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牛と暮らした日々-そこにあった句#20 角川俳句賞

仔牛待つ二百十日の外陰部  鈴木牛後
(こうしまつにひゃくとおかのがいいんぶ)

「俳句にすごい言葉使うんだね。ふひひ」
2018年の秋のことだ。町役場主催の話し方講座に夫婦で出席した時に、高齢の男性に声をかけられた。直前に夫が顔写真入りで新聞に載ったので、すっかり町内では有名人になっていた。

その記事は「第64回角川俳句賞」受賞のものだった。
(すごい言葉って『外陰部』のことですか?でも牛のですけど。しかも分娩するときのですけど。なんだこのオヤジは)と、その含み笑いにちょっとむっとした。
俳句をやらない一般の方なので、文学性など関係なく、この刺激的な単語だけを抜き出して話題にされた。

これは「角川俳句賞」を受賞した50句の中で2番目の句なのだが、2番目にもってきたのには夫の計算があった。彼はこの句を作ったときに、これは目を引くに違いないと確信し、効果的な並び順を考えたときに、最初だとあざとすぎると思って、2番目に持ってきたのだと。
50句もあるので、最初の方でインパクトを与えないと、つまらない連作だと思われて終わるからだそうだ。(こういう配慮は応募される方の間では常識だと思うが)

さて、この並び順が功を奏したかどうかは分からないが、夫は「第64回角川俳句賞」を受賞した。2018年の秋の事だ。

2018年8月31日、午後4時半過ぎ。
いつも我が家では、夕方の牛舎仕事は午後5時に始めるので、私は休憩をかねて自宅の自分のパソコンの前で調べ物をしていた。

そこへ、裏口から作業着のまま夫が駆け込んできた。夕方の搾乳の前に、機械を整備していたのだ。腰に巻いていた作業ベルトを大急ぎで外し工具を投げ出して、自分のデスクのパソコンの前へ飛んで行った。

「何?どうしたの?何かあったの?」
「ちょっと、黙って!!」ものすごく焦っているようだった。立ったままパソコンで何かを調べ始めた。

そこへ家の電話が鳴った。
「はい。鈴木です」私が取った。
「こちら、角川俳句の編集長をしておりますTと申します。ご主人はいらっしゃいますか?」
「ちょっとお待ち下さい。」
「角川俳句の編集長だって!」

その時、私は(まさか?まさか?)心臓がどきどきしてきた。
夫は電話に出て「ええ。はい。既発表句だと思います。今調べたんですが……」
何かしばらく話し込んで、電話を切った。

私「もしかして?!角川俳句賞を受賞したの?!」
毎年、夫が応募しているのは知っていた。本人は力試しのつもりで、最終候補に残って選考座談会で講評してもらえたら勉強になる、というくらいの気持ちだったようだ。
私は、「角川俳句賞取らないでよ~。取ったら忙しくなって本業に差し障るでしょ。絶対取ったらダメだよ」と、冗談で言っていた。

「さっき作業中に、俺の携帯に電話があったんだけど。角川俳句賞取ったって言うんだ。それで『既発表句は無いですよね』って念を押されて。でも応募した後で気がついたんだけど、既発表句があったような気がして、今調べたら、まったく一緒じゃなくて、固有名詞と語順を変えてた。後で分かってもまずいから、今、正直に言った。ダメかもしれない。」
自宅にかかってきたのは、途中で携帯の通話が切れたから、らしかった。

「それで、向うは何て?」
「選考座談会は終わったところなんだけど、まだ選考委員の先生方が残っているから、協議してみますって。」
私は「取らないでよ」とは言ったが、もし受賞したのなら大変な事だと、体が震えてきた。5時からの牛舎はどうでもよくなった。

それから2人で自宅で編集長からの電話を待った。体の震えは相変わらず。緊張で喉がカラカラになってきた。
舞い上がりそうになる私に「でもダメかもしれないよ」と、いつものようにドライな夫。
そして電話が来た。「固有名詞と語順が変わってるし、まったく問題はないそうです。受賞決定です!」

えーーー!!
本当に取った、取った、取った!舞い上がる私。冷静な(に見える)夫。
どんなに興奮してても仕事はしなくちゃ。搾乳して(搾乳中は私のマシンガントーク炸裂だったが)、次の日も牧草作業をした。なんかふわふわしてたけど。

贈呈式で東京に行った時、選考委員のО澤さんが言っていた。「あの時は僕も、どうなる事かと思ったよ。最初から選考をやり直しかと。夜の飲み会に遅れちゃうからね」と。

それ以降の日々は、夢の中にいるようだった。新聞や雑誌からの原稿依頼、取材申し込み、知らない人からの句集の謹呈、俳句結社誌に取り上げられては、その結社誌が送られてくる。おおげさではなく毎日ポストに何かが届いた。そして私は有名人の妻だと勘違いしそうになっていた。

2018年から2019年は、人生の中でとても貴重な体験をさせてもらった。今はすっかり落ち着いて、また単なるいち農民に戻っている。そして私もいち農婦に戻っている。


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