本当にやりたいことが分からない
小中高生時代から、大学受験、就職を経て何度も問いかけてきた
自分は何がしたい?
この問いに、二十数年経った今でも応えることが出来ない。
好きなことは思い浮かぶし、その時々でのやりたいことは出てくる。例えば、映画観たい、旅行したい、など。
でも、私が求めてるやりたいことってそういうことじゃない。
何かを熱心にすることをやりたいと思っているけれど、自分にとってのそれが何なのか未だに分からない。
私は本が好きだ。でも、読むのが好きなのか、書くのが好きなのか、そもそも登場人物の生き様を見たいのか。何が好きなのかさえ分からない。
イラストを描くのが好きだけれど、最近はイラストを描くために描きたいものを探すことの方が多くなった。普通は逆な気がする。描きたいものが存在しているから描くのではないだろうか。順序が逆である気がしてならない。そもそも、イラストを描くことの何が好きだったのか分からなくなってきた。
好きなことが曖昧になってしまった今、やりたいことは何だろう。
おもえば小学生くらいの頃の方がやりたいことに素直だった気がする。大人たちはそれを”子どもの夢だ”として応援してくれようとするし。
けれど、年齢を重ねるごとに”夢を見るのも大概に”という雰囲気が漂う瞬間がある。偏差値の高い高校へ行き、偏差値の高い、そして名のある大学に行き、名のある会社に勤める。なんだか、それを期待されているような気がしてしまう。
でも紙とペンを渡されて何かを書き出したり、キャンバスに向かっていることの方が私には価値があったように思えてならない。価値は他人から押し付けられるものではない。
本当にやりたいことではないにしても、心が傾いている方はそちらだ。
ただ、今の自分を否定する気にもなれない。この道でなければこうした葛藤もすることが無かったかもしれないし、選ばなかった道に対して希望を抱いてしまうのも人間のさがだと思うから。
世の中は私一人では成り立たない。先ほどの話にもどれば、紙とペンをもらうには自分で金を稼がなくてはならないし、それこそ夢ばかり見ていても見たい現実にはたどり着くことが出来ない。
しかし本当にやりたいことの声が小さくなりすぎるのも問題だ。私はその声をあまりにも無視しすぎた。その報いがたった今来ているだけなのだろう。
最近は率直な自分の意見を育てることを大切にするようにしている。けれどまだ手取り足取り、おぼつかない様子で自由に歩けもしない。
相手の顔がくもるのが心苦しいという自分の弱さで、何度も失敗している。
本当にやりたいことの声が鮮明になるまで、自分の声を聴き続ける努力を忘れないようにしたい。
その気持ちを忘れないようにもしたい。
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