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牛と暮らした日々-そこにあった句#32 歩んできた道

初雪は失せたり歩み来し跡も 鈴木牛後
(はつゆきはうせたりあゆみきしあとも)
 
歩み来し跡――
今から40年前の話だ。
(こう書くと大昔のようだが、私にとってはつい最近のように感じる)

田舎に憧れ農家に憧れ北海道に憧れて、大阪からやっと到着した日。小さなバイクで小樽港から旭川の下宿まで12時間かかり、くたくたに疲れて、到着1日目は空気を吸うことだけの感動で眠りについた。

次の日からは、新鮮な風景と人々と新しい生活に、そして家から出たという開放感に、毎日楽しくてあっという間に過ぎていった。
大学では、自然に関するサークルに入るつもりだった。例えば、野草を採ったり自然の中を散策したりするサークル。でも、小さな大学で該当するものが無い。1番近いと思ったワンダーフォーゲル部に入部した。しかしそのサークルは、ワンダーフォーゲル(野山を徒歩旅行し自然の中で生活し語りあうことが目的)とは名ばかりの、夏は岩登りや縦走、冬は雪山登山をするサークルだったのだ。

しかし順応性の高い私は、わずか数ヵ月で大阪弁がとれて北海道弁をしゃべっていたのだが、その名ばかりのワンゲルにもすぐに順応して先輩の男性たちと一緒に毎日岩登りに通う日々となった。

私は大学の授業はさぼり気味で、山に登ったり岩場に通ったりワンゲルの部室にたむろしたり、男子寮に入り浸ったりしていた。
後に夫となるサークルの先輩が男子寮にいたのだ。彼は「こいつは何でいつも俺の部屋にいるのだろう?」と不思議だったそうだ。(鈍感人間なので)

その時、彼は4年生。ワンゲルの中でも尖鋭的で、フリークライミングやボルダリングに熱中していた。デートなんてした覚えはないが、しいて言えば、汚いジャージを着て自転車を連ね近所の岩場に行き、クライミングをしていたことだろうか。

さて、私は冬山にはトレーニング山行の2回を除いては行かなかった。
妊娠してしまったのだ。
男子寮の中で公然と半同棲生活をしていたので、当然というべきか、いや迂闊というべきか。

この時私は北海道に来て半年しか経っていなく、まだ20歳にもなっていまなかった。でも彼は4年生で、卒業と就職が目前だった。
あまりにも早い選択だった。でも迷いはなかった。ただ単純に嬉しかった。

私の実家は機能不全家族で、常に緊張を強いられる家庭だった。婚姻関係はとっくに破綻しているのに商売のために離婚をしない母親も嫌いだったし、父親といえば吐き気がするほど大嫌いだった。

高校生の時、クリスマスに友達の家に遊びに行き、家族全員でトランプゲームをするのに入れてもらったことがある。その時、父親と母親が同じテーブルに座って冗談を言い合いながら笑っていたのだ。衝撃をうけた。これが幸せというものだ、これこそが幸せだ、と。

私はそんな実家が嫌いで早く独立したかった。こんなに遠くまで来たのには、なるべく家から離れたかったという理由もあったのだ。

一方、彼は暖かい家庭に育った、おっとりとした暖かい人だった。私は自分だけの暖かい家庭を早く築きたかった。彼とならもしかしたら築けるかも知れないと思った。
それに結婚すると北海道に、ゆくゆくは田舎に永住出来るかも知れないとも思った。

大学に未練はなかった。もともと教師になりたくて教育大に来たのではなく、田舎に住む手段として選んだだけだった。
私たちは、私の20歳の誕生日が来たら結婚すると約束して子供を産むことに決めた。

この決断は、あまりにも世間知らずだったのかも知れない。考えが甘かったのかも知れない。それからの10年間で、若い母親であることで受けるたくさんの嫌な思い、苦しい経験、貧乏な暮らしで、後悔を幾度となくした。でも40年経った今、歩いてきた道程を振り返ると、この時の選択は決して間違いではなかったと思う。最近では特にそう思っている。

さて40年前に話を戻して。
結婚と出産を決めた、その矢先のことだった。

卒論を仕上げ、教員採用試験も結果待ちで、あとは卒業式だけだという時に、彼が氷瀑(凍った滝)から滑落してしまったのだ。
卒業前の最後のクライミングだといって、層雲峡にある氷瀑にアイスクライミングに出かけ、滑落した。ハーケン(ピン)が全部抜けダイレクトに地面に叩きつけられた。命こそ取り留めたが、首の骨を折るという重傷を負い、それから1年近くも寝たきりの入院生活を送ることになってしまった。

義理の父母とは、おろせ、産む、で関係が冷えていた。実父は何も知らない。知らせるつもりはなかった。実母だけが少し援助をしてくれた。

たったひとりの新婚生活が始まった。本当に貧乏で、テレビもない生活だった。大学の先輩から譲ってもらった古いストーブと二槽式の洗濯機と1ドアの冷蔵庫が、家財道具のすべてだった。それからの生活は田舎暮らしうんぬんはどこかに行ってしまい、ただ生きていくだけで精一杯の生活となってしまった。

生活は苦しかった。嫌な事もいっぱいあった。でも彼はともかく生きている。それだけで幸せだった。とにかく生きていてくれた。寝たきりになっても将来半身不随になっても、どんなに貧乏な生活が続こうとも、彼の顔さえ見れて話しさえできれば幸せだと思った。これが私の結婚生活の原点になった。

それから、転院、手術、介護、寝たきり、色々色々あり、彼は相変わらず入院していたが、夏には無事に子供が生まれた。そして事故から1年後の冬には、幸いなことに後遺症もなく退院できて、やっと親子3人の生活が始まったのだ。

この時からのち、田舎に住んで農家になる夢を実現するまでは、紆余曲折の15年の歳月が流れることになるのだが、すっかり長くなってしまったので、その話はまた後日。

花を来し君と落花を見に行かむ 牛後
(はなをきしきみとらっかをみにゆかん)


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