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「日頃の行い」と「運」は関係あるか? 認知バイアス“道徳的な運”

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「日頃の行いと運は関係あるのか?

まだ科学が存在していなかった時代は、道徳と運は強く結びついていました。「悪いことをした人は、いつか罰せられ、良い行いをする人々は、いつか報われる」この考えが、わたしたちの行動に規範を与え、それに則ってわたしたちも行動していました。今でもほとんどこの信念を人々はほぼ無自覚に信じています。わたしたちは、道徳的に行動することを望みます。しかし、この行動を規定していた宗教やスピリチュアルな規範が、実質喪失してしまっているのが現代です。わたしたちの多くは、神の存在を諦めつつあるか、認めていないか、認めているけれども強く頼れないと思っています。なぜかというと科学の恩恵をえてしまっているから。

それでも、「良い行動をすれば報われて、悪い行動をすれば罰せられる」そう思い込みたいし、思い込んでいます。じゃないと道徳の存在意義が、かなりぐらついてしまいます。この問題を取り扱い、ひとつの回答を提示しているのが、バーナード・ウィリアムズ(Bernard Williams)というイギリスの哲学者が提唱した「道徳的な運」という考えです。

道徳的な運 

道徳的な運(Moral Luck)とは

運の良し悪しを、道徳の良し悪しに結びつけて考えてしまう傾向

です。しかし、現実は、日頃の行いに関係なく、運の良し悪しが人々にただの確率で訪れます。嫌な奴が生き延びて、とても良い人が事故で死ぬなんてことが多々あります。観たくないし、知りたくない現実です。が、道徳と運、つまり人々に何が起こるのかということは関係ありません。

行いが良いと運が良いこともある!?

ただし、モラルある生き方のほうが、運が良くなるという考え方もあります。矛盾していますが、この場合の運は、社会のなかにおける良い機会の遭遇率を指しています。最初に述べていた運は、何かが起こる確率で、違いは「社会」です。
人は品性やモラルが高いほうが、良い生きやすくなるという考えは、品性というものの存在意義から考えるとまあまあ納得しやすいところです。エビデンスベースではなりませんが、中野信子さんのこちらの本は、そのあたりなんとなく腹落ちできる内容になっています。


もうひとつ道徳や品性が高いほうが良い理由があって、それはゲーム理論です。わたしたちの人生は、社会のなかに居るならば、その場その場で終わるゲームではなく連続したゲームに参加しているようなものです。誰かを出し抜き、利益を得ても、その評価は社会に下がり、環境は悪化します。

戦略ゲーム大会『繰り返し囚人のジレンマ』で、優勝した戦略は、とてもシンプル。裏切られるまで相手に好意的な選択をし、裏切られたらその直後にやり返すという「しっぺ返し戦略」です。


「自発的な行動と責任」の関係

この「道徳的な運」という考えを生み出したバーナード・ウィリアムズとトーマス・ネゲイルの道徳理論はどういうものだったのかというとすごくシンプルにいうと

「自発的な行動と責任」の関係

に注目したものです。意図して計画して殺した場合の殺人と過失致死の場合では、アメリカでもヨーロッパでも法的に罰則が異なってきます。ここで注目したいのは、行為自体は、どちも殺人ということです。行為そのものは同等なんです。しかしそこに至る動機とプロセスが、罰則に変化をもたらしています。このあたりが、道徳がどのようにわたしたちの生活や法律に影響を及ぼしているのかがわかるところです。しかしこの道徳と責任の考え方にも問題があります。

道徳的な運に関する問題

ここに行動は同じだけれど、心の有り様が異なる二人のドライバーとその結果の関係を想定しています。

ドライバーA:ちょっとした不注意で信号を無視してしまい、小さな子供を轢き殺してしまいました。
ドライバーB:意図して信号を無視するも、誰も横断しておらず、誰も轢かず、しかし交通違反の罰則を受ける。

どうでしょう。わたしたちは、どちらが悪いと考えるでしょう? 意図の問題であるならば、(先の殺人に合わせるなら)ドライバーBのほうが罪は重いはずです。わざと信号無視をしているのだから。しかしドライバーAは幼き命を奪っています。それに注目するなら、ドライバーAのほうが許しがたい。行為そのものは同じです。行為に則って罰するなら二人とも同じ程度の罰にすべきです。しかし交通違反のきっぷを切る程度と幼き命を奪う過失を同等にはわたしたちは扱えません。ここにまあまあ面倒な矛盾が存在してしまっているんです。ちなみに二人の結果の差は、だけなんです。

対策

日頃の行いと運は関係ないというシニカルな事実の獲得よりも重要な知見が、この認知バイアスから得ることができます。それは「モラルというシステムにばっちり欠陥がある」というものです。宗教、道徳、品性、それらがどこから生まれ、何を目指して「作られたのか」。それについて考えやすくなり、そして思い込みに左右されなくて良い思想があります。これが、道徳的な運(Moral Luck)の欠陥からフリーになる方法でもあります。それは、

損得で考える

です。損得で考える。すると誰が得しているのか?よく見えてきます。たとえば貞淑というモラルですが、これ家庭を離れることがあり、能力的に自信があるわけでもない男性が得するものです。妻が他の男性と子どもを作ってしまう可能性を減らすために考案したモラルです。


応用

道徳(言い換えるなら、「正義」という言葉)は、人を動かすときに使う

すでに国家的な発言やプロパガンダでは、これが大いに昔から使われてきています。「正義」という言葉が出てきたら気をつけましょう。国家もまた損得で動いています。(もしくはその失敗で動いています。)


まとめ

いかがでしょうか。わたしたちの道徳というものは、長い年月のあいだ築き上げた社会をうまく機能させるためのシステムです。何千年もののあいだ、その恩恵を得てきたからこそ、依然として生き残っています。それは認知バイアスも同様です。これも人間が獲得したヒューリスティックスです。

必ずしも正しいわけではないけれど、ある程度の精度で正しい答えを得る方法 必ずしも正しいわけではないけれど、ある程度の精度で正しい答えを得る方法

です。わたしたちの勘もこのひとつ。ただ、道徳にも認知バイアスにもバグがあります。そのバグについて知っておくと人生やビジネスにおいてゴールに近づきやすくなります。


関連した認知バイアス

公正世界仮説

利用可能性ヒューリスティック


参照


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