障害者というレッテル


無職の障害者である自分との闘いを経て、ついに仕事が決まりそうです。
始まる前にまた採用取り消しにならなければいいけど・・・


突然ですが、こちら。
もちぎさんの『ずる賢く幸せになる 元ゲイ風俗ボーイの人たらし哲学』という著書を読み、感銘を受けた一節です。

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あたいは幼い頃に ≪自分は男性が好き≫ なんだと気づいたけれど、オカマという差別的なニュアンスだけじゃなくゲイという言葉があると知ってからは、男性として男性に恋愛感情を持つ自分をキッチリと言い表すことができるんだと分かって安心したもの。肩書きは人に対して強い影響力を持つわ。

でもそれは自分の一部を表す言葉であって、結局あとは自分がどうなのか、なんなのかっていうのは深く掘り下げて言葉や行動に出さないと表せられない。ゲイは自分の一部であってすべてではないし、ゲイという生き物はいないのだから。

みんなもそうでしょう。例えば日本人という生き物も、女性・男性というだけの生き物も存在しない、そんなのは自分の一要素の名称だし、それに拘っていればただのレッテルになって、自分をがんじがらめにしてしまうこともある。

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一節というには長かったですね。

私は心身の調子が悪くなると、障害者というレッテルを濫用する癖があります。

私は4年前てんかんという障害と診断され、それから自分は障害者なんだと自覚しながら生きてきました。

生活に不自由がたくさん出てきたことは悔しく悲しかったけど、障害者という肩書きはなぜかスッと受け入れられました。
(当時は脳炎の治療中で状況判断力が鈍っており、受け入れられたというより理解していなかったのかもしれません。)

少しずつ回復していく中で、障害者であることが嫌になっていきました。
健常者が羨ましくなり、障害を完治させたくなりました。

でも、就活や人間関係での悩みが続くと
「障害者だから気を遣われても仕方ない」
「こんな有能な障害者を雇わないなんてどうかしてる」
「後天性の障害者ほど不幸な人間はいない」
などと、障害者という肩書きを濫用します。

辛い現実を受け入れられないから、本当は嫌な名前「障害者」のせいにしているのだと思います。

しかし、初めに載せたもちぎさんの言葉から、私は今後、簡単に障害者というレッテルを貼って甘えたくないと思いました。

今度の仕事も障害者雇用なので、一般雇用の方に比べて配慮される事項はたくさんあります。


でも、「気を遣わなければいけない障害者」ではなく「努力ができて信頼できる人」になりたい。
仕事に慣れてきた時にはいろいろな人と関わり、「話していて楽しい、これからも一緒にいたい人」になりたい。



脳に障害はあるけれど、いわゆる健常者と同じようにできることはたくさんあります。
努力の成果でできることが増えてきています。


私は
努力ができて向上心がある人。
人の気持ちを考えて行動できる人。
4年前から今でもばりスタイルが良い人。
ファッションセンスがめちゃくちゃ良い人^_^



障害は私の一部です。
障害者という生き物はいません。

肩書きやレッテルにとらわれない生き方をしたいと思いました。



そのなりたい自分や理想の生き方というのはまだよく分かりませんが、できる範囲で自分のしたいことをしていきたいです。



まだ叶えられていない趣味にはやっぱり多少なりともお金が必要です。
仕事がんばります。


では🐨


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