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牛と暮らした日々-そこにあった句#01 大阪から北海道へ

残雪の果てのひとつを踏みつぶす 鈴木牛後
(ざんせつのはてのひとつをふみつぶす)

残雪といって思い出すのは私が北海道に渡った時のことだ。

19歳だった私は大学進学のために生まれ育った大阪から北海道に渡った。子供の頃から田舎に憧れて農業がやりたかったのだ。大学は農業系ではなかったが、田舎に住んだら農業を始めるきっかけを掴めるかも知れないと思った。

さて3月末、入学式に向けて、ヤマハのフォーゲルという小さな原付バイクに乗って家を出た。こう書くと、私がとんでもない冒険野郎だと勘違いする人もいるかもしれないが、実は買ったばかりの新品の原付を大阪に置いて行くのがもったいなかっただけなのだ。(もう大阪に帰る気はなかった)

大阪を出発し琵琶湖岸をひた走り敦賀まで出た。夜11時過ぎ、ここからフェリーだ。当時は足掛け3日かかった。そして3日目の早朝5時、まだ薄暗い小樽港に降り立った。この時、私は北海道の春をまったく甘くみていた。

大阪を出た時は桜が散りかけていたのに、この北の地はまだ春にはほど遠く、とても冷たい風が吹いていた。

国道こそ路面が見えていたが、周りの畑や山にはまだまだ雪が残っている。寒さといえば大阪の真冬と変わらない。珍しい雪景色に感動している場合ではなかった。だって、これから旭川まで、この小さなバイクで走らなきゃならないんだから。

私は着てきた薄っぺらいジャンバー1枚で、バイクにまたがり走り出した。小樽港を出発し、国道12号線を北上して行ったのだが、札幌、岩見沢、滝川、深川など、国道沿いの主要な街に入るたび、何度もバイクを下りて、喫茶店で休憩したり服を買い足して着込んだりしなければならなくなった。

何度も休憩したのは、寒いという理由だけではなかった。それは、小さなバイクの振動による疲れと、すごいスピードで追い越していくトラックに巻き込まれそうになる恐怖。それに、スパイクタイヤの巻き上げる車粉だった。そう。寒さにも増して驚いたのは、この車粉だ。当時はまだスパイクタイヤが全盛で、春の雪解けといえば「車粉」が代名詞になるほどひどかった。

この寒さと車粉こそが北海道の春なのだ。

途中入った喫茶店で、みんなが私の事を注目している。それもそのはず、私の顔は真っ黒にすすけ、髪の毛には車粉がこびり付いて、ゴアゴアに逆立っていたのだから…。

そして、深川から旭川に向かう、神居古潭という人家も何もない峡谷で、ガス欠になってしまった。途方に暮れながら1時間近く押して歩いた。なんだか情けなくて、だんだん心細くなってきた頃、トラックが通りかかった。手を上げて止めて事情を話すと、バイクと私を乗せて一番近くのスタンドまで乗せて行ってくれた。大阪ナンバーのバイクに、大阪弁をしゃべる若い女の子。同情してくれたのか、とても親切だった。

やっと旭川に着いた時には、夕方の5時を過ぎていた。何と、小樽から旭川まで12時間かかったのだ。

北海道は空気の質が大阪とは全然違った。胸いっぱいに吸い込み、感動していた。

友人も知人も誰1人いなかったけど、胸には希望しかなかった。ここから今から私の人生の第2ステージが始まるんだと。

将来の夫と知り合うのは、この日からたった1週間後のことだ。紹介された時、初めて会ったのに(どこかで見たことがある)という不思議な感じがずっとしていた。今から38年前の話である。

荒れし手を拳と呼んで雪の果  牛後
(あれしてをこぶしとよんでゆきのはて)

農業を夢見て19歳で大阪から北海道に渡った。それから実際に始めるまで16年かかった。あの時知り合った夫と2人でずっとやってきた。夢がかなって幸せだった。

そして就農して22年経った今、後進に夢を-道を譲る。


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