幸福とは何か分からないけど幸福に生きたい
幸福とは何か? そんなの分からない。分かっているのは、幸福に生きたいということだけ。何だか分からないものを求めているのだから、呆然としてしまい何をすればいいのか分からないまま時間は過ぎていく。
とはいえ自然に触れながら生きていると理屈を飛ばして幸福的な何かしらを得られることを発見したので、最近の僕はそうしてみている。
自然の多い田舎(神奈川県の西のほう)へ移住して、ほとんど毎日、自然を感じられる場所で散歩している。富士山も眺めている。でもここ1週間ぐらいは富士山が見えない。そこにあるべき場所にない。ただ雲や霧に隠れているだけなのだろうけど、富士山が消えちゃった感覚を覚えている。本当に。バカみたいな話だけど。
日常的に近所の川沿いや畑の中を散歩しているし、市民農園を借りて野菜作りも始めている。それ以外でも、小田原の海岸でチェアリング、丹沢の山の中にあるキャンプ場でデイキャンプ、あじさいと田んぼの拡がる里で団子を食べながら散歩、広い芝生のある公園でレジャーシートを敷いて仰向けに寝転んで空を眺める、などをここ1ヶ月の中でしてきた。
レジャーのための遠出をしなくても、近場でこういう遊びができるのがいい。お金もほとんど掛からない。徒歩か自転車か、たまに電車も使うけど、まあその程度だ。キャンプ場には友達の車に乗せてもらったが。持つべきものはお金より他者との繋がりだ。他者との繋がりも幸福と思える何かしらを心に与えてくれる。
自然を感じていると、大きすぎる存在のごくごく一部として自分の存在が吸収される感覚がある。というより、実際にそうなのだ。人間一人は自然の中のごくごく一部に過ぎない。その事実を思い出せる。
僕は根が真面目で純粋で優しくて心が綺麗でとても謙虚なので、普通に社会の中で生きていると、つい色々と考え過ぎてしまう。それこそ「幸せって何なんだ。何だか分からないものを欲している俺って一体何なんだ」みたいな内省モードに入り込んでしまう。そんなとき、自然の一部に取り込まれていくと、「まあ、地球に生まれた生命体として循環の中で生きていくだけだな」という感じになり、スーッと肩の荷が下りる気がする。
まあ、だいたいは気がするだけで錯覚なのだけど。一時の気休めともいう。それで本当に肩の荷が下りるなら苦労しない。でも気休めでもあると幸福感が増す気がする。幸福が何かは分からないけど、寝るのでおわり。