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トートバッグいっぱいの呪いを。12.




 思わず口笛を吹きたくなるようないい朝だ。窓から見える空はきっぱりと晴れていて、鳥たちの声が街中に響いている。それだけで何かいいことが起こりそうな気がしてくる。
 そしてその予感は当たっていた。

 本当に久しぶりに、パパが僕の部屋に来てくれたのだ。
 僕とママが死んでしまってから、パパは僕の部屋にまったく足を踏み入れなかった。
 部屋に満ちるたくさんの思い出が洪水のように押し寄せてきた時、パパは崩れてしまう自分を支えきれないと恐れていたのだと思う。
 パパにそんな変化をもたらしてくれたのは、花蓮さんなのかもしれない。それが僕は悔しくもある。

 パパは窓にかかるカーテンを右側に寄せ、錆びついたクレセント錠を回して窓を開けた。
 一瞬で光が部屋に広がる。
 埃がきらきらと乱舞する。
 僕とママの輪郭のなかを光が通り抜けてゆく。
 風が夏を呼び込む。
 ママが微笑みながら風鈴に触れると、りん、と涼しい音がした。その音に気づいたパパが窓辺に吊り下げられた風鈴を見上げる。
 ママが鳴らしたんだよ。
 そう伝えたかったけれど、僕たちが見えないパパは、泣きたいような笑いたいような顔をしたまま風鈴の音に耳を傾けていた。
 僕たちのそばに立つパパは、ひげが長く伸びて、頬はげっそりと痩せこけていた。目に光はなく、ひどく歳をとったおじいさんみたいに見えた。

 その時、机の上に残された一羽の折り鶴が、パパに向かって飛んでいった。
 紫色の折り鶴はパパのシャツのポケットにスッと潜り込んで、息をひそめていた。

 折り鶴はたしかに意志を持って羽ばたいた。膨らんだ胴体に、ありったけの僕の願いを吹き込んだ折り鶴だ。
 丁寧に折り畳まれた嘴の先で、鶴はシャツ越しにパパの胸をチクリと刺した。
 パパは小さく、痛っ、と呟き、ポケットをごそごそと探り折り鶴を取り出した。
 怪訝そうな顔でつまみ上げたパパは、これは僕からの贈り物なのだと思いつき、床にぐしゃりと膝をついて泣き始めた。

 目の前でパパが泣いている。
 パパが泣くところを初めてみた。
 こんなにパパを泣かせる僕は、なんて悪い子なのだろう。
 ママも心配そうにパパを見つめ、パパには見えない手でパパの大きな背中をさすった。
 やがてパパは静かに手を開き、鶴をまじまじと見た。内側に文字が書かれていることに気づいたパパは、開いてみた。
 たしかに僕の文字だ。
 下手くそで一生懸命な僕の文字。

「パパはずっとそばにいて
 パパはいつもそばにいて
 パパは明日もそばにいて
 パパは僕のそばにいて
 パパは死んでもそばにいて」
その言葉にさらに涙を溢れさせたパパは、
「ごめん。本当にごめん」
と何度も絞り出すように声を漏らした。

 パパは折り鶴を片手に持ったまま、部屋の中をゆっくりと見て回った。
 机の上の国語のノート。
 スケッチブックの描きかけの絵。
 先の丸くなった色鉛筆。
 折り紙の四角い山。
 それらを手に取っては泣き、少し涙が引っ込むとまた次のものを手にしては泣いた。

 次にパパはクローゼットの扉を開けた。僕が着ていたセーターやコートの袖を強く握りしめ、唇を震わせながらまた涙を流した。
 僕のセーターを引っ張りだして自分の胸に当てたパパは、呟いた。
「こんなに小さかったっけ」
 パパはクローゼットの服ひとつひとつに目を通した。
 これは幼稚園の制服。
 小学校の入学式の日の紺色のスーツ。
 スイミングスクールへ行く時によく着ていたパーカー。
 寒い冬に部屋で羽織っていたフリースジャケット。
 少しずつサイズの大きくなってゆく洋服たちの並びの奥に、何かがあるのを見つけたパパは、鼻を啜りながら服をかき分けた。





 パパの叫び声が家じゅうに響き渡った。
 わあわあという言葉にならない大きな呻き声が、パパの口から溢れてとまらなくなった。

 パパはやっと僕を見つけてくれた。
 ピンク色のポロシャツとカーキのハーフパンツを身につけた僕の体は、クローゼットの中にある。壁に背をつけ足を投げ出して座る僕は、パパが来てくれるのをずっと待っていた。
 冷たい土の下に僕の体を眠らせたくなかったママが、僕をクローゼットへ運び込んだのだった。

 会いたくなったらすぐに会える距離で。
 いつもそばにいる。

 ママは僕の部屋に住み込み、クローゼットの中の僕の体の変化を毎日見守っていてくれた。そんなママの体は、海の波にさらわれたきり戻ってこない。それは寂しいことだ。

 血の色を失い灰色がかった腐った肉と、ところどころ白い骨が剥き出しになったぐちゃぐちゃな僕。
 崩れた頬の肉の隙間から奥歯が見えている。
 傷口から浸み出したどろりとした黄色い体液が、カサカサした皮膚の上で乾いてこびりついている。
 お気に入りのポロシャツを汚してしまった。でもママは怒らずに丁寧に拭き取ってくれた。
 いつもカッコいいパパに、僕のいいところを見せられなくて残念だ。
 パパはかつて僕だった肉を見て吐いた。
 僕の膝のあたりに。
 ちょっとショックだった。


 突然、クローゼットの横に置かれた本棚が、大きな音を立てて倒れた。びっくりした。
 本棚はつっかえ棒のようにクローゼットの扉を外側から塞ぎ、中から開けることができなくなった。
 パパは握り拳で激しくクローゼットの扉を叩いた。
「誰か!誰か!」
ここには僕とママしかいないよ。
 窓のないクローゼットの中でのパパの叫びは、この街の誰にも届かない。ここはパパの自慢の、閑静な住宅街だ。

 やっと家族が揃った。
 ここで永遠に3人で暮らせることが嬉しい。穏やかで楽しい思い出を、イチから作り直そう。誰にも邪魔はさせない。
 喉から血を吹き出しながら叫び続けるパパは力強くて、やっぱり世界一の男だ。
 パパの叫びはどんな子守唄よりも僕を安心させてくれる。
 パパはここにいる。もう出張も花蓮さんとのドライブも、無しだよ。
 今度こそ3人で助け合って幸せに暮らすんだ。  さあ、手を繋ごう。

 僕の肉とパパは、クローゼットのなかでゆっくりと朽ちてゆくだろう。どろどろに溶けて混ざり合って、ひとつになる。
 僕がパパのすべてを、パパも僕のすべてを、身をもって知るにはちょうどいい。


 僕とママは、パパが落ち着くのを静かに静かに見守っていた。
「やっと帰ってきたね。今度こそ信じていいよね」
ママは涙を拭いながら、にっこり微笑んだ。


 靴下でひたひたと歩く足音が、階段を降りてゆく気配がした。それから玄関のドアがパタンと閉まり、それきり二度と開くことはなかった。


(13.へ続く)↓

文章を書いて生きていきたい。 ✳︎ 紙媒体の本を創りたい。という目標があります。