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16年前の今日となくなることのない母とのこと

16年前の今日は、56年間の生涯を静かに終えた母の命日だ。

母が亡くなったこの時期
とくに「桜」は私にとって心を暗くするキーワードになっていた。

「桜が満開の金沢で一緒に過ごそうね」
実家のある茨城県取手から金沢に嫁ぎ、すぐに子どもたちを授かったので子育てに忙しい日々。母とゆっくり金沢で過ごせる初めての春になるはずだった。

母がいなくなったことの実感のないままに金沢にもどると桜は、ただただ満開に咲き誇っていた。

過去形で表現できるくらいにようやく解禁というか、母の死に向き合えるくらいの時間も経過し、私自身も強くなった気がする。

私は母の葬儀では、泣けなかった。

人は、ショックなことがあると心をとざす働きが起こる。あまりにも辛い出来事がおこると向き合えるようになるまで感情と感覚が鈍化してしまう。今思うと私の当時の状況は、それに似たものだったと思う。

母と最期に話したのは倒れる2週間前の3月初旬。心臓バイパスの手術をするために検査入院をすることになった母のサポートをするために帰省していた。検査の結果が良好なら4月の桜の満開になる金沢でしばらく一緒に過ごそうと話して別れた。

19日の早朝電話が鳴った。朝の早すぎる時間帯の電話は、良い電話ではない。
胸のドキドキが大きな音で体の内側でなっていた。
電話越しに聞こえる父の声。
夜中に母が頭痛を訴え、吐き気と頭痛が尋常じゃなく救急車で運ばれたと。
当時は、北陸新幹線が開通していなかったから電車を乗り継ぎ7時間かけて実家にむかった。向かう途中、母の意識は、なくなった。

現実感がない。
どこかでみたドラマか映画を観ているような。
遠い出来事のような感じ。
なのに涙が、ただただあふれてきた。

破裂した脳内の血液からあふれ出した血液が脳をおおいつくすようなレントゲン写真。聞こえてくる医者の説明は遠くから聞こえてくる音でしかなく。
説明は、脳幹に到達するのも時間の問題だという内容だった。

触れた母のカラダは、温かく、ただ眠っているように見える。
人工呼吸の装置につながれ機械に生かされている状態で数日が経過した。

快復の見込みはなく装置をいつ外すのか決めなくてはならない。
父も兄も困惑していた。
私は、重たい決断をせずにすんだ。
考えることを求められず良かったと思う。
「どんな状態でも生きてほしい」と心の奥底からわきあがってくる感情。

「どんな状態でも生きて、そばにいてほしい。」
私の願いは、叶わず。

25日の朝、母は、なくなった。

私の心の中に、ぽっかりと黒い底なしの空洞ができた。

アホじゃないかと思うが、当時は真剣に
自分を生んだ存在がなくなって「私は、のうのうと生きていていいのか?」と思った。
だいぶメンタルがやられていたね。
家族が居てくれてよかったし、仕事があることが救いになった。
意識を向けることがあると辛いことに向き合わなくてもいいからね。

言葉にできない感覚が渦巻く中でふと浮かんでくる
「母は、幸せだったのだろうか」

葬儀のあとに部屋を片付けていると3段チェストの引き出しすべてに山のような薬が入っていた。血糖値を下げる薬、副作用を抑える薬、頭痛を抑える、血圧を下げる・・・。たくさんの薬だけが残った。

母は、34歳の健康診断で糖尿病と診断されてからずっと病院通い。晩年の透析が始まってからはとくに辛そうだった。
お見合い結婚で他に気になる人がいたけど、周囲に諭されて父と結婚したとぼやいていた時もあったり。(娘に言う内容じゃないよなとも思うけど)
父のまじめで誠実に仕事をする姿勢を誇らしげに話す時もあったり。

良い娘として、母として、妻としての社会的な責任を果たさなくてはというような、気構えのようなものがあったり。推測だけど。

無意識に頑張っている親の影響は、子供にも伝わる。良い母にならなくてはという義務感のようなメッセージを受け取り、母がイメージする娘役を私も演じていた。

結果、母との間にはなんとなく距離感がうまれた。
日常会話レベルの関係

私は、母とも家族とも気持ちのキャッチボールをしたことがない。ほぼ、自己主張というものをしてこなかった。当たり障りのない日常会話レベルで大切な関係をやり過ごしてしまったことは、今振り返っても勿体ないことだと思う。

そのせいか、母とのエピソードらしい記憶がほとんどない。

授業参観には、着物を着てきてた。
春になると山菜をとりによく山に行った。
たらの芽のてんぷらが好きでたらの木を庭に植えていた。
歌うことが好きでカラオケ機材を買い込んで家で歌っていた。
車を運転するのが好きだった。
温泉旅行にママ友とよく行った。
家には年中、ママ友が遊びに来ていた。

どんな行動をとっていたかくらいの記憶しかない。

女の子は、学歴なんて必要ない。
25歳になるまでには結婚しなさい。
門限は、22時。

母の社会価値観の正しさからくる言葉。
そんな、ことくらいしか思い出せない。

もっと何を感じていたのか思っていたのか
たくさん話しをしてくればよかった

外に出してこなかった気持ちのモヤ
行き場を失った気持ちは、大きな塊となって心に残る


双方向にコミュニケーションがとれることは、とても貴重だ。

生きている間にしかできないことがある

もっと言葉を重ねる
もっと一緒に過ごす

喜怒哀楽をわかちあい

共に大切な時間を
どのように過ごすのか

いつかできなくなるその時に後悔のないように

片付けをしていたら
母と一緒に写った写真がでてきた

私の子供たちと笑顔で写っている写真もでてきた。
母もいろんなことがあったとは思うけど
幸せだと感じられた瞬間もあった。
きっと。

おかあさん、
「今年も桜が満開になったよ。」

満開の桜をみにいこう

あつこ 昔々〜_200324_0001



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