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【掌編】潮騒(BFC3落選作)

 朝焼けがどこまでも続く海から昇ってくる。潮風が吹き、真っ白な砂浜の下に埋められた骨や金属製の勲章、珊瑚の死骸などを曝けだした。木桶を抱えたニミルはそれらをひょいっと避けて、みぎわへ向かう。
 波の打ち寄せるみぎわには、海のはずれから流れ着いた船が乗りあげていた。新しいものから風化して壊れたものまで。ミニルは指を折って数えたが、両手で足りなくなったので諦めた。その先の数字をミニルは知らなかった。
 ――海には、“人だったもの”が大勢いる。私らは決して、それに触れてはいけないのさ。
 船を見るといつも、おばばの言葉が頭をよぎる。ミニルは身震いをしてから、難破船の一つに乗りこんだ。
 損傷の少ない船に“人だったもの”の姿はない。甲板に落ちていた三角帽に黙礼をして、ミニルは船内を探索した。成果は未開封の木箱やロープ、蝋燭、衣服等々。上々だ。
 ミニルは顔をあげて、砂浜の一角にある墓場へ目をやった。船員の衣服は埋葬することになっている。陸へ帰してやるのだ。
「すこし、貰います」
 誰となく声をかけて、ミニルは木箱の封を切った。島民は、難破船の物資を頂いて生きている。もう何十年も前から、その生き方しか知らなかった。
 中身は封のされた酒瓶や干肉、それから艶のある林檎だった。新鮮な果実を積んでいる船は滅多にない。ミニルは歓声をあげて木桶に食材を詰めた。期待を込めて、もう一つの木箱も開ける。
 箱を覗くと、鼻の奥まで獣の匂いが充満した。“人だったもの”の腐敗臭とも違う、生きた獣の匂いである。ミニルは目を輝かせると、そっと腕を伸ばした。
 それは手のひらサイズの、真っ白な獣だった。島で見る鼠よりも大きく、鼓動も遅い。頭部には細長い耳も生えている。ミニルが好奇心に駆られて触れようとすると、獣はばたばたと胴を蹴り、手を噛んだ。
「いたっ」
 ミニルが手を離すと、獣は船内へ着地する。そのままひょいっと船の縁へジャンプし、警戒するようにこちらを見た。
「そっちはだめだよ」
 下は海である。ミニルは縁からを降ろそうと近寄った。しかし、獣は牙を剥いたまま、ずりずりと後ろへ下がっていく。危ないよ。ミニルが手を伸ばすと、驚いた獣は足を滑らせ、海へ落ちてしまった。ぽちゃんと音がする。ミニルははっと息を飲んだ。覗きこむと、白い獣は波の間で見え隠れしている。
 ミニルは履物を脱ぎ飛ばし、船底に貼りつく足を引き剥すと、海へ飛びこんだ。
 冷たい海水が足裏を伝い、全身を凍らせていく。船の下はミニルの膝丈ほどしかなかった。ミニルは白い獣を追いかけて沖へ進み、海面が腰まで迫ったところで、ようやく捕まえた。白い体毛はぐっしょり濡れ、小さく身体を震わせている。
「ごめんね。怖かったね」
 ミニルは獣を慎重に包みこみ、砂浜へ戻ろうと足を踏みだした。しかし、海は沖へ向かって流れ、陸地へ戻るミニルを引き留める。一歩が重たく、踏ん張っていないと引きずられそうだった。日差しが首筋を焼いて熱いのに、腰から下は凍えそうなほど冷たい。
 重たい足を一歩ずつ動かしていると、背後で波が弾けた。海面にぶつかる鈍い音にミニルは振り向く。遠くでは高い波が次々にあがり、海に還っていた。船に乗っていた人々も、あれに飲まれたのだろうか。ミニルは島にある難破船を思い、ぞっとする。陸へ戻ろうともがいても、波に引かれ、冷たい海の奥へ沈んでいくのだ。考えているうちに恐ろしくなって、ミニルは砂浜へ目を向けた。足は痺れ、痛みを訴えている。それでも足を動かすと、水位は少しずつ下がっていった。
 海面が膝丈まで下がったところで、足元から地鳴りのような音が聞こえた。沖に向かって、強く足を引っぱられる。ミニルは前のめりになって堪えた。海底の砂が引きずられ、波に飲まれていく。その音は“人だったもの”が仲間を呼んでいるようだった。
 一度海の音に耳を澄ましてしまうと、ぞわぞわと何かが這い上がってくる。それはミニルの足を掴み、身体を縛り、動く自由を奪った。砂浜は目の前なのに、ミニルは一歩も足を動かすことができないでいる。
 いまやミニルの背後には、荒波が迫っていた。引きこむ力が強い分、波も高い。ミニルは身じろぎもせずに目をつぶった。このまま波に飲まれて、自分も“人だったもの”になるのだ。そうしろと、海も囁いていた。
 襲いくる波を身構えていると、痛みが走る。見ると、腕に獣が噛みついていた。滲んだ血を獣は舐める。鮮やかな痛みは、海に囚われたミニルを解放した。
「走れ!」
 波の音が遠のき、砂浜から声が聞こえる。はっとして、ミニルは足を踏みだした。一歩、また一歩と身体は動く。足取りは次第に軽くになり、ミニルは砂浜に向かって駆けた。引き留める声はもう、聞こえなかった。

 真っ白な砂浜に辿り着くなり、ミニルは座りこんだ。足には少しの力も残っていない。白い獣は砂に潜りこみ、暖を取っている。
「よかった……」
ほっと息をはいて、ミニルは周囲を見渡す。砂浜には誰もいなかった。かわりに三角帽がひとつ、落ちている。
 ミニルは少し休んでから、砂浜の一角にある墓場に向かった。穴を掘り、三角帽を埋めて、手を合わせる。
白い獣は、隣で小さく鳴いていた。

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