしないままに「技術」を専攻してみたり。
放送技術が中心で、カメラだったりラジオだったり、ね。
その基礎を学ぶわけ。
もうWOWOWで実践しているんだけどね。。。

そうこうしているうちに、
面接を重ねる時期が訪れます。
その数、結果、7回…。

5月から7月末まで、約2ヵ月ちょっと。
音楽会社にもいろんなセクションがあるんだなぁ、って思いました。
あまりにも無知な自分…。

いまにして思えば、
ディレクター、エンジニア、プロモーター、など
制作から技術から宣伝まで
いろんな職種の適正を見るのに時間が掛かっていたんだろうと思います。

結果的にぼくは、
演奏も出来ない、楽譜も読めない、宣伝もわかっていない…。
音楽の会社で仕事するには、
その適正に欠ける人間だということを自覚せざるを得ないことを
思い知らされる辛い期間でした。

ところが6回目の面接で、当時の会社のトップNさんに、
「お前の話を聞いてると、なんか“映像”っぽい」という
まさかのお言葉を頂くことになります。

その一言がNさんの思考を決定付けたようで…

「よしわかった。
 映像の担当プロデューサーを紹介するので、
 会いに行きなさい。」

???
映像の?
(よく考えりゃ本人の思惑とは別に、
 言われてみれば大学が日芸の放送学科だからねぇ…。
 先様からしてみれば、映像志向と思われた可能性も。)

音楽会社に入りたいんですけど…。

いや驚きました。
この時はまったくわかっていませんでした。

音楽にはプロモーションビデオ(今で言うMV)が必要だった。
そういえば、そうだった!
MTV!!

あれにもめちゃくちゃ憧れていたじゃん、自分。

そして、きちんと理解したわけではないのだけれど、
納得して紹介された映像担当プロデューサーのTさんにお会いする。

ついに7回目の面接。
「きみは何がしたいの?」
「音楽を作りたいと考えています!」
「それは音楽制作をしたいということ?」
「はい!」
「じゃあさ、しばらくうちで映像編集の仕事してみない?」
「?」
「いや、入口は狭いかもしれないけど、中に入れば大部屋だから。」
「??」
「10年も続けていたら、やりたいことは全部出来るようになるから。」
「???」
「じゃ、まずは編集のアシスタントからね。いつから来られる?」
「!!!!」

という流れで。
いきなり就職先が決まりました。。。

1992年の夏でした。

まだ大学、辞めてもいない時期。
しかし、もう決まったわけだし、迷いはありません。

教務課にも両親にも仲間にも何も言わず相談もせず、
音楽原盤制作会社の映像セクションに。

こんなにドキドキワクワクしたのは、
後にも先にも、この当時はありませんでした。

夢にまで見た音楽業界の入口に立てた気がしたものです。

(映像だけど)

しかし、この入口が、本当の意味で入口だったことを
知っていくことに。
そして変わらない「音楽原盤」の在り方と、
変化し続けていく「音楽業界」についても、
真の意味で学ばせてもらうことに。

10回に渡ってようやく、入口だね。。。

この入口から入って、既に28年。
入口を間違えていたらこんなに長く、この仕事は続けていなかった。
いまでもあの日行動を起こして、よかったと思っているし、
最初に拾ってくださった会社に感謝しています。

このシリーズは今後系統立てて、形を変えて続けていきます。
いよいよ音楽業界で関わってきた仕事から、
自分なりの仕事に向き合う姿勢や
考え方が確立していく過程をまとめていけたら。

音楽業界の仕事やアーティストの関わり方、裏話などに、
興味ある方は、是非、フォローしてみてくださいね。

音楽業界はもちろん、
時代としても刺激的で面白かった90年代のエピソード、
また書きます。
ここまで読んでくださって、ありがとう。
ではまた。


記事を気に入ってくださったら是非サポートをお願いいたします。クリエイターとしての活動、及び後進の育成などに活かしたいと考えております。またサポート頂いた方にはお礼の個別メッセもお届けいたします。長年活動してきたエンタメ(音楽・映像)界を中心に企画のknow-howを書き綴ります。