他人と自分を比べてしまう人へ
私は、学生時代、他人と自分を比べてもっと素晴らしい人間(習慣や考え方、社交性、仕事や勉強の出来などなど)にならなくちゃというプレッシャーを自分にかけていました。
それは育った環境なども原因ではあると思います。
学生時代にインスタが流行りだしてた頃だったのでよく見ていて、知人の投稿を見て家でゴロゴロしてる自分と比べちゃうとか・・
インスタ今も流行ってますが、皆自分のキラキラした部分を載せがちなので人と比べちゃう人には悪影響が強いかも・・
ですが、最近は、他人と自分を比べるという考え方をしなくなりました。
インスタを消したのもあると思いますが、他にも思い当たることがあります。
それはなぜだろうと振り返ってみると、形而上学に触れるようになったからかなと気づきました。
形而上学とは世界や存在の原理を自然を超越したものであると説く学問です。
例えば幾何学で有名なピュタゴラスは世界の原理を数としました。
数とは目では見えないもの、概念です。ピュタゴラスはその数という概念を世界の原理と考えたのです。
プラトンという哲学者もイデアという目では見えないものを原理と考えました。
イデアを説明するときによく用いられるのが机です。
一口に机といっても色々な形があると思います。白い机や茶色い机、横に長い机や天板が正方形の机など。
様々な形があるのにどれも同じ”机”という名で呼ぶことができます。
それはなぜでしょうか?
プラトンはその理由を机には机のイデアがあるからだと言います。
プラトンに言わせると、この世にあるあらゆる机はイデア界にある机のイデアを模造したにすぎないということです。
この考え方を最初に知ったときおもしろいなと思ったと同時に何か希望が差した感じがしました。
誰しも一度は完全なものを求めてしまう経験をしたことがあると思います。
何か絵を描いたときにもっときれいに描きたいとか
ゲームをプレイしていて、もっとグラフィックがきれいなゲームがしたいとか
美人な女優さんを見つけたとき、もっときれいな人はいないかと探してみたり・・
それを向上心ととらえても良いのですが、これは際限がない欲望ともいえます。
なぜどこまでいっても満足できないかというと、どこまでいっても完全な絵ではないし、完全なグラフィックのゲームではないし(=完全な現実を再現できない)、完全な美人ではないからです。
これを、現実では完全なものはないけれど、イデア界には、きれいな絵画のイデアや完全なグラフィックゲームのイデア、完き美のイデアがあるんだと考えればどうでしょう。
この世のものに満足できなくてもいい意味で諦めがつくというか、満足できないことに納得感が得られませんか?
つまり、他人と自分を比べるくらいなら、いっそ神やイデアなどの存在を超越したものと現実や自分を比べちゃったほうがいいかもという話でした。
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