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【実録】ビュー数とスキ数の関係

ちょっと最近感じる所があるので備忘録兼ねて文字に起こしておこうと思います。noteのビュー数とスキ数の関係について。

noteというのは我々のような凡人にも与えられたありがたき自己表現のフィールドであって、歌手が歌を歌うように、スポーツ選手が試合に挑むように我々もパソコンに向かっているのですが、考えてみれば投資がない分その結果がコミットされていないのは当然であります。

しかしながらまぁ何というかダッシュボードに更新されるビュー数やスキ数には無関心でいられないわけで。何かを書いてはその動向を見守るわけです。

すると面白いことに何となく大きなうねりというか”動き”が見えてくるような気がしまして、ささやかなトライ&エラーを繰り返しながらそれを探ってみたりするわけです。


■書き手が見えるか

僕が大きな分岐点に気付いたのはこの違いに着目したことが大きかったかもしれません。

①書き手が見える場合

文章の中に個人的な想いをふんだんに盛り込みます。ただ、一方通行で感情的にならないようになるべく読書などを通じて得た知識と絡めて語るように心がけます。
しかし最終結論は自分の想い、自分の意見です。

この場合、その考えに同調してくれた場合に「スキ」に繋がりやすくなります。これはAとBならAの方が良い!と思っている人に向かってAが良い!!と言えばいいだけなので比較的簡単です。
ただ、別にスキの数を競っているわけではないので思ったことを素直に書きますが、それでも同調者が多い場合はスキの数は増えます。


②書き手が見えない場合

一方で、感想文ではなく調べたものを整理して書く場合などは、自分の意見など無く淡々とした文章が綴られます。
正直自分のために調べて、理解しやすく(数値化などして)整理して、備忘録兼ねて書いているのですが、この場合は書き手の存在感が全くなく恐らく読む側の感性に触れるような表現はほとんど無いはずです。

その証拠にスキが付く場合はほとんどありません。
が、一方でビュー数は継続的に伸びていきます。もちろんキャッチーなタイトルが付けられているかだとか、書かれた分野がニッチすぎないか、ということには左右されますが、不思議なことにビュー数はそれなりに伸びるのです。


■どちらが正解か

明確に白黒つけられるものではありませんが、僕はどちらかと言えば後者、つまり書き手が見えない文章を書きたいなと、最近すごく思うようになってきました。

もし書き手が見えるのであればそれは手紙だったり、読書感想文の類になってしまう。もしそうなら思う存分、思いの丈を書きなぐればいいんですが・・。

しかし、
そこにあるものを伝えるような文章はもっとドライで淡白であるべきなのかもしれません。そして素晴らしい文章は、そんな淡白な中にも温度を感じるような表現であり、文章構成があり、それを支える丁寧な調査(取材)があるのだと思います。
ただ事実を伝えるだけでは実況中継になってしまいますから。


文章は奥が深い。ビュー数やスキ数はそれらを調査するための指標として活用すればとっても面白いのではないか、と思うのです。


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