【⚽️日本サッカーを愛そう】感謝を込めて、オレたちのシュンさんを語ろう。
左利きはカッコいい。
名波浩がその基礎を作り、確固たるものにしたのが中村俊輔である、と言い切っても異論を唱える者はいないだろう。
「レフティ=サッカーセンスの塊」
僕たちにそんな先入観を植え付けてしまった罪深き男。それが中村俊輔だったりする。
生粋のハマ男だった彼が突如として静岡県の西部にやって来たのは2017年のこと。この時から(いやこれ以前から)僕たちはシュンさんの虜だ。
彼の現役引退は日本サッカーの歴史に一区切りを与える。今彼を振り返らずして今後日本サッカーを語ることなど出来ようか。
今日は僕の中に残っている中村俊輔選手の想い出を、3つのシーンから語ってみたい。
■あの映像の本当の”意味”
中村俊輔選手の代名詞でもあるフリーキック。
それを語るうえで必ず目にする映像がある。
ルーニーもロナウドもいたマンチェスターユナイテッドが相手。
オランダ代表のファンデルサールに対し、Don't moveでぶち込んだそれは中村俊輔の芸術そのものだったのだが、
この試合が行われた「時」を意識すると、彼の偉大さがより鮮明になる。
2006年9月13日。
この試合をLIVEで視聴した方々はぜひ思い出して欲しい。当時を知らない人たちは想像して噛みしめて欲しい。
日本のサッカーファンはこの試合のたった数か月前、失意のどん底にいたのだった。
理由は他でもない。ドイツワールドカップの惨敗だ。
ジーコ監督と、経験および実績十分の中田英寿・中村俊輔・小野伸二・稲本潤一のゴールデンカルテットはまるで漫画の世界だった。
それだけではない。小笠原満男や福西崇史といった成長株も加わり、前にはドイツで活躍する高原直泰、後ろには油の乗り切った宮本恒靖、川口能活がいた。
日本サッカーファンの期待値は爆発寸前。
フランス大会でこじ開けた世界への扉は、自国開催を経ていよいよ世界へ向けて華々しく開け放たれるはずだった。
しかし、
そこで私たちが見たものはグループステージの惨敗と中田英寿の引退。あまりにも苦すぎる記憶と共に、全ての日本人の期待はあっさりと終焉した。
この時の喪失感。
それはそれは…ハンパなかった。
そしてすぐに始まった中田英寿のいなくなった欧州の新シーズン。
何を楽しみに海外サッカーを見ればいいのだと路頭に迷っていたところ、私たちが目撃したのがこのシーン、
中村俊輔 日本人CL初ゴールをマンU相手にぶち込む!!
だったのである。
のちのホーム戦でも警戒心ギンギンのファンデルサール相手に再びFKをぶち込んでマンU撃破。
日本には中村俊輔がいる!!
多くの日本人を失意のどん底から救ってみせ、そして再び世界と戦う勇気を与えてくれたのがこの映像であり、中村俊輔だった。
僕はこの時 動画編集に凝っていて、2006年のワールドカップの総集編を作っていた。
イタリアがPKを決めて優勝した映像のあとに一呼吸おいてこのFK動画を差し込み「日本のサッカーは終わらない」と付け加えて〆たことを覚えている。
今その映像を見ても鳥肌が立つ。
つまりあの映像は、
日本サッカーの冒険の続きを語るうえで絶対に絶対に外せない一撃だったのだ!!
■天才に与えられる試練
一方で
時の流れというのはあまりにも残酷だ、という回顧もまた中村俊輔と共にしなくてはならない。
マンU相手のFK2発で我々を失意のどん底から救ってくれた張本人は、リベンジを果たすべきピッチ、すなわち4年後の南アフリカワールドカップの主役ではなかった。
この時の世論は ”絶対的エース=本田圭佑”。
本田選手の実力は疑いの余地は無かった。
しかし、同じレフティとしてしばしば比較されることで、中村俊輔の評価が相対的に低く見えてしまうのは不幸でしかなかった。
更にメディアの好奇に満ちた見出しは群衆を煽り、しまいには「中村俊輔不要論」を自然発生させる。
あの時と一緒だった。
「あの時」とは、1998年。
今でこそキングと称され多くの人に愛されている三浦知良選手だが、フランスワールドカップの最終予選のあたりには「カズ不要論」が蔓延。
信じられないかもしれないが試合中に中指を立てて「お前は引っ込んでろ!」と暴言を吐く輩がたくさんいた。そして、
どうやら歴史は繰り返すらしい。
レジェンド級の活躍を見せた選手は、ベテランの域に達すると一定量の人たちから批判されるという風潮は4年おきに必ず自然発生する。
2018年のロシア大会では川島永嗣。今回は長友佑都あたりがその対象だろうか。
このことは同時に若手の躍進も意味するため、広い意味で言えばポジティブな傾向かもしれないが、本人にとっては信じられないほどの苦痛と屈辱だろう。
しかしながら、
三浦知良は「魂はフランスに置いてきた」とだけ語って後輩の健闘を祈り、
中村俊輔は後輩本田圭佑と盟友遠藤保仁の華々しいFKをベンチで大いに喜んで、そのまま代表引退した。
素晴らしい引き際と言っても本人たちには何の慰めにもならないだろうが、これが歳を重ねて真のレジェンドとして名を残す男たちの通例ならば、中村俊輔は既にその資格を得たことになる。
そう、間違いなく中村俊輔はレジェンドなのだ。
美しい放物線を描くことはなかったが、僕は2010年に彼がスーパースターであることを確信した。
南アフリカ大会とは、そんな大会であった。
■幻の一撃
チャンピオンズリーグのユナイテッド戦、それからコンフェデレーションズカップのフランス戦と国際大会で華々しい足跡を残してきた中村俊輔であったが、
ワールドカップだけはその真価を見せつけることが出来なかった。
本人もそのことを非常に悔いているようだったが、僕はこのことを考えさせられるたびに「あるシーン」を思い出し、何度も何度も想像を巡らせてしまう。
話はやはり2006年に遡る。
失意のオーストラリア戦敗退の次、絶対に負けられないクロアチア戦。
結果はご存知の通り0-0のドローとなりこの時点で日本代表の決勝トーナメント進出はかなり厳しくなってしまった。
クロアチア戦と言えば柳沢選手のQBKがあまりにも有名だが、
実はこの試合で中村俊輔選手が直接フリーキックをぶち込みかけたシーンがあったのを覚えている人はどれくらいいるのだろうか。
4:30辺りを見てもらいたい。
スポーツにタラレバは無い。しかし。
何度見てもこの試合で中村俊輔の左足が放った直接フリーキックは、三都主に当たらなければ入っていた気がしてならない。
もちろん三都主選手を責めるつもりは無い。結果としてネットを揺らすことが出来なかったのであれば、これは味方に当たろうが大きく枠をそれようが同じ意味しか持たない。
しかし、だ。
ドイツワールドカップの失意を振り返るたびに、僕は何度も何度もこのシーンが頭の中でループする。
あれが決まっていれば。そして勝利していれば。中村俊輔と、2006年の日本代表にはどんな未来が待っていたのだろうか、と。
不思議なことに、後日このシーンが語られることはほとんど無い。恐らく多くの人の記憶から消えているのかもしれない。
だからこそ僕は聞いてみたい。キックした張本人はあの時どう感じたのか。
キーパーの重心を見ても僕はこのシュートはゴールマウスまで飛んでいれば間違いなくネットを揺らしていたと思う。
そしてそれは中村俊輔選手とワールドカップを語るうえで輝かしい一撃になっていたに違いない。
繰り返しになるがスポーツにタラレバは無い。
とは言え、僕なりにシュンさんを回顧するうえでこのシーンは絶対に外せなかった。
マリノスやジュビロでのゴールより、イタリアやグラスゴーでのどんなゴラッソより、僕は中村俊輔選手のフリーキックと言えばこのシーンを思い出してしまう。
少し往生際が悪いが、このことは僕がずっと中村俊輔選手の虜であったことの証明かな、とも思う。
やはり僕は見たかったのだ。どうしても。
中村俊輔がワールドカップで直接フリーキックをぶち込むシーンを!!
■最後に
日本サッカーに「フリーキック史」というものがあれば、それは中村俊輔の前か、後かで区切られるに違いない。
彼の技術と実績は、間違いなく日本のサッカーを進化させた。
キッカーだけではない。対峙するゴールキーパーの技術も向上させたと言っても過言ではないだろう。
「これは良い位置」と実況が当たり前のように話すことも、我々サポーターが絶好のチャンスに拳を強く握りしめることも、全てはシュンさんが創って来た道の上に成り立っている。
最後に元川さんの記事から両監督のコメントを引用したい。
全く以ってその通り。
だが、出てこなくては困るぞ。
日本代表には、ボールを置いた瞬間にゴールしたと思わせる選手がいる、と。
中村俊輔さんと日本サッカーの今後に幸あれ。
本日も、最後までお読みいただきありがとうございました!
当然このゴラッソも見逃せない。
同じ時代に生きたことに感謝。
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