「お約束」のない世界におけるアート――「biscuit gallery group exhibition 『re』」についての雑感
「biscuit gallery group exhibition 『re』」で、菊地匠さん(以下敬称略)の作品を見た。
biscuit galleryの階段を3階まで上ると、正面に大きな窓のある展示室になっており、菊地の作品は入って右手の壁に沿って配置されている。
まず窓側、「オブジェ1」から鑑賞を始めた。透明度の低いプラスチックの箱が壁に掛けられ、その中にたわんだ形でレンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」のプリントが収められているというものだ。「テュルプ博士の解剖学講義」の人物の顔は半透明なボックスに遮られて判然とせず、解剖されている死体だけをはっきりと見て取ることができる。
その後いくつかの作品を見たが、ここでは「解剖学」と題され、明らかに「テュルプ博士の解剖学講義」を参照している作品について述べたい。
図3中、向かって左が「解剖学」である。死体が向かって左奥から右手前に横たわっており、その奥にメインとなる人物が立っているという構図が「テュルプ博士の解剖学講義」と共通している。
ここで私は「死体」と書いたが、この横たわっている人物が死んでいることは、「オブジェ1」とのオーバーラップによって推察されている。これは決して無理のある意識の流れとは言えないであろう。
さて、そのような前提を持ちつつ「解剖学」を見るとき、立っている人物は泣いているように見えた。頭から始まって身体全体に垂れている顔料、それが涙を想起させたのだ。しかしそれだけが判断材料になっているというわけではないだろう。「死体」の存在、そして人間は(特に親しい人間の)死体を目にしたら泣く、という一般的な認知が私の直観的な印象を支えている。
「人間の本性」ということ
「立っている人物は泣いているのだ」という直観は、おそらく破棄されるべきなのだろう。なぜなら、この作品は「解剖学」と題されており、かつ「テュルプ博士の解剖学講義」が参照されているように、エモーショナルな場面ではないからだ。しかし私はそこに泣いている人物を見た。そのことはどう処理されるべきなのだろうか。
ウィトゲンシュタインは、人間の言語使用について、最終的には「根拠なき行動様式」*1や「人間共通の行動の仕方」*2という概念をもって説明した。人間がなぜ言語的指示に対して一定の反応ができるのかという問題は、「人間の本性」によってしか記述できなかったのである。図像の直観的な解釈においても、似たようなことが述べられるのではないだろうか。すなわち、死体を前にしている人物の顔から液体が垂れていたら、それは泣いているのだという人間に共通の直観的な把握があるのではないだろうか。
「お約束」のない世界におけるアート
キリスト教絵画には、描かれている聖人が誰であるかを示すためのアトリビュートの体系があり、それを解読するために図像学という学問がある。キリスト教絵画は、膨大な「お約束」の体系に支えられていると言えよう。
現代アートは、もちろん共通のコードを参照してはいるが、我々人類はもはやひとつの文化的コードに従ってはいない。いや、人類は一度も共通の文化的コードを共有したことなどなく、それが存在したと思うのは西洋中心主義的な、超近視眼的な幻想であろう。「西洋」が美術の源泉としての文明のすべてであった時代から、西洋以外の地域の存在が可視化されたに過ぎない。
そのような時代において、現代アートは、「人間の本性」に根拠を見出していくのだろうか? あるいは、菊地が「オブジェ1」で試みた(そして成功した)ように、文脈を補う形で鑑賞者とコミュニケーションしていくのだろうか? あるいは、「分かる人には分かる」というあり方を選択していくのだろうか?
*1 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン[著]黒田亘[訳](1975)「確実性の問題」『ウィトゲンシュタイン全集9』p.35、東京:大修館書店。
*2 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン[著]鬼界彰夫[訳](2020)「哲学探究』東京:講談社。