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『SWAN SONG』感想

 エロゲ、というかゲーム全般あまりやらないのですが、500円と安かったのでDLsiteで『SWAN SONG』を購入しました。面白かったです。せっかくなので、どう面白かったかをざっと書いておこうと思います。ゲームをやらないため評価の基準がよくわかりませんが、いままでに読んだ小説とかアニメと比較して見ていきます。

 大枠としては、異常な状況にいろんな個性を持った人間を放り込んでどうなるか見ていく、シミュレーションっぽい話でした。『無限のリヴァイアス』やその元ネタの『蠅の王』なんかが近いです。このゲームの場合はリアルなシミュレーションというよりは、かなり極端に個性や思想を誇張したキャラクターを配置した虚構的な実験です。こうしたフィクションでは異常な状況がなぜ起こるのかは割とどうでもよくて、おかれた状況に登場人物がどう反応していくのかが焦点になってきます。

 『SWAN SONG』で描かれる異常な状況は、巨大地震と降り続ける雪によって外界と隔絶された、廃墟と雪の世界です。アンナ・カヴァンの『氷』の世界をぎゅっと小さくした感じですね。隔絶されたというのは文字通りの意味で、地震から一週間、一月経っても、救助どころか通信の一つもありません。それは明らかにただの地震では説明がつかない事態なのですが、さきほども言った通り、なぜそんなことになってしまったのかはこの物語において大して重要ではありません。問題は、そういう状況に彼らがどう対処していくかということです。そこまで極端に外界から隔絶されるということは、国家が暴力を独占することによって叶う既存の秩序の外に置かれるということで、徐々に草の根の暴力による草の根の秩序(あるいは無秩序)が世界を覆っていきます。

 メインの登場人物は6人。事故で腕に障害を抱えるが何もあきらめていない天才ピアニスト、尼子司。自閉症の少女、あろえ。自己を否定し続け、線の細いオタクから独裁者となる鍬形。幼いころ尼子司という才能を目の当たりにし、挫折を経て無気力に陥っている柚香。前向きに明るい雲雀。作中もっともヒロイックな活躍をする田能村。最初は6人で避難先の教会に暮らしていますが、ストーリーが進むともっと大きな集団といっしょに学校で生活するようになります。学校は略奪者との戦い、宗教を信じる別の集団との接触を通して、軍部による独裁に傾いていきます。その後、宗教団体とは少なくなっていく物資となわばりをめぐり、また思想的な差異から、完全な戦争状態に陥ります。学校は戦争に勝利するものの、今度は山の向こうで生活する集団のよこした使者の処遇をめぐって内部の統制を失います。学校は外部との協調を拒否する軍部と、協調を望む民間で分裂して内部で殺し合いをはじめ、すべてが崩壊に向かいます。エログロ思想全部アリで、わりかし下世話な話ですね。

 印象的なシーンは一週目ルートの終盤に集約されています。まず司と鍬形の対決シーン。学校が内部で分裂し殺し合いをする最中、司と鍬形が長広舌でそれぞれの思想をぶつけ合うクライマックスです。ここから先、ずっと問題となるのは「信仰」です。作中の言葉を使うなら「切実な希望を信じて生きること」が近いかもしれません。人間が生きること自体に、その人生の内容を超えた価値を見出すかどうか。くだけた言い方をするなら「生きる意味ってあるの?」くらいの話です。二人の思想的な立ち位置から確認しましょう。司は自分の信じる人間の価値への「信仰」を擁護すべく人類が長い時間をかけて月に行った話を持ち出しますが、鍬形はそんなことには興味がないとうそぶき、生きている間の「幸福」だけを問題にしています。この構図は、司と司の父親の対決から引き写されています。司に「音楽など忘れて愛と幸福に生きろ」と言い放った父親ですが、司には彼こそ女遊びにふけり、どす黒い絶望ををもたらすもの(父親曰く「世界は地獄」です)と戦うことから逃げているように見えます。司が見るところ、父親は負けを認めてみじめな姿をさらしていますが、自殺という最後のカードだけは切っていません。

 一方、鍬形はほとんど生きることをあきらめているように見えます。司も指摘しているように、鍬形は自分が自分に対して抱いているネガティヴなイメージを、そのまま他人が自分に対して抱いているイメージだと決めつける傾向があります。他人への恐怖。自己不信から来る人間不信。鍬形にとって「他者は地獄」です。人間不信の傾向は略奪者との抗争や大智の会との戦争を通して、自分の思考に凝り固まり執拗に外部の集団を滅ぼそうとするパラノイア的な性向として繰り返し描かれています。鍬形は大地震の後に出現した、人間は潜在的脅威なので滅ぼされる前に滅ぼすしかないというホッブズ的な世界観に流されてしまいます。鍬形のそういう自然の傾きに流されやすい傾向は、物語の二週目にあらわれる選択肢でよりわかりやすく描かれます。鍬形の場合、外部の人間だけでなく学校の仲間も信頼していなかったので、すべての人間を滅ぼすまで安心することはなく、すべての人間を滅ぼした後も彼が満たされることはないでしょう。鍬形が望んでいるのは究極的には「自分の人生の外に逃げる」ことです。しかしうまく戦いに勝ち続けて他人を全員滅ぼしたとしても、自分の人生以外なにも残らない地点にしかたどり着けません。自分の人生を嫌悪している人間が自分の人生しかないところに向かうのですから、それは完全に行き止まりです。それは鍬形にとって致命的なはずですが、なぜかそこで「行き止まりだったとしてもそれがなんだ」と言います。どうやら鍬形は自分でもなにをしたいのかもわかっていないらしい(このことは、後で柚香が指摘します)。鍬形は続けて「どうせ最後は行き止まりで死ぬんだから」、つまり人間は誰だって最後はみじめに死ぬんだから、それまでどう生きても同じことだと言い抜けます。典型的なニヒリズムです。しかし『SWAN SONG』の世界においては、そうした使い古されたニヒリズムも多少の説得力があります。なんせ実際に世界は滅びてしまったのです。少数の生き残りは学校で殺し合いの最中です。ここに至って「善く生きる」ことにどれだけの価値があるのでしょう。どうも『SWAN SONG』の荒廃した世界設定は、人間の価値への信仰を試す大がかりな舞台装置として作られているように見えます。司は人間の価値を擁護しますが「人類は長い時間をかけて月に行ったじゃないですか。これは素晴らしいことだと思いませんか」では、反論としては厳しいでしょう。この問答は演者を代えて、物語のラストに続いていきます。

 再び地震がすべてを薙ぎ払い、世界から廃墟すら崩れ去ります。唐突に晴れ渡る空。生き延びた司と柚香は彼らがはじめに暮らしていた教会にたどり着きます。そこで目にするのは、つぎはぎのキリスト像とそれを作り上げた自閉症の少女あろえの死体。あろえは崩れ落ちた教会のがれきに埋もれていました。恋人関係にある司と柚香の思想の差異はこれまでも描かれていましたが、その緊張関係が最大に高まるのがここから一連のシーンです。しゃがみこんですすり泣く柚香。そこには理不尽な不幸をもたらす現実に対する絶望があります。司もその場にしゃがみこんでしまいますが、理由は対照的です。「柚香に誤解させてしまう」と言っている通り、多くの怪我で体の衰弱が限界にきているのです。柚香は言います。

「どうしたらいいんだろう。なにもかもが無意味だって、どうしようもなく虚しいんだって、そんな感じがあふれて止まらないんです。私には生きていることの意味が分からないんです……」

 司の父親が「世界は地獄だ」と言い、鍬形が「他者は地獄だ」と言ったように、柚香もまた世界を「地獄」に近いものとして捉えています。セックスのあとで学校の現状をめぐって柚香と司との意見がすれ違う印象的なシーン(ATTO SECONDO SCENE5)で、この世界について「おかしいな。なんでこんな風になってるんだ、って思ったことありませんか?」と司に問いかけています。「希望を持たないと生きていけない」ような世界のあり方は、なんの希望も持つことができない柚香にとって「地獄」なのです。しかし、司はそうは思いません。司も「希望をもって生きることは苦しい」ことには同意しますが、同時にその生き方には苦しさや幸福とは異なるレイヤーにおいて価値があることを信じています。あろえの死に絶望した柚香が「私は一度も楽しくも幸福になったこともない。そんな人間がまだ生きているのはおかしい」と告白するのに対して、司はこう返します。

「醜くて、愚かでも、誰だって人間は素晴らしいです。幸福じゃなくっても、間違いだらけだとしても、人の一生は素晴らしいです」

 説得力のないきれいごとだと感じる人も多いでしょう。柚香もそうです。司はそんなきれいごとを信じられない柚香に対して「もっと公平に考えれば、思えるようになる」と続けます。このセリフは傲慢ですが、事実です。柚香と鍬形は共通して、「自分は最低な人間だ」というセルフイメージを他人から否定されたときに強く反発します。「あなたは本当のわたしを知らない」という言葉の裏には「わたしのことはわたしが一番よくわかっている」という疑わしい信念が見え隠れします。司が「かたくな」と表現するそうした態度は、歪んでいて物事を公平に考えられていないと指摘されても仕方のないものです。柚香は自身を卑下しますが、客観的にみればそれほど悪いことはしていません。打算的で外面がいいくらいのことで「生きている価値がない」と思い悩むのはバカげています。柚香は教会や避難所で献身的に働きました。あろえの死に際して心を痛めるだけの善良さがあります。

 では、柚香が自身のもっとも大きな欠陥としてとらえている、無気力状態、内面の空虚さについてはどうでしょう。

 柚香の挫折について振り返りましょう。以下は柚香の一人称による語りから得られる情報です。柚香が小学生のとき、心臓に重い疾患があることが発覚し、ピアノの道をあきらめざるを得なくなります。柚香はわがままを言って、最後のコンクールに臨みますが、そのとき柚香の気持ちは高揚しています。柚香は心臓病を恐れていない。自分の心臓が止まって死ぬことなんて怖くない。自分が最高に輝く舞台であるコンクールの最中に死ねるなら、それはとてもドラマチックで素晴らしいことだと思っている。悲劇のヒロインを気取っているのです。しかしその思い上がりは、司の圧倒的な演奏によって打ち砕かれます。柚香は自らの非才を感じ、絶望した。これが柚香の認識です。

 しかし実のところ、柚香は司の演奏を聴く前から絶望の最中にいるのです。これは先ほども印象的なシーンとして挙げた(ATTO SECONDO SCENE 5)の会話を追っていくと明らかになります。柚香は避難所で暮らしている人たちが、じたばたと無意味に苦しんでいるように見えて「あがくことをやめてしまえば楽になるのに」と言いますが、司はそれを「絶望の思想だ」と指摘します。どうしたって「希望をもって生きることは苦しい」のです。柚香は司に指摘されるまで、自信の考えが絶望の思想であることに気づきませんでした。

 コンクールに臨む柚香は心臓の病をまったく恐れていない。自分が死ぬことをよいことだとすら思っているのです。これは明らかに「あがくことをやめて楽になっている」状態で「希望をもって生きること」の真逆です。柚香はすでに絶望している。ここに変化をもたらすのが司のピアノです。柚香は圧倒的才能を前に自分が凡人であると感じ、急に死ぬのが怖くなります。柚香の認識では己の才能に絶望したということなのですが、作中の議論を追うと、むしろ絶望から抜け出しかけていると見ることができます。しかし柚香はこの後、挫折から立ち直れず心を閉ざします。なにも感じなくなり、自分の心臓病についても怖いと思わなくなる。言葉を素直に受け取ると柚香はまた絶望してしまったと取れますが、柚香の病との向き合い方を考慮すると、単純には決めつけられません。柚香は発作を起こしたとき、適切に服薬しています。柚香の内面を無視して行動だけ見れば、柚香はちゃんと生きるために前を向いています。つまり、司が言う通り「もっと公平に考えれば」、自分を責めるばかりでなく、よいところを素直に受け入れる視点を持てば柚香の問題はだいたい解消するのです。もちろん「もっと公平に考えなさい」と言われて「はい、そうします」となる人はいないんですが。

 柚香の公平でない考えを正す力が、司の言葉にはありません。教会のがれきの下にあろえが死んでいます。あろえから見る世界に善悪の概念はなく、よって彼女にいかなる罪もありません。この世界では、どんな罪を背負っていない存在であろうとも、最後にはみじめに死ぬ。鍬形が言っていた通りのように見えます。では、司の持つ人間の価値への信仰は空虚な妄想にすぎないのでしょうか?

 ここで、あろえについて触れておきましょう。あろえは自閉症の少女で、他者とのコミュニケーションに大きな困難を抱えています。語彙は非常に少なく、口を開けばもっぱら相手の発言をおうむ返しにしますが、それは聞こえる音のパターンを模倣しているだけで、言葉の意味を理解しているわけではありません。あろえは規則性に固執します。それは毎日の習慣であったり、厳密に等間隔の碁石の並びであったり、砕けたキリスト像の断片を元通りにつなぎ合わせることであったりします。雲雀は作中で、あろえがなぜ規則性を好むのかについて、一つの解釈を与えています。その解釈によれば、あろえはには「ナカマ」という考え方が欠けていて、だから世界に意味のある像を結ぶことができないのです。例を挙げると、「ソファー」と「ベンチ」は両方「座るもの」というラベルのついた「イス」の「ナカマ」です。しかしあろえはそうやって、モノや概念にラベルを貼って整理することができません。あろえには「ナカマ」という考え方がないのです。あろえにとって、世界はバラバラの事物がなんの関連もなく放り出された、ひどく混乱したものに見えているでしょう。あろえは規則性を好むのは、混乱した世界にあろえにも理解できる秩序を与える行為なのではないか、というのが雲雀の見方です。あろえに「ナカマ」の概念はありませんが、目に見える図形的なパターンならば他と違うものとして認識することができます。あろえが規則性を求めるのは、混乱した世界に抗い、懸命に戦っているからなのです。

 さて、こうした解釈を導入したとき、あろえの遺したつぎはぎのキリスト像はいかなる意味を持つでしょうか? 続くシーンを見れば、それが明らかになります。司はあろえが修復したキリスト像をこの教会に立てることを提案します。倒れた十字架を立て直して、そこにキリスト像を括りつけるのです。しかし、柚香はその行為は無意味だと否定します。そんなことをしてもあろえは生き返りません。生前のあろえも別に像を立てることを望んでいなかったはずですし、立てたところで見る人はいないのですから、柚香が無意味だと言うのはもっともです。そこで司はこんなことを言います。

「見てくださいよ、この像を。あちこち歪んでますよね。なんだか不気味でさえあります。でも僕、これは好きだな」

 なぜなら、それは司の友人のあろえが手ずから作り上げた像だからです。司が伝えようとしたことは、ここまで話を見届けたプレイヤーにとっては明白です。司がつぎはぎのキリスト像に向けるまなざしは、そのまま柚香に向けるまなざしです。またあろえや鍬形に向けるまなざしでもあります。柚香にも司がキリスト像を通じてなにが言いたいのかは、理解できたはずです。しかし心の底から納得しているわけではない。司の信じる人間の価値を、柚香も共有するところまではたどり着いていないのです。司もそのことはわかっていますが、今はそれで十分だと笑います。

 司は死につつある体をなんとか動かし、柚香と協力してあろえの遺したキリスト像を立てようとします。ゲームの演出では、ここからテキストがオートで表示されるようになり、『SWAN SONG』のテーマ曲が流れます。

「柚香はこんな行為に意味はないといったけれど、ぼくはそんな風にはちっとも思わない。これは絶対やらなくてはいけないことだ。あろえは何も気にしない。何も求めない。そんなことはわかってる。でも、そんなことを言っているわけじゃないんだ。神の子なんか関係ない。これは、いまはもういない僕の友達がその小さな両手で丹念に一つ一つ組み上げた手あかのついた石のかたまりだ。ぼくは誇らしくて仕方がない。絶対に立ててやる。そしてこのまぶしすぎる太陽に見せつけてやるんだ。ぼくたちは決して負けたりしないって」

 くだかれたキリスト像(信仰のシンボル)を再びつなぎ合わせたいびつな物体に、司は美しさを見出します。事故でピアノを失った司は、それでもピアノにしがみついて生きてきました。いつか自分のピアノに事故以前にはなかった美しさすらも付け加えられるかもしれないと信じて。この構造の相似によって、司はあろえの人生を祝福すると同時に自らの人生をも祝福します。困難に抗って生きる人間の尊さをつぎはぎのキリスト像という象徴に託して高らかに打ち立てる。すばらしいシーンです。司はこれまで言葉で信仰を表現してきましたが、それは鍬形や柚香が指摘するように薄っぺらいきれいごとにも見えました。しかしこの行動はどうでしょう。多くのプレイヤーはこれを見て、ここまでこのゲームをプレイしてきてよかったと思えたはずです。ぼくもそうでした。「ぼくたちは決して負けたりしない」という最後のセリフは『老人と海』の一節を彷彿とさせます。「人間は負けるように造られていない」……サンチャゴが仕留めた巨大なカジキは帰り道でサメに奪い去られ、徒労に終わるわけですが、しかし『老人と海』を読んでサンチャゴとカジキの格闘になんの意味もなかったと考える人は少ないでしょう。同じように、すでに死んだあろえや、いままさに死につつある司の生涯になんの意味もなかったと思える人は多くないはずです。その一生が徒労に終わったとしても、そこになにか意味があったと信じる。ぼくたちにできるのは信じることだけです。決して証明はできない。これは「信仰」に属することがらです。

 司は最後の力を振り絞って、キリスト像を立てることに成功します。しかし、もはや司には見届けることができません。視界がかすんでいきます。司は柚香に問いかけます。

「像はしゃんと立っていますか?」

 柚香は答えます。

「私にはやっぱりわからない。ただいびつな像がそこにあるだけです」

 司と柚香はわかりあえない。人と人が簡単にわかりあったりできないのは、はっきり言って当たり前のことです。だれにも他人の心は見えない。自分の心ですら見えているか怪しい。それはゴールではなくスタート地点、結論ではなく前提です。柚香はその前提からスタートして、司の信じる価値をわかろうとしたのです。たとえ今はわからなかったとしても、それはすばらしいことなのです。

 旧約聖書に『ヨブ記』というお話があります。ヨブという善人が試練によって神への信仰を試される話です。試練を乗り越え、信仰を認められたヨブは、試練を受ける前より豊かで恵まれた人生を送ることになります。その結末に対して「ちょっとおかしいんじゃないの?」と違和感を持つ向きも多いでしょう。ぼくも「結局、現世利益かよ」と思った口です。「神を愛せ。たとえ神があなたにみじめで不幸な一生を与えたとしても」とぶち上げるお話のラストにはふさわしくありません。ちなみに、テッド・チャンの『地獄とは神の不在なり』は『ヨブ記』へのそうした突っ込みを踏まえて描かれている話なので気になる人は読んでみてください。

『SWAN SONG』の場合、そのあたりちゃんと筋が通るようになっています。司は絶望しても仕方ないような試練を受けたうえで、決して幸福にはならず、それでも切実な希望を胸に抱いたまま死んでいきます。司にとっての切実な希望、それは当然ピアノでした。ピアノで柚香をよろこばせられると思っているあたり、司は最後の瞬間まで柚香とわかりあえないようですね。この辺りも面白い。

 不満なところも挙げておくと、最初に出会う敵対的人類の警察官が猟奇殺人にまで至るスピードがあまりにはやくて、ちょっと笑っちゃうとことかですね。地震から二週間も経ってないはず。一人ならまだそういう異常警官もたまにはいるかなってなりますけど、それが複数なので、警官の質が最悪の地域という印象になりました。全体的にカタストロフもののフィクションあるあるな治安の悪さは都合よく使われていた気がします。

 二週目以降に見ることができるエンディングは蛇足というほどではないんですが、二週目エンド単体で見た場合は一週目エンドと比べていくらか落ちます。まず一週目ありきで、二週目はそれを補足するものという感じです。正直、柚香の変節には納得がいかない部分があります。ぼくがなにか見落としているのかもしれませんが……。

 全体としてはとても面白かったです。人は理不尽にたくさん死にますが、そんなに暗い話ではない、というか前向きに明るい話だと思うので、あんまり身構えずにプレイするのがいいと思います。

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