ぼくは何者だったのか考えてみた⑥
大学受験(一度目)を終えて、通うことになったのは…
駿台予備校。(予備学校?)だった。
第一志望は、ゆずれない。
いや、個人的には「第一志望は、無理しない」だった。
無理しないっていうのは、一年目に受験したところは、
本当に行きたい学科ではなかったから。
どうしてか、というと…やりたかったのは「音楽」だったんだけど、
音楽を勉強したことはなく…いわゆる“なんちゃって”だったので、
そんな学校に行けるわけナイって思ってからね。
なので無理はしないで1年ゆっくり考えよう、みたいな。
どう見てもポンコツ予備校生の極みだった。
そもそも専門学校ではなく、なぜ大学だったのか。
これは実家の家庭環境、教育方針が一番の理由だったけれど…
それまでの放蕩息子っぷりが最大限発揮される多感な時期で←
結果、経済学部的なちゃんとした学びの場が肌に合わなかったのだろう。
当時ちゃんと親の言うことを聞いて、
真っ当に学んでいたらこんなことにはならなかったと思う。
その意味での後悔はまったくしていないが。
ただ、かなりの心配心労迷惑を掛けてしまった自覚はある…。
そんな負い目を感じながらの浪人生活は、
親の心配を他所に非常に楽しく充実した時期となっていく。
困ったことは、その予備校に旧友と言えば聞こえは良いが、
まぁ悪友、なんだろうなぁ。
14歳の頃に学習塾に通っていたことがあって
そこで出会っていた他校の友人にまたばったり会ってしまうんだ。
彼(ドラマー)とは高校時代の
「SMILE COMPANY」後に組んだバンドでも
少しだけ一緒に音を出したことがある。
彼は当時「爆風スランプ」が大好きだった記憶があるな。
この彼とものちに、運命的な3度目の再会を果たすことになる。
そして、
予備校に通いながらもぼくの音楽好きはますますエスカレートしていて、
その悪友から教えてもらったのは、「キースジャレット」だ。
今度は、ジャズ、だ。
しかしここで新たなジャンルをどんどん知ることになっていく。
中学時代は、フォークとハードロック、ヘビーメタル。
高校時代に、日本の良質なポップスからシンセサイザーを知り、
MTVでブラックミュージックをはじめ、世界で売れている音楽に触れる。
さらに予備校でジャズを。
しかし、幼少の頃のピアノレッスンの悪影響なのか、
ジャズというジャンルが大人過ぎたのか、
当時のぼくはキースジャレットのライブ盤で熱狂するものの、
スタジオ盤はあまり深く聴くことは無かったようだ。
ただ、この時期に自身の音楽性が“雑食”というか、
好みが定まっているわけではないことを、なんとなく感じてはいた。
これが将来、大きな武器となることはまだ予備校生のぼくは知らなかった。
それでね。その雑食ぶりが驚くほど発揮される出来事が、起こる。
先に挙げた悪友と知り合ったあと、別のバンドやってた時期に、
「気分は名探偵」というドラマからデビューした
「佐野量子」さんというアイドルがいました。
突然でしょ?急に。
その「佐野量子」さんが歌手デビューしていて、
アイドル的な人気を博していた頃です。
どういう経緯だったか定かでは無いのだけれど、
当時RCAからレコードデビューした彼女を応援するチームと出会っていた。
どこで会ったんだろう。誰かの紹介だったのかな。
あっ!思い出した。ここまで書いて。
駿台だ。
予備校の同級生?あれ、なんていうんだろう。
つまり同じ時期に同じ教室に居たヤツとなんとなく話すようになったんだ。
カメヤマくんって言ったかな。彼がキッカケだ。
いまはもう彼とは交流は全くないし実はその1年後には決裂しちゃうんだ。
理由は、ぼくの大学合格。
そういえば、最初の受験ではまったく知らなかったんだけど、
“芸術系”の大学、
つまり専門学校ではなく4年制でもそういう学部があることを
教えてくれたのがカメヤマくんだった。
彼が教えてくれたのが「日本大学芸術学部」だったんだ。
話が逸れた。
そのカメヤマくんが応援しているのが「佐野量子」さんだった。
ぼくは「気分は名探偵」のドラマが好きでなんとなく見ていた。
その中で同じ世代のふわふわした印象の女の子に惹かれていて、
それでカメヤマくんと気が合ったんだよね。
そしたら、一緒にコンサートに行こうだの、仲間がいるんだだの、
ヤケに誘われるわけ。
それでだ。思い出した。RCAでデビューしたばかりの彼女のファンクラブ。
ぼくは、早期に入っていた!
何がドラマで見掛けてちょっと惹かれた、だ。
思いっきりファンクラブ入ってたじゃん。。。
ええカッコしぃがこういうところに出てくる。悪いクセだ。
そうだよ、かなり好きだったよ。
なので喜んでその仲間たちの会合に参加していった。
おいおい、キースジャレットは?TMは?ロックバンドは?
そう。予備校時代、こっそりアイドルの応援を本格化させることに。
その応援というのが、またすごくてさ。
カメヤマくんの仲間は、バイク乗りで仮面ライダーに憧れているヤツ、
ヤケに威勢と景気の良いテレビ業界に出入りしているヤツ、
年上で一流会社に勤めている機材オタクで生粋のアイドル好きなヤツ。
まぁ揃いも揃ってアクの強い仲間たちだこと。という印象。
そんなアイドル好きの仲間たちは、その強烈なキャラのみならず、
行動力とアイディアに溢れるナイスガイたちだったんだよ。驚いたよ。
なんと以前書いた1985年、
ぼくにとってのエポックメイキングな年だと言っていた時期。
この時期にデビューした「佐野量子」は、
秋元康、水谷公生、松尾一彦、今泉敏郎など
錚々たる作家陣に楽曲提供を受けている。
アイドルソング、とは言え、楽曲のクオリティーは素晴らしく、
実は彼女のルックスやキャラクターはもちろんだが、
音楽の要素に強く惹かれたというのも事実。
そんな話を当時の仲間と話していたら、なんと。
電リクに参加しないか、と誘われた。
電リク、若い世代は知らないよね。電話で楽曲のリクエストをするんだよ。
ラジオとか有線とかに。
当時は日曜の午後にリクエスト受け付ける番組があって、
その放送の度に事務所やレコード会社の会議室に集まってさ。
みんなで電話かけまくるの。
で、その電リク大会に参加しろ、と。
わぁ、なんだか楽しそうじゃん。ギョーカイっぽいじゃん。違うけど。
そんな楽しそうなお誘い、断る理由がナイよね。
だって予備校生なんだもん。時間あるし。
しかし、予備校時代はまた、随分と楽し気にワイワイやってそうだな。
で、みんなでワイワイ電リクから、コンサートから、参加していたら、
仲間たちがTシャツ作ろうよ、って言いだすんだ。
そう、応援用のお揃いの。
いやぁ、柄じゃないなぁ。親衛隊のつもりで参加してるわけじゃないし。
なんてちょっと渋っていたら、まさかの情報が、
当時彼女の所属事務所は、浅井企画。
そのマネージャーはぼくたちの活動を公認してくれていて、
なんだろう、事務所公認の応援団?バックアップパーティーみたいな?
いわゆる今でいうところのサポーターとしてかわいがってくれていたんだ。
その事務所の社長が今は亡き、浅井良ニ社長。
愛称はコサキンさんの番組でも呼ばれていた「ぺんてる」ちゃん。
その社長や、スタッフの方々にもかわいがって頂いたことから、
我々サポーターのチーム名として
「ぺんてる」を名乗ってもOKという許諾を頂くことになる。
驚いたよねー。なんかファンクラブとは別に特別感のあるチームだった。
で、Tシャツ作る話。
そのTシャツの話も、
TVの仕事をしていた威勢と景気のいいヤツがどこでどうまとめたのか、
佐野さん御本人がイラスト描いてサインを入れてくださる、と。
メッセージを添えて。
なぬ!?となるわ、そりゃ。
この経験はね、
少し前にFANKS男組で「SMILE COMPANY」メンバーが
小室さんに近くなって行ったことと、似ているようで似ていない。
似ていないんだけど、
いわゆる芸能界に近い場所に居られる幸せみたいなことを
感じていたことは間違いない。
実際、この時期に浅井企画のスタッフの方や役付の偉い方、
「関根勤」さんにもお会いする機会まで頂くことになり、
そのご縁がまた数年後、そして今に繋がるミラクルの種になる。
「ぺんてる」というバックアップパーティーは、同人誌まで立ち上げて、
ぼくはそこで「音楽ページ」を担当することになる。
そこが、大きな転換期。
佐野さんの応援をするための同人誌のはずが、
個人的な音楽の嗜好を書き出すんだよ。空気読め、自分。
その活動を始めたことで、
ちゃんと「音楽」を思い出すんだ。
面白いもんだよね。
続く。
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