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お別れの記録

みなさまお久しぶりです。

先月、母が亡くなりました。
明るい話題ではないのですが、自分の気持ちの整理のためにnoteにします。
読んでもいいよという方はお付き合いください。
また次からは普通のエッセイを書くと思いますので、よろしくお願いします。



母の病気がわかったのは、昨年に私がマルシェにでるよと連絡をした時でした。
実家の滋賀県から名古屋は車でよく行く場所。
だから来てくれるって思ってた。
だけど、返事は「無理かも…。」でした。

電話した日の週末には、入院するという。
すぐに実家に帰ると言うと、コロナの関係で病院には来れないよ、だから来なくていいと。
また、副作用とかもわからないから、とりあえず来なくていいと言い張った。

その話している時は、普段と同じような印象だった。
むしろ、おちゃらけていて「見たかったなー次男くんのランドセル姿!」なんて他人事みたいに言うもんだから、私はてっきり治る見込みがあるんだと思った。

けれどお父さんやお兄ちゃんに連絡して、これからの治療方針を聞いたりすると、どこか曖昧で、不穏を感じた。
つまるところ、手術で切除しにくい場所であること。
患部が腫れていて、小さくする必要があること。
などなど色々と聞いて、本人の自覚症状を照らし合わせて自分なりに調べたが、どうやら手遅れなぐらい末期の症状だった。


そうして年明けに会ったお母さんは、想像していたよりは普通だった。
少し痩せて、髪が減っていたけれど。
ただ、普通に起きて、ご飯食べて、お風呂へ行って、眠る。
それが仕事のようになっていた。

でも、お父さんに聞くとそれくらいから身の回りのものを沢山捨て始めたそうだ。
「もう使わないから」と言って、よく使っていたバッグなんかもどんどん可燃ごみに出したらしい。
その気持ちを想像したら、涙がでてしまうし苦しい。

次もまた会えるって思ってた。
でも、次はなかった。
帰る直前に緊急入院になってしまい、会えなかった。

そして、病院から一時帰宅するタイミングで会ったお母さんは、もう話すことが出来なかった。
目は合うけれど、意志は感じられなくて。
手は繋ぐけれど、私のこと、わからないんだなぁと思った。
でも、沢山感謝の言葉を伝えて、会えて良かったと伝えた。


帰る日の朝、帰るね、そう言うと両手を伸ばしてくれたからハグをした。
やっぱりわかってるって思ったけれど、その後はまた違う所を見てた。
でも、いいやと思った。

その翌週には、病院に戻ることになり、さらに悪くなっていた。
リモート面会しかしていない病院やったけど、個室だからちょっとだけ会わせてもらった。
すやすやと眠っている様子は、苦しく無さそうで安心した。

それから、日々のお父さんからのLINEにドキドキしていた。

朝に突然の電話。
前もって荷物を詰めておいた方がいいと、わかっていたのに空っぽのままだったスーツケース。
急いで、色んなものを詰めて、子ども達と電車に乗った。


病院で会ったお母さんの呼吸は、とてもゆっくりになっていた。
私は、その一息一息を見ていた。
その夜、お母さんは死んでしまった。


ずっと病気がわかってから「なんでだよ!」って思ってた。
お母さんはずっと頑張ってきた人だったんだ。
おじいちゃんが病気になった時、お母さんは仕事を辞めた。
その後、介護を続けて、勉強して介護福祉士になった。
お父さんは単身赴任だし、私たちは中高生だし、おばあちゃんも足が不自由だった。
きっと毎日大変だったけど、お母さんの「疲れた」とか「もういや」とか、そういう愚痴を聞いたことはほとんどない。

その後、おばあちゃんの介護もして見送って、私やお兄ちゃんの子供たちが小さい時も手伝ってくれて。
やっと、やっと自分のために使う時間ができたところだったんだよ。

もし、世の中の人を「いい人」と「悪い人」にわけるとしたら、お母さんはきっと「いい人」なんだよ。
毎日、お仏壇にご飯を供えて、お花を供えて、お線香をあげる。
それなのに、なんでだよ。
なんでだよ。

心が苦しかった。
もしかしたら、もう会えなくなるかもしれないのに、何もできない自分。
正しく生きるってなんなんだろうという、疑問。
楽しい時にすっと胸を刺すような、冷たい気持ち。


でも、そんな気持ちはなくなった。
お母さんに「なんでだよ!」とか「いかないで!」って言うのは違う。
ただ「ありがとう」って気持ちしかないんだ。


私はずっとお母さんは私のことを、あんまり好きじゃないと思っていました。

なんで?と言われたらなんとなくでしかないのだけど。
およそ友達のお母さんとの関わり方とうちは違ったから。

友達の家にお泊りに行くたびに、「あぁふつうはこういう感じなのだな」と思った。
私は愛されていないわけじゃないけど、お母さんはそこまで私に興味がないんだなと思っていた。

だけど、それは間違いだったんだなと思う。
わかりにくいだけで、お母さんは私のことを色々と考えてくれていたんだなと思う。

実家には家を建て替えた時にガスオーブンがついた。
お母さんは料理があまり好きではなかったのに、どうしてガスオーブンが?と思ったけれど、私はすごく喜んだんだ。
お母さんに「すきに使っていいよ」って言われて、私はガスオーブンでお菓子や料理を作り始めた。

どうしてお菓子を作り始めたのか忘れていたけれど、それはお母さんがガスオーブンを私に使っていいよって言ってくれたからだって急に思い出したんだよ。
自分で勝手に好きになった、選んだと思っていたけれど、お母さんがきっかけをくれたんだった。
本当に記憶はあいまいで、私は自分勝手なのだな。

他にもいろいろ、私が選ぶことのぜんぶ、いつも肯定してくれていたな。
それって当たり前じゃないなって思う。


葬儀の後に、お兄ちゃんとLINEをしていたら「やばい、喪失感に襲われている」ってきたんだ。
私は、変にかっこつけたり、我慢せずに素直にそう言えるお兄ちゃんがいいなと思った。
ずっと気持ちを押し込めて、悲しい時に我慢して平気なふりを私はずっとしてきた。

だけど、今回はちゃんと泣けたんだ。
だから、お兄ちゃんにも泣けばいいよと言う事ができた。
いっぱい泣いて奥さんや子どもたちに頭をなでてもらえばいいんじゃないかと思ったんだよ。
大人でも、男でも、父親でも関係ないと思ったんだよ。
こうして、世界に対して素直に心を開いていけば、世界も素直に優しい反応が返ってくるんだ。

人はそうやって生きていけばいいと思う。

悲しい時は泣いて、誰かに励ましてもらえばいい。
そして、誰かに優しくしたい時は、優しい言葉をかけるんだ。
いつだって自分が吐く言葉は世界を呪うものじゃなくて、いいものでありたい。

ひとつだけ心残りがあるとすれば、お母さんの気持ちがわからないこと。
お母さんは自分の好きだったものを、沢山捨てていた。
きっと残された人が困らないように。
だから、自分の怖さや悲しさを私たちに伝えなかった。

それは大きな優しさかもしれない。
けれど、とても孤独で辛いことだと思う。
我慢していたと思ったんだ。

だけど、お父さんが言うには「お父さんの面倒を見れないことが心残りだ」と言ったらしい。
自分が苦しい時に、どうしてそこまで言えるのか?とお父さんは思ったらしい。あぁ、我慢じゃなかったのか、と思った。
もし我慢だとしても、それを見せないという強い意志を感じたよ。
私が思うよりも、ずっとお母さんは素晴らしい人だったんだ。


すっぱりと気持ちが切り替えられていると言ったら、そうじゃないのかもしれない。
でも、私よりも若いころに親を亡くした人も知っているし、子どもを亡くした人も知っている、友達を亡くした人も知っている。
自分だけが辛いなんてことはないと知っている。
だから大丈夫という訳でもないのも知っている。
でも、きっとそれでいいと思う。


時々、悲しくなっちゃうけれど、ぜんぜん元気。
それがわたしです。

なかなかnoteを書けなくて。
わかんないけど、優しくされると涙がでちゃうから、きっとnoteの人達は優しいから、逆に足が遠のいてしまいました。
なかなか支離滅裂な文章になってしまいましたが、自分の中では気持ちの整理がついたかなと思います。
落ち込んでるとか、ふさぎ込んでるわけではないので、またふざけたnote書きたいなって思います!!



長文お読みいただきありがとうございました。

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