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「クィアに聴いてほしいボカロ曲を紹介する」なんて言える幸せな日が来ていたらしい

 今でこそ言うと驚かれるようになったが、昔から連綿とオタク趣味をやっている。小学6年生のとき、大好きな小説が深夜アニメ化したのがきっかけでこの深く広大な世界の扉を開いた。アニメが今よりずっとアングラな扱いだった時代である。あっという間に他の作品も見始め、好きなキャラに声を当てる人たちを好きになり、彼らが作品について話すラジオを必死に追った。オタクだらけの女子校社会という環境も作用して、アニメを1クール10本以上見ながらTwitterで騒ぎ散らす中学時代、ニコニコ動画とpixivを見漁り同人誌即売会に赴く高校時代を謳歌した。受験勉強はアニメ声優ゲーム実況をBGMに泳ぎ切った。こうして養い続けた逆張り精神のおかげで未だに日本のドラマは数本しか見たことないし、メジャーな俳優も歌手もあんまりわからない。(これを恥ではなく自慢のように書きたくなる程度には、今でも世間に逆張りしたい幼稚な身振りを捨てられない。)
 オタク生活はそれはもう楽しかったが、その後大学に進学し、勉強し、留学し、視野が広がり続ける中で、自分と「彼ら」との間にぐーっと広がり続ける溝のようなものが発生する。残念ながら他の多くの界隈と同じように、この界隈にも女性を性的客体として前提する発言や、マイノリティを笑いのネタとするノリが散見された。「あ、これ違和感を我慢して笑ってちゃいけないやつなんだ」とやっと意識することができるようになったわたしは、逃げるように留学先でクィア映画や海外ドラマを見るようになり、YouTubeではkemioだけを追うようになった。
 それから数年経って現在、昔の趣味の中では、声優さんは業界の潮流か危うい発言をする人が明確に減ったこと、アイデンティティは明言しないがクィアな振る舞いを持ち込んで新しい風を吹かせてくれる若手が複数いることが幸いし、好きな人たちをゆるゆる追うことができている。他では相変わらずkemioちゃんを推しながら、コロナ禍には卒論執筆中の精神低迷期に韓流のヨジャドル沼に飛び込み、最近は海外クィアドラマに心酔したりして、推しの幅がどんどん広がっていっている。
 色々なものに心が喜ぶ瞬間は本当に嬉しいもので、彼らは新しく眩しい世界を教えてくれたけれども、残念なことに昔ほどコンテンツやタレントに入れ込めなくなっていることもまた明確に自覚していた。やっぱりどうしようもなくずぶずぶにインターネット育ちなので、根っこへの回帰欲求がどこかにずっとあり、それに蓋をしてふわふわ上空を彷徨いながら、ぱくぱくと「大丈夫そうなもの」をつまみ食いしている状態なのだった。いつも何かを深く溺れるように愛していたいはずが浅く多くを推す日々が続いており、そういう生活は精神的に健全でありつつも常にどこか渇いている。

 そんな中で、細かい経緯は割愛するが、最近久しぶりに拝見していた元歌い手現実況者が唐突に数年ぶりの歌ってみた動画をアップしたことを契機に、わたしも高校生ぶりに歌ってみた界隈のリンクを踏むことになり、なし崩し的にボーカロイドの新しいプレイリストを聴くことになった。
 わたしたちの時代のボカロといえば、今や国民的歌手の米津某氏を筆頭にシリアス曲を投稿する人たちと、そのまま書いたら記事ごとBANされそうなドギツイ下ネタ曲やネタ曲を投稿する人たちと、というざっくり二分された世界だった印象(修正受付け中)だが、現在、良くも悪くもボカロシーンは一新されているように感じられた。ボーカロイドの滑舌が良くなり、下ネタノリはなく、昔の重層的な曲と比べ圧倒的に音が減って、普通のポップスみたいなお洒落な響きをしている。一方で何を言っているかよくわからない歌詞が多いところは変わってないな、などとぼんやり思いながら再生リストから流れてきた歌詞が頭の隅にこびりつき、何度か流し聴くうちに確信を持って曲名で検索をかけた。

 『ヴィラン』というその曲は、終始自分をヴィラン(悪役)と呼称する主人公が「きっと手を繋ぐだけでゾッとされる」と独白するところから始まる。よくある自己嫌悪系かな〜と聴き流そうとすると、「突然変異(ミュータント)じゃない、ただの僕さ」「XとかYとか」と続き、アレ、と耳を引っ張られ、1番のサビで「違う服着て君の前では男子のフリする」と仄めかしが入り、「逸脱の性をまたひた隠す」から始まる2番ではっきりとトランスジェンダー女性の鬱屈と葛藤が描かれる。

公式動画。人の声で聴きたい場合はこちらこちらなどがかっこいい。

 「雄蕊と雄蕊じゃ立ち行かないの?」から未オペ(手術していない)で性的指向は男性(ヘテロのトランス女性)と推測できる。その後出てくる乱歩ってなんだと思ったら、江戸川乱歩の初恋は男性だったとされ、作品にはしばしばクィアの人々が登場するらしい。「誰も知らない 知られたくない皮膚の下」では、つらくてうわあ…と声が漏れた。
 秀逸なのは、鬱屈とした自己の内実の吐露に終止しないことだ。自身の将来には「造花も果ては実を結ぶ」と希望を持っているようにも見え、むしろ「ぶるってんじゃねえよ 多種多様の性」と、現代社会への強い風刺がメインに展開されている。以下の2点には舌を巻いた。

べき論者様は善悪多頭飼い
僕が君を "侵害" するって言いふらしてる

 ダブルスタンダードなんて誰しもやったことがあって耳が痛いものだが、その美しく憎らしい言葉選びと、続く主にTERFへの批判と思われる2行目には思わず感嘆の溜息が漏れる。

残酷な町ほど綺麗な虹が立つ
猥雑広告に踊るポップ体の愛

 ビジネスに利用され食い尽くされるLGBTQ+のプライドフラッグや、炎上する東京プライドパレードの運営は確かにもう見飽きたもんだが、それに乗っかって虹色を振っている身としては、ヒ〜と縮こまって自省を強いられる。ていうか、まさか「あのモヤモヤ」を歌ってくれているボカロ曲があったなんて。

 2022年9月現在、作曲の「てにをは」さん公式YouTubeチャンネル上で『ヴィラン』は2700万回以上再生され、数々の歌ってみた動画(人気声優も歌っていて目が飛び出た)からも1000万再生が出るくらい人気曲なようだ。そもそもこの曲はコロナ直前の2020年2月に投稿されており、わたしが辿り着いたのは随分遅かった。
 でも、そもそもこの数年間、ボカロ曲を聴こうなんて思うことすらなかったのだ。理由は明確で、これはきっとオタクには理解されると思うが、ジェンダー含め政治的なことを考えながら堂々と二次元のオタクをするのは少し難しい「空気」がある。わたしは美少女コンテンツを率先して見ないのでよくあるオタクポリコレ議論が特別つらいわけではないが、なんとなくGLEEを見て育ち、余暇にはセックス・エデュケーションを見て、ガガのライブに行くことが「正しい」かのようなアメリカポップカルチャー万歳の雰囲気の中、わたしはブリタナもBorn this wayも大好きだから息苦しいわけではないけれど、「ニコニコ動画で育ちました、声優さんが好きです」と敢えて主張しようとは思わない。リベラルな政治運動はほぼ全て西洋発祥だし、彼らの文化が正とされることには完全に納得がいくものの、問題はその蔓延したある種の西洋中心主義を吸い込み続ける中で、愚かにも自分で本来の趣味趣向自体を思い出そうとさえしなくなったことだった。
 そういう空気にまんまと流されて数年間生きた結果、新しい愛にたくさん出会えたし、その喜びに嘘はない。しかし、おかげで足が遠のいていた間にこの曲を2年以上も見逃していたと思うと、何だかとんでもない損失をしたなと茫然としたくなるのも事実だった。
 だって、これがホモ、ホモ、あははと言って笑っていたあの同じ界隈から生まれ、10年前ホモ、ホモ、あははと言うのを笑って聞いていた私が聴いているんだ、と思うと、ああ奇跡って起こるんだなと鼻の奥が痛むし、なんだか勝手に贖罪させてもらっている心地になるのだった。勿論他人の作品に乗っかって自分の過去が消えるわけではないのだけど。

 ひとつの曲が特別良かったからと言って、この界隈でオタクをしていて全く「大丈夫」になったわけではないのはよく承知している。先日も上述の歌い手がホモかよ、と言っていてオイと1人で突っ込んだ。(同時に、明らかに共演者の反応が鈍く、あ、笑いが取れない言葉になりつつあるんだな、と嬉しい驚きも得た。)
 しかし、少なくとも0ではなく1なのだと知れたことで、心の根っこの部分がはっきりと救われたのを感じる。昔は美少女に卑猥な歌詞を歌わせるための装置として機能したことさえあったボーカロイドで、悲しいことに最も物議を醸す話題の一つであるトランス女性のストーリーテリングが行われ、しかもこんなに再生されている。この曲を聴いた人たちが2700万回分世界のどこかにいるんだと思うと、「クィアだけどこの曲聴いて安心した」とコメントしている人たちのことを思うと、きっと知らないところで世界は良い方向に変わってきているんだなと、わたしもわたしの好きなコンテンツたちも不可視の連帯の中にいるんだな、と大きな波のような安心感に包み込まれる心地がするのだ。
 自分は比較的好きと正しいが連動する方で、正しくないと感じるものは好きでいられない。その矛盾を許せる人も多いようだし、それはその人の人生にとって好ましいことだと思うが、わたしには大概難しい。というかそれ以前に、好きと正しいの間で葛藤するのも疲れるので、「これはおかしい」と明確に感じる前に予兆を嗅ぎ取って逃げる。それは心にとって良いことでありながら、同時にひとつの愛の喪失を意味し、つらく悲しいことでもあるのだった。
 愛は自分勝手な行為であり、それゆえ何かを愛するのは本当に難しい。これからもわたしは矛盾を許せないだろうし、多くの愛を発生させては失っていくだろう。でも今日、ほとんど失ったと思っていた最も根っこの部分の片鱗を信じられないことにこの手に取り戻している。これからどんどんその続きを手繰り寄せて、昔のように堂々と愛してみようと思う。そのなんと誇らしいことか。みんな是非聴いてみて、と言えることのなんと有難いことか。この感謝の気持ちと共に、中高時代の自分のインターネットに準じた差別的な笑いや明確にまずかった言動たちを昇華するのではなく、繰り返すものかと足首に括り付けて生きていきたい。やっと自身の加害の過去を背負う覚悟ができたのかと思うと遅すぎて苦笑だが、そうすることできっとまた、100%の愛を持ってオタクができる気がするのだ。





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