不自由な世界で「自由」を選択する。何を選択するかは、あなた次第

「人間は自由であり、つねに自分自身の選択によって行動すべきものである。」と言ったのはフランスの哲学者 ジャン=ポール・サルトル。 

セッションを終えるとき、必ず次の日程を決めている。年末が近づくたびにやり取りする会話は「鈴木さんは、いつまでお仕事なんですか?」あるいは、「いつから仕事始めですか?」の2パターン。
仕事以外にとくにすることもなく、仕事が大好きなので「いつという決まりもないのでご希望とあらば年末でも年始でもセッションできますよ」と答えている。

私はフリーランスでコーチや研修講師をしている。基本的に自由で制約も制限もない。3年前に子供たちが社会に巣立ったタイミングで「妻」や「母」の役割責任も終了した感じがして、嫁ぎ先の石川県を離れた。今は、生まれ育った関東に拠点を移し、人生初の一人暮らしを謳歌している。(今風に言うと卒婚というのかしら)
なので、年末年始も親戚や家族というしがらみや慣習的なこともなく自由にさせてもらっている。
あれ、「自由にしている。」って書いてもよさそうなところを「させてもらっている」って書いてしまうあたり、まだまだ周囲を意識しているのかもしれない。

子どもたちにも自由に選択する機会をつくってきた。息子が社会人になった際に友人が「あなたにとっての母親はどんな印象だったの?」と質問したら「何においても、『あなたはどうしたいの?』『好きにしたらいい』としか言われた記憶がない」と答えていた。
彼が高校受験の時に部活をやめて学業に専念するか迷っているとき私は「あなたはどうしたいの?」と聞いていたことを思い出した。その瞬間は、答えは返ってこなかったけど、ほどなくして彼は、部活をやめた。
そして、私が仕事をどうしようかと迷っていた際、逆に「ママはどうしたいの?ちゃんと自分で決めれたから俺の方が先輩やね」とどや顔で言われたことも懐かしい思い出だ。娘にも「ママは質問ばかりだ!」とキレられたこともある。

親の関わりで出来ることといえば、選択肢を増やしてあげることと決めるためのきっかけづくりくらいだろうと思っていたし、私ごときの影響範囲で彼らの世界観を狭めてしまったら申し訳ないと思っていた。
子どもも大人も自分で選択するというのは、中々に簡単なことではない。

私は、子どもたちが社会に巣立ったと感じた時、これからの人生では役割や責任、必要性を手放して「自由になりたい」と思って石川県を離れた。何もかも自由に選択するというのは、ある意味、難しいことだなと今では思う。
相手の期待に応え、与えられた環境で生きるというのは、不自由なようで「楽」だった気がする。

『自由に生きるには覚悟がいる』
と言ったのはドイツの詩人 ヘルマン・ヘッセだ。

「あなたは、どうしたいですか?」

クライアントにも良く投げかける質問だ。この質問をするとたいていの人は「うっ」とつまりながら自分の内側と対話し、絞り出すように話し出す。

「何もかも自由にして良いと言われたら何をしますか?」

何も制約も制限もなくと付け加えるこの質問は、何かに捉われているであろう解釈の枠ぐみを外すミラクルクエスチョンだ。こちらもだいたい答えに詰まる。絞り出すように「やったことのない贅沢な旅行」や「貯金して…」とか「投資して…」とかの話をしだす。

人は、「自由にどうぞ」と言われると意外と困ってしまうのではないだろうか。
それは、小さい頃から「何をするべきか」を周囲が決めてくれたからでもあるし、常に答えのあることに取り組んできたからでもある。あるいは、人によっては周囲の考えに従うしかなかったというのもあるかもしれない。

「自分が何をしたいのか?」その答えは、どこかに書いてあるわけではない。常に自分自身との問答だし、答えがすぐに見つかるものでもない。「これかな」と思って進んでもまた「違うかも」ってなるときもあるだろう。

自由なようで不自由な選択

最近の個人クライアントさんは、転職や起業、離婚の節目のタイミングの方からの依頼が多い。自由に向かって、今の環境を手放すタイミングだ。
「自分はこの先、ちゃんとやっていけるのだろうか?」という不安や恐れが出てくる。あるいは、「今の環境を手放しても良いのか?」と悩みながらも自分なりの答えをみつけて選択していく。
セッションもご自身の内的欲求の整理と自己信頼のベースを整えるあたりから関わっている。
経営者セッションでも不確定な未来に対しての獏っとした不安を感じながらも方向を定めてアクションを整理している。
どちらのセッションでも一番多く質問するのは「あなたはどうしたいか?」だ。自由なようで自分で担う責任という領域に自信が揺らぐ。そういう不自由さを感じながらそれでも立ち上がっていくプロセスは、伴走していてとてもテンションが上がる瞬間だ。

不自由なようで自由な選択

いっぽう、企業依頼のセッションでは、組織内の閉塞感ややらされ感を感じている人が少なくない。取り組むべき課題があるので、何もないゼロから考えるよりは、明確でわかりやすい気がするのは、私だけだろうか。不満気なことを言いながらも生活の危機が訪れるわけでもないので発言する内容も自由を感じる。
「〇〇が」と第三者を主語にして話す人は、組織に所属するという不自由な世界で「自由」を謳歌している典型だろう。
そんな人には、自分を主語にして話す訓練をしながら当事者意識を育てている。

『仕事は、あらゆるものの中で最高のものであり、最悪のものである。自分から進んで自由に働くのであれば最高、逆にそこに自主性がなければ最悪である。』と言ったのはフランスの哲学者 アラン(エミール=オーギュスト・シェルティエ)

どちらにせよ。

「すべて自分が選択しているのだ。」と捉えるとやりようがみえてくる。
やらされ感さえも自分が選択しているとしたら自分がストレスを感じない方を選びなおせばいいじゃないか。
今が不都合なら自分にとって都合の良いことが何かを選択したらいい。

すべてはあなた次第。

自分の望みがわからないことが最大の不自由だなと感じるこの頃

ドイツの哲学者 ニーチェも『まずは自分を知ろう』
と言っているじゃない。

今回ご紹介している本は「心に響く言葉シリーズ」年末年始のながら読書にちょうど良いサイズ。ちょっとしたプレゼントにもおすすめです。

自分と向き合い。
自分にとっての「自由」とは何か
あなたなりの答えが見つかりますように

日々是好日



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